友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

昼食は孫娘の友だちと

2009年02月28日 20時03分34秒 | Weblog
 朝から孫娘のところに友だちが遊びに来た。孫娘が「お昼ご飯、友だち二人も一緒でいい?」と聞いてくる。孫娘は宅配ピザが50%オフというチラシを持ってきて、「友だち3人で部屋で食べるから」と言う。これならジジババに迷惑とはならないだろうという彼女なりの配慮だ。「いいよ、ここでみんなで食べよう。ピザでなくても食事ができればいいんだよね」と聞くと、「ウン」と答える。

 友だち二人というのは、近頃よく遊びに来ている子たちで、一人は母子家庭でもうひとりは父子家庭だ。父子家庭の子が学校へ通えなくなり、担任から一緒に登下校するように言われて面倒をみるようになり、仲良しになったようだ。昔、中学の時に先生が「類が友を呼ぶ」と皮肉っぽく言っていたことを思い出す。「朱に交われば赤くなる」とも言っていたけれど、どうして悪いことのように使っていたのだろう。逆の場合はないのだろうか。

 孫娘の母親である長女もよくお昼に友だちを連れてきた。その頃、私は主夫業だったのでその子の分までお昼ご飯を作って一緒に食べた。その友だちも父子家庭だった。おとなしくて無口な子で、話しかけてもほとんど話さなかった。中学になってからは一度も会っていないが、今はどうしているのだろう。不思議な縁で、その子のお父さんとは飲み友だちになり、昔の話も出る。「子ども同士、足が速くて、ライバルだったよな」とよく言われる。娘さんは近くに住んでいて交流があるように言われていたけれど、近頃はそんな話も出ない。

 孫娘が友だちと3人でピザを食べたり、コンビニ弁当を食べたり、そんなことは絶対に許さない。食事をするならば、準備から一緒にした方がいいと思っていたら、カミさんが子どもたちを呼んで、それぞれに役割を分担させて手伝わせていた。食事の時間はテレビがついていたので、消してしまうかとも思ったが、そこまでしなくてもいいかと迷った。しかし、テレビを見てしまうのでやはり会話は進まなかった。失敗である。

 食事の後片付けは子どもたち3人でやった。洗剤で洗う人、水洗いする人、タオルで拭いて並べる人。仕事の後を見ると食器は大きい順にキチンと並べてある。やればできるではないかと感心した。食器洗いをしながら3人が話していたことは、どうやら家族、母親や父親への不満であるようだ。ジジババは第3者であるのか、子どもたちのことを余裕のある目で見られる。親なら、「何を言っての、えらそうに!」となってしまうだろう。

 我が家で食事をすることで、はけ口のひとつになってくれるならばそれでいいと思う。ワイワイガヤガヤやりながら、どうでもいいことが話題にできる、それが家族の食卓である。そんな場があれば、人は悪いことに走らない。見つめてくれる人がいる、わかってくれる人がいる、愛してくれる人がいれば人は幸せなのだから。
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船橋楽器資料館はすごいぞ!

2009年02月27日 22時44分15秒 | Weblog
 今日は大和塾の2月例会で、岩倉市にある『船橋楽器資料館』へ出かけた。ここには世界各地の民族楽器約1300点が収集されている。館長の船橋靖和さんが長い年月をかけて集めた貴重な楽器資料館だ。私設では日本一とも言われているが、実際に今日見学させていただいてそのとおりだと思った。

 ヤンマーの国立大学にも無いといわれる「ビルマの竪琴」やアマゾンの奥地で丸太をくりぬいた太鼓や、とにかく珍しいものがいっぱいある。宝石を埋め込んだ高価な楽器から、木の棒に糸を巻いただけの素朴なものまで、値段などつけられない船橋さんの思い出が詰まった貴重な品々である。

 幸いにも船橋さんがみえたので、楽器の一つひとつにまつわる思い出や楽器の素材、演奏の方法、歴史など、盛りたくさんの話を聞くことができた。こんな大切な体験は私たちだけに留めておくことはもったいない。ぜひ、大和塾の市民講座で講演をとお願いしたところ、快く引き受けていただき、5月23日(土)の午後に開催できる運びとなった。

 「有史以前から、世界のあらゆる民族が、音を楽しむためにいかに智恵を絞ってきたか、人間にとって音楽とはなにか」と船橋さんは熱っぽく語る。夫の身勝手な収集にあきれながらも支え続けている妻の口から愚痴は聞けなかった。むしろ、心が温まるような美味しいコーヒーを「どうぞ」と言う時の笑顔が印象的だった。

 楽器といえば、午後からは孫娘の中学校で『卒業生を送る会』があり、孫娘は「全員合唱のピアノ伴奏をするから見に来ていいよ」と言って出かけていった。例会が早く終わるかわからなかったので、確約はしなかったけれど、間に合う時間であったので出かけていった。それに先生方によるアンジェラ・アキさんの『手紙』の合唱が聞きたかった。難しい曲なので生徒たちが歌うようなレベルには達しなかったけれど、その心意気には感心した。会場の生徒たちからは手拍子も沸き起こった。

 孫娘のピアノ伴奏は比較的落ち着いてできていたのに、先回のピアノの発表会と同じで最後にきてちょっと息切れしてしまった。それでも実際、時間のないところでよく頑張ったと思う。『送る会』は卒業式のような堅苦しさがなく、だからといってだらだらと続くということでもなく、生徒たちがそれなりにテキパキと役割をこなし、盛り上げていた。最後に3年生が男女1組ずつ、在校生の拍手の中で退場していくのだが、下を向いたまま足早にいく子が多い中で、保護者席に向かってピースサインを送る愛嬌のある子もいた。

 私たちの頃とは全く違う卒業の儀式に、子どもたちの参加意欲と先生たちの努力とを感じた。中学の3年間、そして18歳になるまでのこの後の3年間、きっと多くの思い出が生まれるだろう。
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河津桜を見てきました

2009年02月26日 19時38分15秒 | Weblog
 伊豆半島の河津桜を見るために、たくさんの人がやってきていた。この日は平日でしかも雨降りだったから、人出は少ないに違いないとの予想は外れた。雨にもかかわらず、傘を差して、桜を眺める人の列が途絶えることはなかった。4日前にバスツアーで見学に来た人の話では、「青空の下で濃いピンクの河津桜は見事だった。満開だったけれど、まだ間に合うわよ」ということであった。

 駐車場が少ないので、伊豆急行で来る人が多いというが、見ていると確かに駅から大勢の人が降りてくる。私たちは伊東温泉で泊まったけれど、その宿の客は「手前の伊豆高原駅まで車で行き、そこに駐車して列車で河津へ行く方が賢明」と教えてくれた。確かに“伊豆高原駅に停めて、河津桜を見に行こう”というパンフレットまであった。せっかく教えてくださったが、私たちの仲間は「こんな雨降りだから大丈夫」と強気だ。

 翌朝、車に乗り込み河津へ向けて出発した。静岡県の道路標識には驚いたり腹を立てたりで、本当に泣かされた。同じ番号の国道が二手に分かれていたり、行き先の標識を当てにして進めていくといつの間にかその標識がなくなったりして、困った。おそらく土地の人なら、わかりきっていることなのだろうけれど、始めて行く者にとっては理解しにくい。河津への途中にある伊豆高原駅はリゾート地にあり、周りにはたくさんのミュージアムが立ち並んでいた。私たちの仲間が「どうしても行って見たい」と言うので出かけた『アンティークジュエリーミュージアム』には40部にも及ぶパンフレットが置いてあった。

 河津に近づくと車の量は幾分多くなってきた。それでも心配なく駐車できた。さて、河津桜はと見ると、やはり花の盛りは過ぎている感じだった。すでに若葉が広がりつつある。暖かさとこの雨のせいだ。雨にもかかわらず「どうしてこんなに大勢の人がやって来るんだろう」と話しながら、「私たちもそのひとり」ということを忘れている。人も多かったけれど、桜の木の数と同じくらい出店も多かった。露天商というよりも素人がやっているような店が多いように思った。実際はどうなのか、確かめてみたい。

 毎年、五条川の桜の下で「夜桜の宴」を行なってきている私たちには「河津桜はそれほど感動的ではなかった」。桜の木がまだ若いから見事な枝ぶりとまでになっていないからだろう。五条川の桜の幹は河津桜の4から5倍はあり、そんな桜がつながる並木は見事さで群を抜いている。それに「ソメイヨシノ」は豪華さと華麗さと可憐さを併せ持っている。「河津の皆さんに一度は五条川の桜を見に来て!と言わなくちゃーいけないね」などと地元ひいきが出てくるからおかしい。

 話題の「河津桜」を見ることが出来た。雨で寒かった。もう一度来ることはもうないだろう。さようなら、河津桜、大きくなれよ。
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それはない

2009年02月23日 18時59分12秒 | Weblog
 明日、静岡県伊豆半島の伊東温泉に誕生日会の家族で出かける。そのため、明日と明後日はブログを休む。一番の目的は河津桜の見学だけれど、どうやら天候はよくないみたいだ。これまで10年近く一緒にいろんなところに出かけてきたが、「晴男」「晴女」のせいで、雨に降られるということがなかったけれど、どうやらその神通力が効かなくなってきたらしい。

 その河津桜をテレビが実況中継していた。現地を紹介していたタレントが桜を見に来ていた人たちに「(この番組を)見ていますか?」と尋ねていた。聞かれた人は「いつも見ていますよ」と答えた。するとタレントは「本当ですか?じゃあ、先週はどこを取り上げていました?」と聞いた。マイクを向けられたその人は答えられず困っていた。タレントは答えられずにいる姿を視聴者が面白がると思って聞いたのかもしれないが、私は不愉快に感じた。

 「いつも見ていますか?」と問われて、「いいえ、見ていません」と答えることは番組に失礼だと考えるのが一般的だろう。「見ていますよ」と答えるのは社交辞令というものだ。正直に答えるよりも差しさわりのない方を選ぶように、残念ながら日本人はしてきた。けれども、それをわざわざ「じゃあ、先週はどこでした?」と聞くこともないのではないか。急に聞かれて戸惑い、すぐに思い出せない場合だってある。タレントなら相手を思いやる気遣いを大事にして欲しかった。

 中川昭一財務・金融大臣が辞任した時、「政権に影響はありませんか?」と記者に質問され、「影響は全くありません」と答えた麻生首相には驚いた。この人は言葉を知らないとは思っていたけれど、言葉を知らないばかりか人としての思いやりもないと思った。中川大臣が世界中の目の前に恥ずかしい醜態を見せてしまった時は、「辞任させることは考えていない」と言ったのは何だったのか。麻生さんは首相として経済問題が一番大事だと考えているのだから、その適任者(とは私は思わないが)である中川大臣の辞任は大きな痛手であるはずだ。「全く影響ない」と言うのは中川昭一の存在否定である。

 私は、中川さんは信条的に嫌いなタイプの政治家で、しかもバチカンでミケランジェロの作品に手をかけるという常識のない人だから、政治家そのものをやめてもらいたいと思っている。それにしても、麻生さんは自分を検証できない人だと思う。中川さんを大臣に任命し、あんな醜態をさらしてしまったのに辞任させない、辞任したなら「影響はない」と言い切る。首相の座に居座りたいだけの人という点で東條英機とよく似ている。二人とも政治家としてきちんと判断できなったためにそのツケを国民に回した。

 恋している時は「あばたもえくぼ」である。相手が好きでたまらないのだから当然だ。恋が冷めるといやな面ばかりが目に付くという。言葉に気を配るなら、恋も長続きするだろう。そうしてみると、麻生さんは恋などしたことがないのかもしれない。
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4度目の『60歳の集い』

2009年02月22日 19時14分49秒 | Weblog
 昨日は4回目の『60歳の集い』が開かれ、出席した。還暦を迎えた人たちの多くは第2の人生を歩むことになる。そんな人たちが地域でつながりを持ち、活動するきっかけになればと社会福祉協議会の提案で始まったものだ。昔、この地域は小・中学校がそれぞれ1校しかなく、したがって顔見知りばかりだから結束力も強く、今でも中学のクラス会を1年に2回行っているそうだ。今日ではその当時の人口の5倍に膨れ上がり、中学校は6校、小学校は10校にもなった。

 初めて『60歳の集い』に参加した時は、同じ歳というだけで集まるこの会はまるで自分だけが「ヨソモン」といった感じだった。ここで生まれ育っていない私たちのような「ヨソモノ」が85%にも達しているのに、地元の人たちが「ちゃん」付けで呼び合うのを聞きひどく疎外感を持った。私はこのまちでミニコミ新聞を発行してきたし、議員にもなったから、知り合いも多かったはずなのに居場所がないような気がした。この時初めて参加した人はさぞつらかったと思う。第1回に比べて2回目は半分ほどだったのではないかと思う。

 それでも女性たちはまるでこのまちで生まれ育ったように仲がいい。結婚してこのまちに住むようになっておそらく40年前後にはなるだろう。この間に子どもを通して知り合いとなり、保育園・小学校・中学校で付き合いは深まり、町内会やまちのサークルで一緒になり、趣味や旅行やカラオケで友だちになっている。男性は定年になっていきなり地域に溶け込めと言われてもできるものではない。相手がどういう人かもわからず、何を話題にしてよいかも戸惑う。地域のスポーツ団体や文化サークルに所属している男性以外に地域に友だちはいない。

 この『60歳の集い』に参加してきている人も圧倒的に女性が多い。男性で参加している人の9割は地元の人たちではないだろうか。私が始めて参加した時は議員であったし、それに実行委員会の代表は娘の友だちの父親で、私もよく知っている人だったから参加することが当たり前だった。会の会長を務めてくれている彼はガンのため、先回は欠席だったが、今回は治療の合間だからというので参加し、挨拶で自分の闘病生活を語った。

 「会長をしている限り出席するが、死んだらもう出席はしない」と冗談に言えば、「馬鹿なことを言ってはいかんよ。何が何でもみんなで盛り上げていかなくちゃー」と隣の席の男性が話しかけてくれる。釣りが好きで、釣りの話を地元の皆さんと話していたので、私のことは眼中にないかと思っていた。ヘンな人もいて私にわざわざきわどいエロ写真を「あげる」と言ってくれた。「気に入ったらいつでも電話してちょう。まだあるで」と携帯電話の番号まで教えてくれた。そういえば先回、この人に付き合って馬鹿話をしていたことを思い出した。

 地元の女性が「2次会に行くんだけど、行きませんか」と誘ってもくれた。4回目にもなり、私も地元に溶け込んできたのかなと感じた。ここの中学校の卒業生ではないのに、以前から知り合いのように気楽に声をかけてくれることをありがたいと思った。私は今年、小学校のクラス会の幹事であり中学校のクラス会の幹事でもある。まだ、何も具体化していない。中学校の方は、あの「愛の物語を書いてみようよ」と呼びかけている友だちに段取りをお願いしているが、小学校の方は自分が呼びかけないとならないなと思っている。
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アンジェラ・アキさんの『手紙』

2009年02月21日 15時16分53秒 | Weblog
 平成20年度NHK全国学校音楽コンクールの中学校の部の課題曲に選ばれた『手紙』が今、卒業を前によく歌われているそうだ。孫娘の中学校でも「卒業生を送る会」で、先生たちが合唱するという。作詞・作曲はアンジェラ・アキさんという日本人の父とイタリア系アメリカ人の母のもとに生まれたダブルスタンダードの個性派シンガーソングライターだ。プロフィールを見ると1977年生まれというから、私の次女よりも4つ年下である。

 中学卒業までは日本で暮らしていたアンジェラさんが10代の時に、30歳の自分に宛てた手紙なのだそうだ。「今、負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は誰の言葉を信じ歩けばいいの?」と問う。そして彼女は「自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる (略) 今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は自分の声を信じて歩けばいいの」と答え、「人生の全てに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて keep on believing (略) いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど 笑顔を見せて 今を生きていこう」と結ぶ。

 歌詞を読んで気がついた。孫娘にぜひ聞かせたいと言っていたけれど、本当は私に聞かせたかったのか。確かにあの頃、どう生きることが一番よいことなのか、自分がこれからどうなっていくのか、悩んでいた。迷っていた。10代の頃は大人になれば答えは出ると思っていた。孔子は「30にして立つ。40にして惑わず。50にして天命を知る。60にして耳順う。70にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」と言っていた。孔子のような聖人でなくても、その歳になればある程度は、いや年齢を重ねれば、自ずと見えてくるだろうと思っていた。

 ところが60代の半ば近くになっても何もわからない。未だに煩悩の世界にある。自分のやろうとしたことがわかったわけではないが、やっていることが自分の仕事なのだとは思った。迷うようなゆとりがないままに、やり遂げることに全力だった。確かに年老いて人の意見が素直に聞ける。まだ、70までには時間がある。「心の欲するところに従う」ことは間違いなくできるしやってきたことだが、問題は「規範を踏み外さない」にある。そのことを考えると気は重い。やはり孔子のようには生きられない。

 アンジェラさんの歌の中には情熱的なものが結構ある。「あなたの愛は真実に溢れていたにもかかわらず 私は手元を他と比べては満足できずにいた」(A song for you)。「愛で死ぬならキスして殺して」(Kiss from a rose)。「別れた方が二人のため 誰もがきっとそう言うだろう 理屈の手で 正義の目で 毎日裁かれる (略) あなたに捧げられるただ一つのものは この愛のうた 愛のうただけ たとえ妥協に追われても 絶望の影踏まれても この愛のうたを歌うんだ まだ眠りの中のあなたを後にする 愛のうたを歌うんだ」(愛のうた)は具体的だ。想像だけでは創れないような悲しい恋の歌だ。

 「自分の声を信じて歩けばいい」のだが、自分だけなら煩悩の泥の海であってもかまわないけれど、そこが人の「生」の悲しさかもしれない。さて、今晩は4度目の『60歳の集い』があるが、どんな話ができるのだろう。
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再び「ワイエス展」へ

2009年02月20日 22時24分32秒 | Weblog
 高校生の時、化学だったか物理だったか忘れてしまったが、「質量不変の法則」という言葉を聞いて、全てがわかったような気がした。地球がどのようにして生まれたとしても、あるいは人類がこの地球にどのような偶然か必然かは定かでないとしても生まれてきて、結局はそうだったのだと思った。それは「質量不変の法則」とは何かを科学的に証明できたということではない。化学も物理も苦手で成績はすこぶる悪かったのだから、授業を聞いて先生の言うことが理解できたということではなく、何かインスピレーションが胸にスーッと舞い落ちてきたのだ。

 私たちがこの世に生まれてくるまでに、たくさんの人が生まれ死んでいった。草木も動物もそれこそ森羅万象、生まれては死んでいった。鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と言うが、命あるものもないものも、あらゆるものは変わっていく。同じものは何一つない。変わらないものは、宇宙が誕生した時にあった原子なのか素粒子なのかはともかく、形が変ってもその質量は変わらないのではないかとわかった。

 私たちもいつかは死んでいくけれど、それはまた新しいものに変わるだけのことだ。この先、誤って人類が滅亡するようなことがあったとしても、それはまた新しい世界なのか宇宙なのかが誕生するだけのことだ。私が全てがわかったと思ったとしても、だからと言ってどう変わるということではなく、普通に暮らしてきた。普通に暮らすことがこの世に生まれた者の務めだと思ったのだ。普通とは、何もしないということではないし、並とか平均とかいうことでもない。並とか平均というのは結果であって生きている自分には知る術もない。

 自分が関心を持つことを行い、理想社会を語り、一生懸命で働き、悩んだり悔やんだり喜んだり悲しんだりしてきた。おそらくあらゆることは必然だろう。出会いはもちろん、死もまたそうだろう。何一つおろそかにしてはならないだろう。再び同じことは決して無いのだから。こんな風に言うといかにも真面目に1秒1秒を生きているよう聞こえてしまうかもしれないが、現実の私は怠け者で自分勝手で思い込みが激しい普通の男に過ぎない。

 もう一度、『ワイエス展』に行ってきた。先回と違って会場はそれほど混んではいなかった。私が初めて見たのは1974年に京都展だった。名古屋は素通りだったので、どうしても見たくて出かけた。ワイエスを知ったのは美術雑誌だったと思う。シュールリアリスムに関心の強かった私が一番好きな作家はダリだった。そのダリとは全く違うのに、ワイエスの作品を見た時、すごいと思った。ダリもワイエスも対象を写真以上に描く。写実的であればあるほど現実ではなくなる。確かにワイエスはダリのような世界を描いてはいない。身近にある何でもないものばかりを描いている。それでも私には超現実に見えてしまう。

 私たちは時間に縛られた日常の中で生きている。これが現実だと言うが、いつかなくなってしまうものであるのに現実だといえるのだろうか。ワイエスの絵は写実的だが、どこか幻想の世界でもあると感じるのは私だけなのだろうか。現実の中の幻想、そして幻想的な現実。区分は見えない。
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大人が読むといい童話

2009年02月19日 18時55分42秒 | Weblog
 中学2年の孫娘が「ウチには『葉っぱのフレディ』ってある?」と聞いてきた。「ああ、あるけど、どうして?」と聞き返す。「今度のピアノの発表会でやる曲と関係あるみたいでサ、読んでおきなさいと言われたの」と言う。「ピアノの曲は何というの?」「えーと、題名は忘れた。ショパンの曲!」「ショパンはピアノ曲が多いからわからないな。『葉っぱのフレディ』は秋になって葉っぱがどんどん枝から離れていくけれど、もちろんそれで葉っぱは死んでしまうわけだよ。でも枝には新しい葉の芽が準備されているし、落ちていった葉っぱもやがて土に戻り木を育てる力になるという、“死”についてのお話だよ」と話すと、「そうそう、そんな曲」と言う。

 『葉っぱのフレディ』は何年か前に話題になった。CDにもなったのではないだろうか。私も好きな童話のひとつだ。私が子どもたち相手に読み聞かせのお手伝いをしていた時によく読んだのは、シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』とグレゴワール・ソロタレフの『オオカミクン』だ。『葉っぱのフレディ』は少し長いので低学年には向かなかった。でも小学4年生以上であれば、ゆっくり読んで聞かせればわかってもらえるように思うが、小さい子には少々難しいように思ってやめてしまっていた。

 『おおきな木』については以前このブログでも書いた(07年10月4日)。読んだ後で子どもに聞くと、「お母さんのよう」と言う。きっとこの子の母親は優しいのだろうと思った。おおきな木は一方的に全てを与えてしまう。それが木の愛し方だ。切り株だけになった時に一度だけ、それで本当に幸せなのかという言葉が出てくるが、木はいつも見返りを求めない。

 『オオカミクン』は独りぼっちになったオオカミクンはやっとウサギと友だちになれてうれしくて仕方ない。2匹はいつも一緒に遊ぶ。そんな遊びの中に「ウサギがこわいごっこ」と「オオカミがこわいごっこ」があった。「ウサギがこわいごっこ」をやってもオオカミクンは少しも怖くなかったが、「オオカミがこわいごっこ」とした時、余りの怖さにウサギは家に逃げ帰った。オオカミクンはまた独りぼっちになり、旅に出た。着いたところはオオカミ山で、オオカミクンはウサギに間違えられて追い回された。オオカミの怖さを知ったオオカミクンはウサギにこれからは決して「オオカミがこわいごっこはしない」と約束し、また仲良く暮らしたというお話だ。

 童話とはいえこの3冊はむしろ大人向きだ。中学生くらいに読んで欲しい物語だと思う。『葉っぱのフレディ』は命とはどういうものか、死はどういうものかを考えさせてくれる。『おおきな木』は愛するとはどういうことか、生きている意味は何かを考えさせてくれる。『オオカミクン』は仲良くすることはどういうことかを考えさせてくれる。現実離れしたストーリーには興味がないと昨日は書いたが、童話は葉っぱであったり、木であったり、オオカミであったりするけれど、そこには紛れもなく人間が描かれているから興味深い。
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NHKドラマ「だんだん」

2009年02月18日 20時39分32秒 | Weblog
 NHK朝の連続テレビ小説『だんだん』はそんなに興味が湧く作品ではないが、生活の習慣になっているから、つい見てしまう。『だんだん』の主人公は双子の姉妹だが、まだ乳飲み子の時に両親は離婚してしまい、ひとりは父親に、もうひとりは母親に引き取られた。父親の方は再婚して弟もできた。母親の方は祇園に戻り、母と娘は舞妓となって暮らしている。全く別々に育てられた二人が出雲大社で出会うことから、このドラマは始まった。

 設定そのものが何か現実離れしていて、私は興味がなかった。ところが今週の展開はさあどうなるのかと先が読めない。父親は、母親に再婚相手が現れ、かつて一緒に暮らした相手のことが心に蘇ってくる。そんな様子が結婚した妻にはよく見えるから、苛立ちとなり夫への不信となっていく。中学2年の孫娘は「こういうの、好き!」と言うが、我が家のカミさんはこういう男が嫌いだ。

 妻である嘉子は離婚届を夫の忠に突きつける。「あなたの心には真喜子さんがいる。私たちは20年も一緒に暮らしてきたのに、1年足らずしか暮らしていない真喜子さんに勝てない。苦しんでいるあなたを見るのはつらい。私がいない方がいい」と言うわけだ。「じゃあどうしろと言うのか」と忠は聞き返す。「真喜子さんは結婚する。わしはそれでいいと思っている。何が不満なのか」と腹を立て、「こうすればいいのか」と離婚届に署名捺印をしてしまう。

 今朝はここまでの進展だった。えっ、そんなことになってしまうの?先が読めないのは面白い。しかし、このドラマはおそらく双子の姉の方は介護福祉士となり、プロの歌手になろうとした妹の方はあきらめて祇園に戻って芸妓になり、姉妹は音楽バンド「しじみじる」を復活させるというものだろう。すると、両親の危機もいずれは納まってしまうのだろう。

 ドラマの中で腑に落ちなかったのは、キャバレーで歌う妹に対して「歌を続けたかったなら、舞妓姿で歌うべきだった」とか「祇園を捨てたと言うのに、プロ根性は祇園で身に着いたものではないのか」というセリフだ。NHKで歌っている歌謡曲の歌手たちもかつてはキャバレーなどで歌っていたはずだ。本当に歌手になりたかったなら、何をしてもよいはずだが、祇園に迷惑をかけてきた思いがあるのだから、舞妓姿では歌わないというのは彼女が最低限の義理を通そうとしていると理解すべきだろう。やめさせるよりも彼女の意思をなぜ応援できなかったのかと私には不満だった。

 もうひとつ、腑に落ちないのは今朝の展開だ。結婚した男だって女だって、好きな人ができることはあるだろう。心の中で思うくらいのことは目を瞑ってもいいのではないか。とことん切り詰めていけば人は生きていくことができなくなるような気がする。「愛しているならその証拠を見せて欲しい」と言われた場合、どんなことが考えられるだろうか。そしてまた、恋したり愛したりして、それでたどり着く先は何だろうか。さらにまた、愛の終りはどんな形になるのか。

 中学からの文学好きな友だちに、ドラマを書いてみないかと誘っている。私たちももうそんなには生きられないだろう。けれど、まだ考える力は充分にある。人はなぜ人を好きになるのか、恋することはどういうことなのか、そして人はどんな終りを迎えるのか、そんな物語を考えてみようと。
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「あの戦争は何だったのか」

2009年02月17日 22時43分44秒 | Weblog
 録画してあった『シリーズ激動の昭和 あの戦争は何だったのか』をやっと見終わった。4時間にも及ぶ長編だったので、結局は3日間に分けて見た。放映されたのは昨年の暮れ、12月24日だった。A級戦犯の東條英機が絞首刑となったのが12月23日で、葬儀が行われて60年目に当たるということだった。当時4歳の私には全く記憶がないが、70歳より上の人たちでもどれだけの人が覚えていることだろう。

 私が戦犯に興味を覚えたのは高校生になってからだ。ドラマのタイトルにもあったように「あの戦争は何だったのか」と思った。中学の時に日本国憲法を知り、日本は決して戦争をしない国になると決めたが、じゃあ誰がどうして戦争をしたのか、その責任は誰がどのように果たしたのか、そんな疑問が残った。公職を追放になった人のいたことは親類にそのような人がいたから知っていた。しかし、その人よりもっと上の、国家の方針を決めた人たちがいるはずだ。誰がどのように決めたのか、天皇には責任はなかったのか。

 半藤一利氏の『昭和史』を読んでいたので、およその事実経過は知っていた。新井喜美夫氏の『「名将」「愚将」大逆転の太平洋戦史』を読んでも同じだったのは、戦犯の中心人物とされた東條英機だった。終戦後に自決した杉山元陸軍大臣はドラマの中で東條を「学なし、識なし、胆なし」と評していた。東條は「器の小さい」男のようで、自分に反対した者を前線に送ったりしているし、何よりも「自決」の道を選ばなかったことが人々の評価を悪くしている。自決した杉山元だって、終戦の時には死を選んでいない。カミさんから自決を迫られ、東條と同じようにピストル自殺をしている。

 東條がどんな人だったか、私はそれぞれの書物でしか知らないが、東條には最高責任者という自覚がなぜなかったのだろうと思う。彼は、陸軍士官学校を50人中の42位で卒業していることや陸軍大学校を3度も受験していることがコンプレックスになっているようだ。「努力する」ことを尊び誇りとしてきたが、それは同時に自信のなさを表しているようにも見える。彼が日本を、心からかはわからないが、「神国」と思い込み、天皇を「神」とあがめたかったことは確かなようだ。そう思うことで、天皇より首相の命を受けたことを何よりも生き甲斐としたかったのだろう。

 東條は戦陣訓を公布し、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と強要した。けれども自分自身はそれを守らなかった。中国に攻め入って10万人の兵士が亡くなっている。ここで中国から撤退したのでは死んだ英霊に申し訳がないと陸軍の最高幹部たちは口にしたけれど、ひとりでも犠牲者を少なくすることが英霊に答えることだとは誰も考えなかった。それで負けた時は、自分のふがいなさを自覚して自害する責任感も無かった。日本の兵隊の武士道とはこんなにもいい加減なものだったのか。

 「戦争の原因は欧米の東アジアに対する半植民地の影響と世界の赤化を狙う共産党の策動だった」と東條らは弁護士に意見書を出している。戦争の責任が問われないままに60年、今再び東條らと同じことを言う人々がいる。どんな戦争であっても許さないことこそが一番大事なことだと思う。
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