友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

見栄っ張りな男たち

2009年07月02日 21時29分10秒 | Weblog
 我が家のアジサイは今年、花が咲かない。昨年は見事なまでに満開だったのに、1年経ただけでこんなにも違うものなのか。おそらく昨年、花が終わってから、肥料をやったり、古い枝を切ってやったり、そういう管理を怠ったからだろう。ルーフバルコニーの防水工事のために、鉢を長女らの住まいに移動させて、放っておいたことも原因のひとつかもしれない。花は手をかけてやらないと正直な結果を見せてくれる。

 アジサイを移り気な花だと人は言うけれど、アジサイ自体に責任があるわけではない。花の色が変わる花は他にもたくさんあるのに、アジサイだけを移り気と言うのはかわいそうな気がする。そうでなくてもアジサイは可憐でどこか清楚だ。そう思っていたけれど、最近のアジサイには赤やピンクもあり、花の形までも艶やかで豪華絢爛なものまである。新しい品種のアジサイも色変わりをするのだろうか。

 次々と言うことが変わる点では麻生首相はトップだろう。「しかるべき時に、しかるべき方をと、前から考えていました」とは6月30日の発言だ。前日に「人事について、現時点では考えていません」と発言していたにもかかわらずにである。そして昨日、佐藤総務相が兼任する国家公安・沖縄・北方・防災相と与謝野財務・金融相が兼務する経済財政相に、福田内閣でわずか2ヶ月の在任期間だった人を起用した。麻生首相が言うほどインパクトのある人事とは言えないし、肝心な党人事は断念するという体たらくだ。自分の力を見せ付けるつもりが、逆に弱さを見せる結果になってしまった。

 男は見栄っ張りな生き物だけれど、その見栄が空回りをした時ほど惨めなものはない。太宰治を少しばかり読んで、この人もかなり見栄っ張りだなと思った。十代で小説家になると決め、それなりに物語を書き、いつかは憧れていた芥川龍之介のような小説家になることを夢見ていたはずだ。青森県津軽の太宰の生家を訪ねたことがある。丁度工事中で中には入れなかったけれど、随分と田舎だ。太宰は家柄を馬鹿にしていたようだけれども、それは裏返しの気持ちだったと思う。太宰の家は青森では富豪だが、それは養子の父親が築いたもので、華族でも名門でもない。自信がないうちは何かに頼ろうとするものだ。

 太宰には自分を育ててくれた叔母の存在が大きいのではないだろうか。しかも叔母の子どもたちは皆女性であったようで、幼い太宰は女家族の中で育っている。だからなのか、太宰はいつも自分に優しくしてくれる人、女の人が持っているひたむきな優しさに、甘えようとしたのではないかと思う。それが4回に及ぶ自殺未遂となった。ところで、「太宰」とはどのようにして付けられた名前なのだろう。ダサイなどという言葉は無かったから、断罪とか堕胎とかからの連想なのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする