友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ベトナムの旅の余話

2018年06月30日 17時29分11秒 | Weblog

  無事に帰国できたけれど、道中は大変だった。80歳になろうとする先輩女性は、いつもパスポート探しに明け暮れた。手提げカバンを2つ持っていて、革製のカバンにパスポートなどの重要なものを入れておくのだが、パスポートを見せなければならない時になると「どこに入れたんだろう?」と探し出す。「このカバンの中ですよ」と言うと、「よく、他人のカバンの中を知っとるね」と言う。「入れた時に、確認したじゃーないですか」と言えば、「そうなの」と知らん顔だ。

 先輩女性はいろんなものに興味があるので歩くのが遅い。団体なのだから仕方ないがいつも最後尾になってしまう。ベトナムに着いてからの3日間、雨季なのに一度も雨に降られなかった。ホイアンの東の山間に、4~13世紀に栄えたチャンバ王国時代の遺跡を見学に行った。この日も快晴で青空が広がっていたから、まさかあんな目に遇うとは思わなかった。都会の中の見学が続いたので、樹木が茂るミーソン遺跡は心地よかった。この遺跡はカンボジアのアンコールと同じヒンドゥー教の拝殿という。

 ベトナムは王宮も民家も全て赤レンガで出来ている。この遺跡も同じだ。かなり風化が進んでいるし、ベトナム戦争中にアメリカ軍のよる空爆で破壊されてもいた。爆弾で出来た穴もあった。遺跡の一角に大きな舞台小屋があり、ここで舞踊や音楽を学んだ人たちの踊りと演奏を見せてもらった。先輩女性は履いている靴で足が痛いから「草履を買う」と言うので、そばの売店でゴム草履を買った。40000ドン(200円)の草履なのに、1万円札を出そうとするので、カミさんにベトナムドルを借りで支払った。

 3曲目くらいだろうか、突然風が吹いてきた。空も暗くなってきている。どうやらスコールがやってくるようだ。ガイドさんは「すぐにバス乗り場まで帰ります」と言う。みんなが席を立って歩き出だしてしばらくすると、雨がポツポツ降ってきた。すると「引き返して雨の上がるのを待ちましょう」と言う夫婦がいて、最後尾にいた私と先輩女性も小屋に引き返した。残った人数は10人くらいだったか、雨はますます激しくなり雷までなり出したが、しばらくすると小降りになってきた。

 ガイドさんが「傘のない人は?」と言うので、手をあげると私と先輩女性に雨合羽を渡してくれた。売店でガイドさんが買ったものなので、「お金を」と言うと、「これはいいです」と言う。10人ほどをここに残してしまったのは自分の判断ミスということなのだろう。小降りになったので、みんなで歩き出したけれど、やっぱり私たちが最後尾だった。バス停でみんなと合流し、誰一人ケガもなく無事にホテルに着くことが出来た。夜の食事の時、私はガイドさんに「これはお礼です。日本では袋に入れるのですが」と言って、小さく折った千円札を渡した。

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ベトナムの旅その4

2018年06月29日 17時49分36秒 | Weblog

  ベトナム旅行の最終地はホーチミン(昔のサイゴン)。ベトナム戦争でアメリカ軍は敗北し撤退したから、ベトナムは「北」に制圧されたことになる。市街の中心にフランス植民地時代に建てられた左右対称の威風堂々とした建物は、現在は人民委員会庁舎となっている。その前の広場には建国の父、ホーチミン像が建物を背景に立っている。ホーチミンは「国父」としてベトナムの人々に親しまれているようだ。

 ベトナムは共産党政権の国だけれど、「開放政策」のため資本主義経済である。ガイドさんが「ベトナムには、ホームレスはいないがお金持ちはいる。一番のお金持ちは政治家、二番目は土地成金」と言って笑わせた。結局どこの国も同じだ。ホーチミンやダナンなど、大都市は建設ラッシュで巨大なビルがどんどん建てられている。河川は多いがダム発電は少ないのか、「電気は不足しているので、クーラーは1つの部屋にしかない。暑いので男は家に居なくて、外で友だちと酒を飲んでいる」とガイドさんは言う。

 ベトナムの普通の家は間口が狭く奥深い。税金のためらしいが、この建築の方が風が流れるらしい。レンガを積み重ねて、上へと伸ばしていく。そんな風に建てている家を何軒も見た。家族総出で建てると聞いたが、全く簡単な家づくりである。「ベトナムは何百年と地震がない」からの建築法である。1階建てならともかく、3階から4階の家が多いから「本当に大丈夫?」と思ってしまう。

 ホーチミンでは2千軒の店が集まっているベンタン市場を見学した。ここで自由時間となり、みんなは「喫茶店に居る」と言うので、私はひとりで市場を探検して回った。どんな店があり、どんな風に運営されているのか興味があった。通路は人がひとりしか歩けないくらい狭い。私が見て回っていると店の女性が「おじさん、なにさがしている?」と声をかけてくる。初めは笑って通り過ぎたが、ベトナム人にしては太っちゃな珍しく不細工な女性が声をかけてきたので、「あなたのような素敵な女性を探している」と答えたら、バカにしているといった顔をした。言葉は通じるようだった。

 ホーチミンのホテルのレストランが最後の食事。フレンチ風というだけあった。夜景もきれいだった。ベトナムはタイより活気があるから、もっと経済発展していくのだろう。日本に戻って涼しさを期待したのに、ベトナム以上に暑い日が続き、ベトナムが恋しくなった。

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ベトナムの旅その3

2018年06月28日 18時18分06秒 | Weblog

  ハノイの空港からフエに飛び、あこがれの古都を見て回った後、ホイアンにバスで移動した。ホイアン旧市街は世界遺産だけあって、外国人はもとよりベトナムの高校生や大学生らしき人々も多かった。皆さんは茶屋で休むと言うので、私はひとりでぶらぶらと歩いた。おかげで女子高生の6人と出会い、カメラを向けて「Piture OK?」と言うと、揃ってポーズをとってくれた。「カムオン(ありがとう)」と言って去ろうとすると、手招きされて一緒に写真を撮ってくれた。

 ベトナム人は背丈も顔立ちも日本人と変わらない。明るくって人懐っこい。私はベトナム人は南の人なので、焼けた肌の人が多いとばかり思っていたが、女性たちの中にはビックリするほど色白の人がいる。肌も艶やかで美しい。ベトナムには倭寇が駐留し、日本人町を作っていた過去があるから、結構日本人の血が受け継がれているのかも知れない。ガイドさんが「フエは美人が多い。ホーチミンはアメリカ人との混血も多いから、目が大きく鼻が高い人もいる」と教えてくれた。

 フエの南のホイアンでホテル2連泊だった。フエとホイアンの間にはリゾート地となったダナンがある。美しい海岸が長く続いていて、外国人もいたがベトナム人も多くいて、彼らは家族でバイクにまたがり泳ぎに来ていた。昼間よりも夜を楽しむのかも知れないと思うほど、海岸線にはバイクがずらりと並んでいた。私の記憶では、ベトナム戦争の時にアメリカ軍が総攻撃を加え、ダナンに空軍基地を造ったはずだが、バスの中から見る限りではそんな痕跡は分からなかった。

 ベトナム戦争でアメリカ軍は無差別な空爆を行い、田畑やジャングルに枯葉剤まで撒いた。そのため今も障害のある子どもたちが大勢いる。私はふたりの男性ガイドに、「アメリカに恨みはないのか?」と聞いてみた。アメリカをどう思っているのか、どうしてもこの旅行で知りたいことだった。ふたりとも戦争が終結した後で生まれたこともあり、「特にありません」と答えた。日本人もアメリカ軍に大量に殺され、原爆まで落とされたが、反米感情はまるきっりない。

 寛容なのか、忘れっぽいのか、諦観が強いのか、仏教の影響なのか、民族性なのかと考えさせられた。過去のことより、先に目がいっている、それは確かだろう。

 

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ベトナムの旅その2

2018年06月27日 19時06分26秒 | Weblog

  ノイバイ空港から最初の観光地ハロン湾へ。どうしても実際に見たかったところ、ガイドさんは気を使って「日本の松島と同じ」と言うが、スケールが全く違う。いかにも古い帆船が出てきそうな見事な景色だ。中国の名勝・桂林から続く石灰岩台地が沈降し、海水の浸食作用で現在のような絶景が生まれた。今はびっくりするくらい美しい光景だが、やがては海に消えていく運命にある。

 ハロン湾は多くの観光客が訪れるとあって、湾を望む各所にホテルやマンション、さらに「なばなの里」のような施設が建てられていた。私たちが泊まったホテルもかなり高層階であったが、朝、部屋から下を見ると、プールの向こうに壊れかけた荒家があった。ベトナムでは大資本が粗末な民家を買い上げ、大規模な地域開発が行われている。目先のことに追われて、美しい風景が無くなることに今は気付く余裕はない。

 海に面した地域は広い平野が続く。山からの流れ出した川の水は平地で蛇行し、沼地が各所で見られた。米作は2期うまくいけば3期だと言うが、日本のような整然とした田んぼはない。平地はどこも水浸しだから、入水と排水をコントロールすればさらに米の収穫は上がるだろうが、見る限りでは全くの手作業だった。

 鉄道はまだ未整備だが、道路網はかなり出来上がっていた。それでもまだ高速道路は出来ていないそうだ。バイクがこんなに多く走るのに、高速道路など造ったら交通事故が増えるだろう。日本に住んでいるからそんなことが言えるが、ベトナムの人たちは日本やアメリカに追いつき追い越したいのだ。戦後の日本人も、アメリカ人のように毎日牛乳を飲み、ステーキが食べたいと願って生きて来た。

 豊かさを求めるのはどこの国も同じだ。けれど、ベトナムは暑いから夏の昼間は無理して働かない。木陰に椅子を並べておしゃべりしているか、涼しい土間に寝転んでいる。イタリアに行った時もそうだったが、暑い国では昼間に身体を動かすことはないようだ。それでも大都会にはビルが立ち並びオフィス街もあったから、そういう所では冷房が効いていて勤勉なベトナム人はよく働くのだろう。若者が皆、都会に出たがる傾向はどこの国も同じだ。

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ベトナムの旅その1

2018年06月26日 17時46分02秒 | Weblog

  無事に帰ってきました。高齢者グループの旅行だから、何事も無かったわけではないが、全員が帰って来ることが出来たのだから「ヨシ」とすべきだろう。ベトナム縦断の旅は人気のようで、総勢38人でそのほとんどが私たちに近い年齢だった。6月は雨季だから気温も湿度も高いのでそんなに参加者は多くないだろうと甘く見ていた。

 朝、7時45分に出発ロビーに集合し、午前10時15分のベトナム航空で日本を立った。往きも帰りもベトナム航空だったが、操縦は安定していたし機内サービスも行き届いていた。ベトナムは日本人が街を作っていたくらい古くから「縁」がある。それに私はベトナム人に日本語を教えていて、体つきも顔立ちも性格も、共通するものがある気がしていた。

 ハノイのノイバイ空港に到着し、タラップを降りると暑さと湿気がドーンと襲ってきた。やっぱり思っていた以上にベトナムは暑い。現地ガイドのフェンさんは小柄でよく気がつき、よく働く。3箇所で3人の現地ガイドが付いたけれど、3人ともとてもよく働き気遣いの出来た。それに、3人とも知識が豊富だったので、ベトナムのことが本当によく分かった。

 ベトナムはどこへ行っても大量のバイクが走り回っている。最も人口の多いホーチミン市はバイクが溢れている。確かにバイクは駐車の場所を取らないし、ガソリンの消費も少ないが、何千万台ものバイクが一斉に走り回るから接触事故が起きないかと怖くなる。1台のバイクに4人まで乗れるので、出勤や帰宅の時は両親と子ども2人が乗って走っている。思わず、「大丈夫か」と言ってしまう。

                       

 いくら駐車の場所を取らないと言っても、どこかには置かなくてはならない訳だから、都心部はもうバイクだらけだ。道路も決して整備されている訳ではなく、舗装はされていても凸凹であったり、工事中であったりで、よく走ることが出来ると感心する。女性もヘルメットを被り、マスクをし、身体に花模様の布を巻き付けて2人乗りで走っている。マスクも花模様の布も防塵対策だそうだ。とにかく埃っぽい。工事中の道路や家が多く、どういう訳か残骸が至る所に放ってある。若者が多く、建設ラッシュだから活気はある。東南アジアはもっと発展するだろうと思った。

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明日からベトナム旅行です

2018年06月20日 17時29分59秒 | Weblog

  4歳の孫娘が滞在していた間は、地震の時しかテレビは点けなかったので、昨夜のサッカーW杯ロシア大会の日本・コロンビア戦を開始から終了までしっかり観てしまった。まさかの展開だった。コロンビアの選手が故意の反則で退場となり、ペナルティキックで1点を先取し、これでもう1点取れば勝ったと思ったが、この後、全く動きが悪かった。嫌な雰囲気で観ていたら案の定、ペナルティでゴールを決まられ同点に追い込まれた。ここまでかと思った。

 ところが後半戦は動きが違う。果敢な攻めのサッカーに変わった。コロンビアの主力選手が投入されたのが裏目に出て、コロンビアの動きはさらに悪くなり、2対1で勝利した。街角のテレビインタビューに、「日本のためによくやってくれた」と答えていた人がいたが、サッカーW杯は国対抗であるけれど、そんな風に思う人もいるのかと私には違和感があった。スポーツ競技は勝敗を決める訳だから、「何々のため」ということなのだろうけれど、私は好きになれない。

 私が生まれ育った市は国体のサッカー会場があったこともあって、サッカーが盛んだった。私は子どもの頃から足が速かったので、打つ野球よりも走るサッカーが好きだった。高校などは冬の体育の時間はほとんどサッカーだった。しかし近眼でメガネがなければ、どこに誰がいるのか、ボールがどこにあるのか、分からないのでメガネをかけていたが、ぶつかって何度かメガネを壊してしまい、父親に迷惑をかけた。

 自分で稼げるようになってはみたが、金をためる人生にはならなかった。それでもたくさんの良い人に巡り合うことが出来た。マンションの友だちと明日から、ベトナム旅行に出かける。友だちも79歳、「これが最後の海外旅行」のつもり。そんな訳で、6月21日から26日まで、ブログは休みます。

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これでしばらく会えない

2018年06月19日 17時45分19秒 | Weblog

  4歳の孫娘は今日、仙台へ帰って行った。4泊5日の滞在だったが、目の前にいないとやはり寂しい。夜は連続して「エブリディ・パーティー」だったので、会場となった我が家は大変だったけれど、美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲み、心行くまでおしゃべりして、孫たちも大人たちも「家族のつながり」を感じてもらえたのではないだろうか。

 16日の夜は全員が揃うようにと長女から指示があり、翌日の「父の日」「ピアノ発表会」そして「4歳の孫娘の誕生日」「次女の誕生日と就職祝い」を兼ねてプレゼントが送られる盛大な「食事会」だった。長女や次女のダンナと酒を酌み交わして談笑する。4歳と小3の孫娘も若干、主役の座を奪われておとなしくしていたが、それでも大人に混じって満足そうだった。感激症(?)の次女は涙を流して喜んでいた。

 17日の夜は、次女のダンナは仙台に帰っていたが、この日の「ピアノ発表会」で小3の孫娘の演奏がよかったので、再びみんなで集まって「おつかれさま会」を行った。「ピアノをやめたいと思ったことはないの?」と次女に聞かれた小3の孫娘は、「あったけど、(4歳のいとこが)見に来ると聞いて頑張ったら、ちょっと好きになった」と言う。父親との連弾も、リードするように演奏できて、得意満面だった。

 月曜日は小3の孫娘が下校するのを待って、再び我が家に連れて来たが、4歳の孫娘の面倒を本当によく見てくれた。小3の孫娘の言うことには一切服従なのかと見ていると、意外に我を張る場面もあり、そんな時にケンカにならないのは小3の孫娘の懐が大きいからで、相手の要求を受け入れながら、さらに一歩上を行くしたたかさを持っていた。

 小3の孫娘が家に帰る時が来て、「じゃーね。またね」と手を振ると、4歳の孫娘は「じゃーね。ここからはパパちゃんにタッチ交代」と言う。遊び相手に指定され、リカちゃんやら病院の患者さんの役を言い渡される。子どもは飽きるまで続けるから、相手をするのは大変だった。しかし、これでしばらくは会えない。

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誠実で勤勉な日本人はどこへ行ってしまったのか

2018年06月18日 18時51分51秒 | Weblog

 今朝の地震には驚いた。我が家はマンションの上層階なので揺れが大きく時間も長い。ちょうど朝食の最中だったから、一瞬みんなに緊張が走った。慌ててはダメ、この揺れは前触れで、次にもっと大きな揺れが来るかも知れない。じっとしてしばらく待つ。次女が「テレビをつけて。NHKなら速報が出ている」と叫ぶ。7時58分、大阪北部で震度6弱の強い地震があった。このところ各地で地震が起きているが、何だかこの地方に近づいてきているような気がする。

 地震よりも驚いたのは、至学館大学が栄監督を解任したことだ。つい何日か前、谷岡学長は「学生たちが望んでいるので、監督に復帰させる」と笑顔で話していたのに、「全く反省できていない。このチームを率いるにはふさわしくない」と言う。「パワーのない人間にパワハラなどできるはずがない」と言い切っていた学長がである。レスリング協会がパワハラを認めた時点で、解任すべきだったのに、この時は続投させておいて、「反省できていない」とは支離滅裂な発言だ。

 日本大学も至学館大学も、何が問題でどう責任を取るのか分かっていない。私は谷岡学長を知っていただけに評価を誤った。栄監督の解任を発表するなら、当然ご自身も責任を取って学長を退くべきだろう。「パワハラはできない」と言い切り、「伊調さんは選手なんですか」と屈辱した罪は大きい。至学館大学の将来を考えるなら、速やかに学長を辞めるべきだと思う。

 問題が発生した後の、責任の取り方が日本人は甘いようだ。日本人は真面目でよく働き、努力を惜しまないという評価が最近は薄れてきている。先日も、日本で働く中国人が「このままでは日本はダメになってしまう」と言っていた。誠実で勤勉な日本人はどこへ行ってしまったのだろう。

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子どもの成長は本当に早い

2018年06月17日 18時02分05秒 | Weblog

 4歳の孫娘はご機嫌で起きて来たのに、食事の時になって急にぐずり出した。「食べるよ」と母親が言っても、「イヤ、イヤ」と言って泣き続ける。昨日、あんなにいとこと一緒に遊んでいたので、今朝はその反動なのかもしれない。子どもの心はよく分からないが、無理やり解釈して分かった気にならない方が良いだろう。

 私がルーフバルコニーので落ちた花弁などの掃除をしていると、母親に叱られてひとりで北の部屋で泣いているのが見えた。近づいて小声で、「ねえ、水やりを手伝ってくれない?」と伝えると、一瞬泣き止んだが、また泣き出して首を横に振り、「イヤ」と言う。水やりでは泣き止まないか、そう思って水やりを始めると、いつの間にか傍に来て、「お手伝いする」と言う。

 「前に、パパちゃんに水かけたもんね」と言いながらホースを向けるから、「ダメ、ダメ、やめて」と後ずさりすると、面白がって水をかけようとする。もう、水やりに夢中で、先ほどまでぐずっていたことなどすっかり忘れている。朝食も全部ぺろりと食べた。しかも、どういう訳か盛んにお話をしてくれるし、幼稚園で習っているという「6がつのうた」を歌って聞かせてくれる。

 今日はいとこの「ピアノ発表会」。会場まで電車に乗って行く。「パパちゃんと行く」と言うので、ふたりで手をつないで出かけた。幼稚園で道路の渡り方を習ったから「おしえてあげるね」と言い、「みぎ見てひだり見て、もういちどみぎを見て、手をあげてわたります」と演技して見せてくれる。

 ピアノ発表会には長女のダンナの両親も来ていて、4歳の孫娘は早速に挨拶しに行く。そこまでは調子がよかったのに、いとこの発表の時になって、近くに母親が来たので駆け出そうとした瞬間、転んで顔から落ちた。ゴンと言う大きな音がしたからさぞ痛かっただろうに、演奏が始まったので「泣いてダメ」と言われて泣けずに歯を食いしばっていた。意外に負けず嫌いな頑固さもあるようだ。父親が先に帰るので、母親と空港へ見送りに行く予定だったのに、「いとこと一緒にいる」と言い出す。子どもの成長は本当に早い。

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今晩はみんな揃っての食事会

2018年06月16日 16時21分51秒 | Weblog

  仙台からやってきたいとこを驚かそうと、長女のところの娘ふたりは名古屋駅の新幹線ホームまで迎えに行った。列車から降りて来たいとこに、「お帰り」と声をかけたと言う。我が家に着いた時、孫3人は大声で「ただいま」と言う。家に入るなり、4歳の孫娘は小3の孫娘の後ろをついて回っている。小3の孫娘にすれば、大人ばかりの中で育ったから、初めてお姉さん気分を味合っているようで、日頃では見られないくらい大人っぽい。

 次女夫婦と一緒に、孫3人が泊まったので、今朝の食事は大賑わいだった。私がコーヒー豆を挽くと、小3の孫娘が「私もやる」と言う。4歳の孫娘も「私も」と言う。小3の孫娘は、「これはまだ無理」と教える。すると4歳の孫娘は素直に言うことを聞くから不思議だ。そして食い入るように小3の孫娘のやることに注目している。「軽くなったから、やってみる?」と小3の孫娘。4歳の孫娘はとっても嬉しそうな顔をしたが、すぐ真剣な顔になって豆を挽きだした。

 食事の間、4歳の孫娘は目の前の小3のいとこの一挙手一投足に興味津々だ。子どもの言葉はとても面白い。この時に、この言葉が、とても合っている。今朝もそんな言葉をいくつか聞いたのに、今思い出そうとしても出てこない。今日は4歳の孫娘は小3のいとこの習い事に同行している。何をどうするのか、何でも興味深いようだ。揃いのクリックを背負い、「行ってきます」と出かけていった。今晩は、長女の家族4人と次女の家族3人が、我が家で揃って食事をするので、カミさんは大張り切りだ。もちろん私も料理を手伝う。みんな早く帰ってくるのかな。

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