尊厳死協会の出版パティーで、何人かの筆者である医師から講演があった。終末とはどういう状態を指し、どこで判断するのか、やはり難問のようだ。尊厳死協会が「法で定める必要がある」ということがよく分かった。講演の内容は尊厳死協会が中日新聞社から発行した『新・私が決める尊厳死』(1,000円)に詳しい。医師の話の後、会場からの質問があった。ひとりの男性が、「私はガンで死にたいと思っている。余命6ケ月と言われれば、その間にやりたいことを整理できる。そして絶食して、最期を迎えたいが、ダメでしょうか」と聞いた。
ガン患者を診ているという先生は「尊厳死にガンは適しています。治療の施しようのない末期ガンは在宅で最期を迎えることが出来ます」と言い、もうひとりの医師は「あなたがモリモリ食べられる状態なら、決して死ぬことはありません。人は食べられなくなって、死を迎えます。絶食については個人的なことなので、私がどうこう言うことではないと思っています」と答えられた。どのようにして、死を迎えるかは個々人の生き方であり、美学のようなもの。それを決めるのは本人の意思である。
そうであるが、その意志がキチンと伝わらなければ、医師はあらゆる手を尽くして治療に当たる。それは医師の業務である。だからこそ、どのような死を迎えたいと思っているかを日頃から周りの人、家族や友人やそしてかかりつけの医師に伝えておく必要があると言うのだ。病気でも、怪我でも、事故でも、病院に運ばれれば必ず治療が行なわれる。末期ガンで、不治と分かっている患者が、たまたま事故に遭い、救急車で病院に運ばれた。不治の患者でも救急医療を行なうと医者は話した。
今日、医療技術は格段に進歩したし、医療設備も充実しているし、そのネットワークも出来上がっている。それでも病院をたらい回しにされて、助かる命を失う人もいる反面で、不治の人であっても救急治療を受けることになる。そのために助けられた命を助けられなくしているかも知れない。尊厳死協会は、会員証を身に着けていれば医師はキチンと判断してくれるという。どのように自分の死、つまりは自分の最期を迎えるか、自分が決める時代になってきた。
明日は、誕生日会の友だちと昼神温泉へ日帰りで出かけるので、ブログを休みます。5月2日から茨城に住む次女夫婦が来ると言う。ブログを立ち上げることが出来ない日があるかも知れない。「便りがないのは元気な証拠」と思ってください。それから唐突ですが、排水溝の金網で越冬したアゲハチョウのサナギは羽化していました。死ななくて良かった。今頃はどこかで蜜を吸っているでしょう。ミカンの木も新芽が出てきたから、またアゲハチョウが卵を産みに来るでしょう。