友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

役割を終えたものの務め

2016年05月31日 18時50分04秒 | Weblog

 「市民による市民のための勉強会」を発足させて10年になる。10年50回の目標達成まであと少しになった。ここまで続けられたのは、なんと言ってもお金を出してくれた山田さんのおかげだ。私はただ事務的なことをまめにこなしてきたに過ぎない。例会の場所を決め、会の司会をし、講師の依頼に走り、講座の準備をする。そんなことを繰り返して10年になってしまった。

 せっかく知名度が上がったのに、これで終わるのはもったいないと言う人もいるが、私は引き際だと思っている。前にも書いたけれど、植物の葉は太陽の光を取り込む重要な役割がある。よく見ていると、新しい葉が出てくると古い葉は陽が当たらなくなって枯れていく。絵本『葉っぱのフレディ』はそうした命のつながりをよく表している。

 どうするかは次の世代が決めればいい。必ずしも受け継ぐ必要はない。否定していくことになっても仕方ない。動物のように五感が発達していれば、次の場所へ移動すればいい。植物のようにこの場に留まるにしても、どう生きるかを判断する植物なりの機関が働くだろう。役割を終えたものは出来るだけ素早く交代した方がいい。

 講師を引き受けてくださったその道の先人たちに感謝である。50人もの講師の皆さんがいたからこそ大和塾の市民講座は続いてきた。市民講座の役割を話し合っていた時、塾生のひとりが「市民社会の成熟の一助となること」と言った。私たちは我武者羅に生きてきて、豊かな社会を創り上げた。けれど、そこにまた新しい歪みが生まれてきた。

 成長とはそういうものだろう。豊かさだけではダメなものがある。その原因に切り込み創り直していくには、主人公である市民が成熟していかなくてはならない。私たちがその役割を終えても必ず次の誰かがまた始めてくれる。そう信じたいし、いつもそうやって、人間は生きてきた。人間バンザイ!

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到達点にいる

2016年05月30日 17時58分54秒 | Weblog

 森羅万象、この世にあるものには命がある。母はよくそう言っていた。朝日に向かって合掌し、お寺やお宮で深く頭を下げ手を合わせた。母が言うように、太陽や大きな岩や樹齢何百年の大木は、威厳があり神様が宿っている気がした。草や虫やコケにも命があると私も信じていたが、コケも人間も元は同じ生命体と聞いた時は、新鮮な衝撃だった。

 どのようにしてこの地球に生命体が生まれたのかは確かではないが、生まれた生命体はそれぞれに進化していった。動かない方に進化した植物、動く方に進化した動物、それぞれが生命を維持し子孫を残してきた。ということは、今、現在が最高点にあるということだ。アオミドロを見て「なんだ、進化できていない、遅れている」とは言えないのだ。

 バラを手入れしていると、新しい芽が出て葉が育つと古い葉は黄色になって枝から落ちていく。時々嫌がる葉があって、病気になったりして困らせる。花の咲く草木は、花が咲き実を付けると花の時期が終る。そこで花をこまめに切り取って実を結ばせないようにするとかなり長く咲き続ける。生命体はそれぞれに精いっぱい生きているのだ。

 そこで気が付いた。人間の社会も同じではないだろうか。アフリカや南米の原住民を「遅れた連中」と蔑むことは出来ない。それぞれがその生まれた環境では充分に到達した生活であった。欧米人が日本人を見た時、「(遅れていると思ったが)文化は高い」と記している。裸で生活していても、他人を思いやる気持ちが社会の仕組みになっていれば、戦争に明け暮れる人たちよりも文化レベルは高い。

 イスラム教国は私たちには理解しにくいが、今もなお分かち合う価値観を持っていると聞いた。エジプトで品物を買った人が、「20個くれ」と言ったら、1個の時の値段の倍の20個分を請求された。たくさん買うのだから安くなるはずと言うと、「あなたは金があるのだからたくさん払っても困らない」と言われてびっくりしたと言う。お金持ちはたくさん支払い、平等になるという訳だ。累進課税方式で、これも到達した文化である。

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絶対はない、つまり何でもありなのだ

2016年05月29日 19時38分06秒 | Weblog

 「日本人は立派だ。原爆を投下した国の大統領に抗議することもなく、核廃絶に努力してくれると信じる」とオバマ大統領の演説に感心している人を皮肉る。そうかと思うと、「言葉だけなら誰でも出来る。実行してこそ本当の意味がある」と手厳しい。日本人は昔から、物事の白黒を徹底しないできた。どんなことをされても、逆にどんなことをしても、いつも「水に流す」ことで終わりにしてきた。

 それは日本の風土に大きな要因があるように思う。どんなに寒い日々が続いても、いつか必ず春が来て草が萌え葉が茂る。どんなに熱い日々がつづいても、いつか必ず秋が来て稲穂が実る。仏教が伝来した時も、それまで信じてきたものを破棄することはなかった。仏教の教えと土俗の信仰を合体させ、日本の仏教を作り上げていった。仏教には死者がこの世に帰ってくる教えはないが、それまで行っていた満月の夜に死者が戻るという言い伝えは「盆」となり、仏教の重要な行事となった。

 仏教では殺生を禁止したが、日本では神羅万象となり、いつの間にか山や大木への信仰が「八百万の神」へとなった。外来の教えをも巧みに取り入れてしまった。領地争いをしても、責任者の首を切り、皆殺しまでしなかった。適当なところで収めることで手を打ってきた。「あいまい」は切り札であり助け舟でもあった。徹底しなかったから、原因を探り改めることもしなかった。

 絶対がない、つまり何でもありなのだ。私はこれが嫌で、キリスト教に心ひかれた。でも、1神教のキリスト教の世界でも、ヨーロッパでは土俗の信仰がお祭りとして残っている。ハロインなどその典型だろう。人間は絶対的なものを求めながら、完璧にはなれないのだ。そのくせ絶対はないと言われると不安になってしまう。それだけ今が混とんとしているということなのかも知れない。

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オバマ大統領の広島訪問

2016年05月28日 17時51分57秒 | Weblog

 「凄かった」と朝、顔を会せるなりカミさんが言う。てっきりオバマ大統領の広島での演説のことかと思ったら、「錦織がフルセットの末に勝ったのよ。解説者も錦織の粘り強さに感心していた」と言う。昨夜、試合が終わるまでテレビを見てしまったそうだ。スポーツの試合になるとカミさんは熱狂的になる。「勝者と敗者に分かれるから、つまらない」と私が言えば、「どう勝つか、そのプロセスが面白いのに」と呆れた素振りで言う。

 今朝の中日新聞はオバマ大統領の演説の全文を英語と日本語で掲載していた。「こっちも凄いね」と言うと、「現職の大統領が広島を訪れることだけでも凄いのにね」と、昨日からオバマ大統領の広島訪問のニュースを何度も見たカミさんは言う。「17分も演説するくらいなら、もう少し原爆資料館をじっくり見て欲しかったな」と私が言えば、「被爆者の方たちと話もされているのだから、オバマ大統領としてはギリギリのところなのよ」と諭された。

 原爆を投下したことに対する謝罪がないと言う人もいるが、カミさんの言うようにあれがオバマ大統領としては限界だったのだろう。原爆資料館で何を見たかということも「アメリカとの約束で言えない」と館長が言っている。これからは、演説したように核廃絶に向かって具体的な1歩でも2歩でも進めて欲しいが、演説の中で「生きている間は無理だろうが」と述べているからやる気はないのだろう。

 サミットも「世界経済の回復に向けてみんなで努力しよう」というだけのセレモニーであるし、歩調を合わせるためにと、安倍首相は来年の消費税の引き上げをさらに延期する理由を作り上げる場であった。それでも首脳たちが他国を知る機会になればそれでよいのかも知れない。サミットで面白かったのは、カナダの首相夫妻が結婚記念日(25日)は公務を全て休み、ハイキングなどを楽しんだことだ。しかも、「ポケットマネーで支払った」とまで報道されていた。

 束の間ながら、異国の土地で、結婚記念を祝うとは、さすがに若い首相である。「凄いわね」とカミさんは感心する。私は舛添知事への当てつけ報道に感心する。さて次は、12月に安倍首相が真珠湾で謝罪をする番だと思うがどうだろう。

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それも含めて仕方がない

2016年05月27日 18時44分23秒 | Weblog

 「先生、いる?近くに来たから」と卒業生から電話が入った。彼女のクラスの子が一番よく我が家に遊びに来ていたが、「初めて来た」と言う。話をしていると当時のことが思い出される。可愛くてきれいな子だったのに結婚は遅かったと記憶している。その話をすると、結婚に至った過程を話してくれた。ひとり娘が歌手デビューすることも半分心配しながら話す。本当に人生はいろいろだ。

 このクラスの子たちも還暦を迎えた。行方知らずの子もいると言う。クラス会の他に女子だけで集まっているようで、「先生も来る?」と言ってくれる。女子会か、ちょっと緊張するなあー。今もデザインの仕事を続けている子もいるし、全く違う分野で活躍している子もいる。教師としては、教え子が例え分野が違っても元気に活躍していると聞くと嬉しくなる。

 今日、私の高校の新聞部の仲間から集まりのメールが届いた。案内ハガキではなくメールというのも今を象徴している。もう、何年も前から集まろうと言っていた。「それなら桑名でやろう」と提案した本人から全く音沙汰なかったので、やっぱり今年もダメかと思っていた。高校生の時から意外に約束をすっぽかすことがあったから、ちょっとネジを巻かないとダメかと思っていた矢先だった。

 高校の同窓会は毎年盛大に行われているようだが、私は一度も行ったことがない。新聞部に在籍し、文芸部の機関紙にも寄稿し、生徒会長も務めたが、人生を語り合えたのは新聞部の仲間だったから、新聞部の集まりがあればそれで満足なのだ。私にとって高校は人生を考える場であり、青春そのものだったのに、同窓会に出たいという気になれなかった。「誰だったけ?」と言われることが嫌な見栄っ張りなのだ。

 人生もそろそろ終末なのだから、どこでどんな恥をかこうとかまわないのに、意外にヘンなプライドが残っている。まあ、それも含めて仕方がないと思う。

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私は何になりたかったのだろう

2016年05月26日 18時06分01秒 | Weblog

 小学校の帰り道に外科医院があり、その庭にたくさんのバラが咲いていた。中学生になった時、裏の畑には柿木と茶木しか植えられていなくて、畑としては使われていなかったので、父親に頼んでこの土地を貸してもらい、花園にしようとした。何よりもバラを植えたかったのに、私の小遣いではバラ園にすることは出来なかった。

 その負い目なのか、ルーフバルコニーで15鉢のバラを育てている。私の部屋の窓から咲き誇るバラが見える。窓際にアジサイの鉢を置いているが、やっと花が膨らんできた。緑に囲まれて満足なのは、子どもの頃からの欲求だったのかも知れない。ふと、私は何になりたかったのだろうと思った。庭を造る人、家を設計する人、映画監督、新聞記者、牧師…。

 結局、職業は強く望んでなる人もいるけれど、私の場合は成り行きだった。大学で美術を学んだのも、東京には行けない、私学は無理、それなら受かるところで好きな科目という安直な選択だった。岐路はいくつもあったが、環境とか時期とか能力とかいろんな要素があったとしても、最後は自分で決めているように思う。

 高校の美術の教師になり、現代アートの代表格だった大学の先輩に、「インドへ一緒に行かないか」と誘われたのに行かなかったことが一番悔やまれる。「教師になるか、アーチストになるか、はっきりしないとダメだ」とアドバイスを受けていたのに、踏切ることが出来なかった。自分のアーチストとしての能力に自信がなかった。

 内ゲバに巻き込まれて滅多打ちされ、両手は粉々になった。教師を辞めてからの10年間、長女には辛い思いをさせた。私は職業を転々とし、夫婦仲は悪く、生活はカミさんに頼るものだった。「パパは言ってることとやってることが違う」と長女には映っていたことだろう。自分で地域新聞を始め、やっと自分らしく生きる世界を得た。それがルーフバルコニーでのバラになった。

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「藤田嗣治展」を観る

2016年05月25日 18時54分38秒 | Weblog

 藤田嗣治はフランスで称賛されたのに、なぜ日本ではそれほどではなかったのだろう。名古屋市美術館で行われている『藤田嗣治展』を観ただけでその謎が解けるわけではないから、私の勝手な解釈になってしまう。嗣治は1886年(明治19年)の生まれ。翌年には東京美術学校が設立されている。嗣治が14歳の時に描いた水彩画が評価され、画家になる決意が生まれたようだ。

 東京美術学校の頃に描いた作品が展示されていたが、画学生なら描くであろう普通の油彩画だった。フランスに渡ったのは27歳の時で、その頃のパリには画家を志す若者が集まっていた。しかも印象派に代わる新しい作風が探求されていた。だから、1914年に描かれた嗣治の作品は、どれもピカソやブラックの作品にそっくりだ。

 写真がなかった時代の絵画は、記録の意味が大きかったから写実の技術が求められた。けれども何を描くか、何を伝えるか、絵画の役割が変わり、観たことのない表現されたことのない作品が人々の関心になった。嗣治が幼い時から慣れ親しんできた面相筆で描く技術がパリの人々には新鮮だったのだと思う。

 嗣治にメチャクチャ写実力があるというより、白い下地に面相筆で線描きする東洋の技法が評価されたのだ。一躍世界のフジタとなったのに、日本の画家は「あれくらいならオレでも描ける」と嫉妬したのだろう。第1次世界大戦をフランスで体験している嗣治なのに、第2次大戦の時にはなぜか日本に帰国している。そして軍の嘱託となって戦争画を描いたので、終戦後は戦争協力者と非難された。

 嗣治は多く弁明せずに日本を離れてしまった。「仕方がないことだった」と言う人もいるけれど、お金もあったのだから、海外へ脱出することもできたはずだ。それでも嗣治が描いた戦争画を見ると、決して戦争を賛美しているようには思えない。私の後ろで3人の女性が、「この人、4回も結婚しているのよ」と話していた。「それのどこがいけないですか?」と思いながら聞き流した。

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本当に男尊女卑だった

2016年05月24日 18時08分49秒 | Weblog

 「本当に男尊女卑だったのですかね」と40代の男性は言う。彼の生まれ育った環境や今の家庭の有様からは想像が出来ないということだろう。確かに現在は、核家族のため家に年寄りがいないが、以前は3世代あるいは4世代同居が普通だった。会社員が誕生して、核家族で生活できるようになったからだ。

 たぶん、昭和30年代の初め頃から景気がよくなって、一気に核家族化が進んだと思う。我が家は材木屋を営んでいたけれど、新しい家がどんどん建つ時代だった。我が家は祖父母、父母、兄夫婦とその子ども、私と妹の10人家族だったが、兄の子どもが生まれて間もなく、父は食事を母屋から私たちの住まいだった倉庫に変えてしまった。

 食卓が狭すぎたこともあるが、祖父と父は食事中も全く話をしないほど仲が悪かった。それに大家族だったからか、初めに祖父がお酒を飲み終えて食事をする時に、男たちが食卓に着き、男たちが終わった後、女たちが駆け込むように食事をするのが常だったから、父は母のことを思い、食事の場所を切り変えたように思う。

 私たちの住まいの方には水道がなかったから、母屋から水を運んで来なくてはならない。これは父と私の仕事だった。4人が揃って話をしながら食事が出来る現在のスタイルになったが、友だちの家も核家族が多かったから、やっとみんなと同じになったと思った。夫を戦争で亡くした女性はそのまま家に留まるより、実家に戻るか夫の兄弟と再婚するケースが多かった。

 働く女性の待遇が改善され始めたのは20年位前からだと思う。政府も女性管理職を増やすようにと指導をした。しかし家事や育児は女性の仕事という考え方はすぐには変わらなかったから、結婚しても働く女性たちには負担が重かった。そこで男性も家事や育児を分担するようになった。

 でも、それだけでは男女平等の社会にはならない。社会の仕組みや職場のあり方、賃金の体系など、少しずつ理想へと進めていく必要がある。上野千鶴子さんの原点は学生時代にあるように思う。古い体制を打破し人間らしい社会を求めた学生運動、けれどデモが終ると男たちは「おい、お茶!」と女子に言ったという。なるほどと私は感心した。

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バレーボール女子と白鵬とイチローの快挙

2016年05月23日 18時42分53秒 | Weblog

 日本のバレーボール女子がオランダに競り勝ち、アジア最上位となり、オリンピックでの活躍を期待する声が大きく報道されている。快挙であることは間違いないが、快挙と言ったら、白鵬もイチローも凄い。白鵬のコメントを聞くと、この人ほど上手な日本語を使う力士はいるだろうかと感心する。日本人よりも日本人らしい言葉の使い方だ。

 全勝で優勝した千秋楽の白鵬の笑顔は本当にうれしい気持ちに溢れていて、「全勝優勝は気持ちいい」と、まるで北島康介のように素直に喜んでいた。スポーツ選手に記録は付きものだが、今場所の優勝で37回とトップであるし、全勝優勝も12回目で自身の持つ最多記録を更新した。続く名古屋場所で13勝すれば、史上3人目の1000勝に到達する。「頑張ります。そういうの燃えるよ」と意欲を示す。

 「土俵に上がると違う白鵬がいる。白鵬がふたりいる」と言うが、聞いている方がなぜか納得できる表現だ。イチローは急遽、先発となったのに、5打席で4安打を放ち全席で出塁、通算3000安打へ46と迫った。好調の要因を聞かれても「ま、いろいろ経験してますから」と素っ気ない。それでも「久しぶりに野球をやった感じがします」とうれしそうな表情だった。隣町の出身というだけでなく、なんとなくこの男は言うことがしゃれていると思う。

 今朝は、第49回市民講座『「女性活躍」を阻むものは何か?』のチラシの郵送準備を、大和塾の皆さんと行った。宛名ラベルを封筒に貼り、封筒にチラシを入れ、糊付けをする。誠に単純な作業だけれど、人数が多ければ一気に出来る。市民講座の講師は上野千鶴子さんだ。大和塾の塾生のうちの4分の3が見合結婚である。手伝ってくれた市役所の若い女性職員がこの数字には驚いていた。7月3日の上野さんの市民講座が楽しみだ。

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国際交流演奏会のテーマは「親と子」だった

2016年05月22日 17時39分06秒 | Weblog

 国際交流演奏会は、市の管弦楽団をメキシコの音楽家・アグアヨさんが指揮をするというものだった。まだ市になっていない町の時代、町長は「近辺にはない文化会館を建てる」と言う。せっかく建物が出来ても、それが活用されなければ意味がない。幸いにもこの街には芸術大学がある。高校にも中学校にも吹奏楽部がある。「町民オーケストラを作りましょう」と提案すると、「いいね。任せる」と二つ返事だった。

 「楽器が好きで演奏したい人、熱意があれば経験がなくてもOK、そういう楽団を作りたいのですが」と芸大の学長から紹介された音楽の先生に話すと、「それでいいでしょう」と言われた。そこで募集を始めると、本当に「経験ないけどやりたい」という人が来た。先生はニコニコしながら受け入れてくれた。それでもやはり柱の人が必要だろうと思い、住民の方でプロで活躍しているバイオリニストに参加を要請した。

 楽団員同士で結婚したカップルも生まれ、順調に育っていったので私は演奏会から遠のいていたが、国際的な音楽家とコラボが出来るまでになっていた。教育者でもあるアグアヨさんは「今日のテーマは親子です」と、流暢な日本語で話す。「子は親の物ではありません。親は子の相談相手でなければダメです」と言い、ご自身が18歳の時に作曲した曲やハープの独走がある協奏曲、バッハのカンタータやフォーレのレクイエムなど4曲を演奏した。

 私は初めて聞く曲ばかりだったが、優しさと広がりがあって感動した。アグアヨ合唱団の歌声もとてもよかった。こんなに素晴らしい演奏会なのに客席はガラーンとしていて残念だった。音楽には人の心に入り込む力がある。よく分からないが、昇華する何かがある。さらに昨晩はテレビで、是枝監督の映画『海街diary』を観た。家庭を壊した父親が産ませた腹違いの妹を引き取り一緒に暮らす物語だ。親と子、兄弟姉妹、話は違うが火曜日の夜10時からのフジテレビ系の『僕のヤバイ妻』は夫婦の恐ろしい話で面白い。

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