友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

若き数学者とアメリカ

2007年05月31日 22時22分10秒 | Weblog
 今日は一日中強い風が吹いている。ルーフガーデンでの作業ができないから、こんな日は机に向かうほか無い。机に向かっていると眠気が襲ってくる。そんな時は何も遠慮することはないと思い、横になって本を読む。本など読まなければそのまますやすやと眠りに落ちるのに、逆に眠気が吹っ飛んでしまうことがある。だから眠りたい時は、なるべく難しそうな本がいい。ごちゃごちゃ考えているうちに眠りについてしまうから。

 失敗だったのは藤原正彦さんの『若き数学者のアメリカ』を読んだ時だ。藤原正彦さんは『国家の品格』の著者であることは知っていたが、そんな本を書くような人はかなり年上の社会学者か憲法学者だろう。あるいは哲学者か文学者かもしれない。そんな程度に思っていた。書店で何気なく文庫本を見ていたら、帯に「『国家の品格』の藤原正彦が若き日の苦悩を描く、感動の米国武者修行!」とあるのを発見した。表紙のカバーの裏側に、藤原正彦さんの写真とプロフィールが載っている。「1943年旧満州新京生まれ。故・新田次郎と藤原ていの次男」とあった。

 新田次郎の作品は読んだことは無いが確か、『八甲田山死の彷徨』とか『武田信玄』を書いていた。新田文学賞という賞もあったように思う。藤原ていの名は聞いたことがある程度の記憶しかない。何よりも私の目を釘付けにしたのは、「1943年生まれ」だった。エツ!私の1歳上か!それで読んでみたいと思った。『国家の品格』もまだ読んでいなかったから、まずは著者がどんな人なのかと興味が湧いた。

 『若き数学者のアメリカ』は1977年(昭和52年)11月に新潮社から刊行されているが、書かれているのは1972年の夏に、アメリカのミシガン大学に研究員として招かれて出発するところから始まる。書き出しは「夜の天井は星屑であり、下には不動の暗黒があった」とずいぶん文学的な表現だが、読みやすい文章だ。29歳の「若き数学者」は「殴り込みをかける、とでも言うような荒っぽい考えが心の底に台頭して来るのを感じた。(略)このような感情の変化は日本を出発する前には予想もしなかったものだった」「(略)この自意識は、心の奥に、しかも思ったより深い部分にまで浸透し、その後、1年間ほど、そこに居座り続けた」。

 友人の大学教授は物理学者だが、彼もまたこんな思いを抱いてアメリカで研究をしていたのかと想像しながら読み進んだ。友人の大学教授が単身赴任でロッキー山脈の中の小さな学園都市プルマンにいるのを、クリスマスとお正月を一人で過ごさせるのはかわいそうだというので、彼の夫人とその子と私達夫婦とで訪ねたことがあった。私は初めてアメリカ合衆国を見て、その国土の広さに驚かされたが、「アメリカ人に負けないぞ」という気負いはなかった。むしろ人々の質素な暮らしとお人好しな人柄に心動かされた。アメリカの田舎はまるで時間が止まっているかのようにゆったりとしていた。
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『もがりの森』を観て

2007年05月30日 23時54分05秒 | Weblog
 昨夜はNHKハイビジョンで、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した『もがりの森』を放映するというので、映画館で観たかったのを抑えてテレビで観た。確かにカンヌ映画祭が評価するような映画だった。アメリカでの映画祭の評価はエンターテイメントの要素が大きいのに対し、カンヌでは映画の芸術性がより大きな比重を占める。『もがりの森』を観て、これならカンヌでは評価されるだろうと思った。カンヌはちょっと嫌な言い方をすれば、こむつかしい映画の方が評価される。

 しかし、私には退屈だった。同じ場面が余りにも長く続きすぎていると思った。確かにカンヌ映画祭ファンなら、しびれてしまうだろう映像の美しさはあったけれど、それも少しくど過ぎる感じがした。映画を観ていて、この作品は今村昌平監督の『日本昆虫記』に似ていると思った。筋書きはすっかり忘れてしまったが、『日本昆虫記』では乳が張って困る嫁の乳房を義父が吸うシーンがあったが、『もがりの森』では若い女性が痴呆症の年老いた男性を裸で暖めるシーンがあり、河瀬直美監督は今村作品を参考にしているなと思った。

 映画は常に全面が緑色で、豊かな日本の山野が見事に描き出されていた。「作り手の誠実な思いが感動を誘った」と朝日新聞は伝えていたが、私には河瀬監督の「思い」が何なのか、よく理解できなかった。デイサービスに携わる私には理解できない筋書きであり、それを映像を優先させて無視するとしても、いやそうすればエセになってしまい、映画の価値が逆に問われることになるが、そもそも痴呆症の人を一人にしてそばを離れることは絶対にありえない。あえて監督がそうしたとしたなら、その時点で二人は「死」へと向かっていると予感させる映画作りなのかもしれない。

 緑深き山を彷徨い、二人は男の妻の墓に参る。しかし、そこが本当に妻の墓であるのかそれも定かではない。山の中の場所もよくわからないようなところに人は墓など作らない。墓は人々が参拝することを想定しているのが普通だ。それでも映像では死んだ奥さんらしき人と男が踊っている場面が挿入されていたから、あそこは男の妻の墓だと見ていいのかも知れない。するとその後、男はなお森の中を彷徨い、そして穴を掘って、「気持ちいい」と言って、そこに身をゆだねるのだが、なぜ妻の墓の隣ではいけなかったのかがわからない。それにデイサービスの職員の女性も、自分が受け持ったこの男を助け出すのが職務なのに、逆に初めは男に助けを求め、そして次第に男の「死」を黙認するようになるのはなぜなのか、よくわからない。

 私が理解できるのは、この緑豊かな森の中で「死ぬ」ことは「気持ちいい」だろうということくらいだ。そう考えると、河瀬監督は人の生死なんてものは自然の中ではどうでもよいことなのよと言いたいのかもしれない。人は生まれた限りはいつか死を迎える。それでも人は、自分の人生はこんなものではないとか、これからこんなことをするんだとか、いろいろ思い巡らすけれど、どんな人生も大自然の中では大して違いは無いと言いたいのかもしれない。

 今日、テレビニュースで民主党の小沢一郎さんと安倍総理の党首討論をチラッと見て、小沢さんは「追及」のできない人だなと思った。安倍総理よりももっと自民党的な小沢さんでは、松岡大臣の「死」も大自然の中の小さな死に過ぎなくなってしまう。
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松岡農林水産相が自殺

2007年05月30日 00時00分06秒 | Weblog
 松岡農林水産相が自殺した。松岡大臣は、名前の利勝からもわかるように、戦争中の昭和20年2月生まれ。学年は私と同じだ。それだけに、ニュースは衝撃的だった。今日の新聞を読んでいくうちに、一昨年12月の上野西春町長の死によく似ていると思った。

 中日新聞は『中日春秋』で、「死者にむち打つことにもなろうが」「気の毒と思うが」「問題は問題としてなお追及されなければいけない」と書いている。朝日新聞は星編集委員の名前で「政治とカネをめぐる深い闇がのぞく」「安倍総理が政治の闇を払えないのなら、有権者が安倍自民党への『ノー』という意思表示で闇を晴らすことになる」と声明を載せている。

 政治活動にお金がかかるのは確かだが、お金を貯めるために政治家を目指したわけではないのだから、自腹を切って政治活動をすべきだ。政治家は、残念ながら何年経っても清貧のままが当たり前となるならば、お金のためではなく、理想の実現という名誉のために身を捧げようとする高貴な人で政治が行われるようになるだろう。

 正しく孔子が望んだ「君子」たちが、政治家となるのである。キリストが言うところの「貧しき者」によって行われる政治である。豊かな社会が必ずしも幸せな社会ではないことから、そこに気が付いた私たちがなすべきことは、人の社会のあり方は、人の生き方にもつながってくるように思う。けれど、政治は決して人の生き方を規制してはならない。
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バラに魅せられて

2007年05月28日 23時30分48秒 | Weblog
 気のおけない友人家族らで、岐阜県可児市の花フェスタへバラを見に行って来た。カミさんは花フェスタの年間使用のパスポートを手にしているから、バラが見事なこの時期にぜひ皆さんで出かけてみたいとお誘いした。今日は平日でありながら、人では実に多かった。バラが見事に咲き誇り、帰りには温泉に入って食事も楽しみ、素晴らしいとしか言いようのない一日だった。

 私がバラに魅せられたのは小学生の時だ。小学校2年生の時に、家を移ったので学区以外から学校に通うことになった。私は、気も向くままに帰り道を変え、本屋に立ち寄ったり、三味線を聴きに芸者さんらが住む界隈を歩いたり、酒蔵が並ぶ人の通らない道を行ったり、駅まで行くにはどう行けばよいのかと歩いたりした。そんな私が気に入った道の一つに、庭にたくさんのバラが咲いている家があった。外科医の庭で、外からも庭が見えるようになっていた。会社の重役の家と言われるに庭にもバラが咲いていたが、規模ではこの外科医の庭が一番だった。

 中学生か高校生になって、私の市にも「バラ愛好会」というような組織があることを知った。メンバーは市の有力者が名前を連ねていたように記憶している。私は、日本的なものを排除したいと言う気持ちと西洋的なものへの憧れから、バラに魅せられた。我が家の裏にあった土地に自分の小遣いでバラの苗木を買い、ここを「秘密の園」にしようと考えた。一人で土を耕し、買い求めたバラの苗木を植え付け、道を作り、庭園造りに燃えていた。しかし、80坪か90坪はあった、もしかするとそれ以上にあったかもしれない土地を、中学生が一人でバラ園を造るということは無謀な計画だった。どんなに働いてもすぐに雑草が生え、お金も無かったからバラの苗木も増えなかった。

 いつしか、「バラ愛好会」の若きメンバーになることは諦めた。バラは手の届かない存在となった。高校生になって、好きだった女の子が初恋の人だと思うようになった。彼女をバラに喩えた詩を書いたのも、バラへの思いがあったからかだろう。さて、どんな詩だったのか。彼女のことを、宵待ち草に喩えて書いた小説もあるが、あの文芸部の機関誌はどこにあるのだろうか。「バラ愛好会」のメンバーになれなかったように、初恋の人も私には高い存在に思えてならなかった。それは多分、材木屋であった我が家が破産していくことにかかわっていたのだと思う。人は生きていく過程でいろんな「負」を持つ。それは知らず知らずのうちにエネルギーに変るが、初めからこれがお前の「負」と突きつけられたなら、生きていくことそのものを呪うだろう。
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団塊世代の功罪

2007年05月27日 23時53分14秒 | Weblog
 先日、団塊世代が話題の種にされた。どうしてそうなったかというと、最近の若いお父さんやお母さんは誠に自分勝手ではないだろうか、という発言からだ。

 小学校の運動会などの行事がある時、運動場には入らないでくださいとアナウンスがあるのに、これを無視してわが子の写真やビデオ撮影をする。近所の公園の草取りも、「うちの子どもは使わないから」と参加しない。子供会の行事は、習い事があるとかクラブスポーツがあるとか、で参加しない。地域の行事になぜ自分たちが犠牲を払ってまで参加しなくてはならないのかというわけだ。それだけではない。子供会の役員は負担が多すぎるので引き受けない。引き受け手がいないのなら子供会を解散すればいいと、子ども会を解散した地域もいくつかある。

 この原因を作ったのはこの若いお父さんやお母さんを育てた団塊世代にあるというのだ。若いお父さんやお母さんの両親といえば、今の50代後半から60代の人たち、つまり団塊世代というわけである。私自身は団塊世代の走りだが、こうしたお父さんやお母さんの論理に反論できない。むしろ同調的だ。それはそれで仕方ないのではないかと思っているからだ。もちろん全面的に彼らを支持するつもりは無い。もう少しマナーを守って欲しいといつも思う。マナーはみんなが気持ちよく暮らすためのルールだ。これは価値観というよりも方便と思ってもらっていい。

 私たち、戦後に育ってきた人間は、全体よりも個人を大切にしてきた。「右向け右」と号令をかけられ、全員が同じ行動をとるのは運動会だけでよいと考えてきた。もちろん全員がそうだとは言わない。いつの時代だって多少はちょっと違っている人たちはいるのが正しい人間の世界なのだから。「右向け右」と全員が同じ方向を向いていることの方が安心できるという人たちの方が数は多いであろう。人間が「類的存在」という意味は、みんなが同じ方向を向いているということなのかもしれない。

 私たちが全体よりも個人を大切にしてきたことが、結果的には他の人のことを「思いやれない」人間を作り上げてきた。本当は、個人を大切にするということは、同じ個人である他の人も大切にすることなのに、残念ながらそこまで至らなかった。それはきっと、私たちが子どもたちに言ってきたことや子どもたちのためにやってきたことが、子どもたちにはまず自分という点だけに留まってしまったのだろう。

 私は子どもに「勉強などしなくていい」と言ってきた。今年、孫娘が中学に入って初めて受けたテストについてどうだったのかと話していた時、孫娘の母親である長女が「私の時はテストの結果なんか全く興味を示さなかった。私の成績を見たことも無い」と言う。確かに子どもたちの通知表を私は見た記憶が無い。長女は「放って置かれた」と言うが、ニュアンスはちょっと違う。勉強を強制するつもりは無い、つまりは自分がするんだよと言いたかったのだが、どうもうまく伝えられなかったと20数年も経た今、気がつくようなダメな父親である。
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7月14日

2007年05月26日 23時59分08秒 | Weblog
 筑波大学を卒業した女の子が、障害学研究会中部支部を立ち上げ、7月14日には中京大学でセミナーを開催すると伝えてきた。7月14日といえば「巴里祭」である。1789年、パリ市民がバスティーニ監獄を襲撃し、占拠して多くの政治犯を解放した。フランス革命の始まりである。池田理代子さんのマンガ『ベルサイユの薔薇』でこの経緯を知っている人も多いだろう。

 私がフランス革命とともに覚えた名前はロベスピエールである。同じ急進的な共和派の中でも、ダントンやマラーよりも若くて理知的な肖像画だったので、ファンになったに過ぎないが、自分が生きていく上でも象徴的であった。ロベスピエールの思想はすこし早すぎた。ダントンにバトンタッチしていればフランス革命の展開も少しは変っていたかもしれない。しかし、歴史に仮定は禁物で、結局はなるようになったということなのだ。

 フランス革命でのあの有名な人権宣言は、立憲君主派貴族が実権を握っていた8月26日に行われている。人権宣言はその後のアメリカ独立宣言へと脈打っているし、1946年の日本国憲法はこの流れを受け継いでいる。私が面白いなと思うのは、フランス革命は結果から見ればブルジョワ革命であったが、ブルジョワではない立憲君主派貴族が実権を握っていた時に発せられているということだ。つまりはその時点で、共通の理解のもとにあったということだ。

 安部総理は、「戦後レジームからの脱却」と言うけれど、日本国憲法もフランスの人権宣言同様に、保守派の人々も含めてこれでいこうと決めた憲法なのだ。フランスの人権宣言がその後の民主主義の基本となったように、日本国憲法も21世紀の基本となるだろうと私は思っている。久間大臣が「クライスラー爆弾は防衛のために必要」と言い、その被害に多くの国民が遭ったとしても仕方のないことだと発言していたが、この発言は「人権宣言」以前のレベルだ。もし久間大臣が国民を守ることが一番大事だという考えなら、戦争はせずに降伏することだ。降伏したならば、時の政府要人は殺されることはあっても、戦争で死ぬ人数に比べれば少なくて済むはずだ。いつもそうしてこなっかたのは、要職にある人たちが国民よりも自分たちの安全を考えてきたからだ。

 さて、7月14日の巴里祭よりも10日前はアメリカの独立宣言の日である。そうしてみると、7月という月は人類の発展と深くかかわりのある月と言える。7月生まれの方々に乾杯!
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面白ければいいのか

2007年05月25日 23時49分38秒 | Weblog
 あんなに雨が降っていたのに、今は月が見える。
 久しぶりに電車に乗った。女子大生と女子高生が車両を占拠していた。年寄りが乗ってきても誰一人として席を立たない。乗換駅で大量に降りた女子大生がプラットホームで金切り声を上げていた。それを聞いていた女子高生が「馬鹿みたい!」とはき捨てるように言う。「お化けみたいな化粧をしてさ、足りんと違う」ともう一人が言う。君たちだってそんなに変らないよと言いたくなる。大股広げて、ケイタイ片手に、どうでもいいような話にケタケタ笑う。金切り声の女子大生はいずれ2年後か3年後の君たちの姿でしょう。

 専門学校も含めて、高校卒業者の70%が進学する時代だ。誰もが女子大生という時代である。女子大生とは化粧をした幼い子どもであって、品が無いのが当たり前で、品がないなーなどと嘆くほうが間違っている時代なのだ。彼女たちの誰が文学作品を読んでいるだろうか。せめてちょっとばかり気取った映画や芝居に興味を示して欲しいと思う。男がどうしたとか、あそこの店はよくないとか、お金の話とか、お化粧がどうのとか、そんな話しかできないことがイヤにならないのだろうか。

 小説は読まないのですか?と聞いてみたい。馬鹿馬鹿しいことだけれど、ソクラテスが「汝自身を知る」となぜ言ったの?同じ時代の中国の孔子が「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」と言ったのはどういうこと?あなたが大切に思っていることは何?あなたは何を求めて生きているの?彼女たちにこんな質問をしたら、「馬鹿みたい」と一蹴されてしまうだろう。

 テレビではいろんな事件が報道されている。いついつどこどこで、このような殺人事件があった。ひったくりがあった。交通事故があった。テレビにしても新聞にしても、実に念入りに報道する。報道する人たちは、自分たちがなぜこれを皆さんに伝えなくてはならないのかと考えて報道しているのだろうか疑問だ。私も報道する側にいたけれど、テレビや新聞を見ると、本当にこういう報道が必要かと思うことがある。事件を抑制したり、本来の報道の姿勢であるみんなで問題を考えていくうえで、その材料を提供することは大切な報道の使命だ。しかし、興味本位になり過ぎた報道は無いのだろうか。

 ドラマのテーマや作り方、ニュースのテーマや伝え方、いやそもそも伝達媒体そのものが、受け手がただ面白ければよいとする価値観を持つようにしてしまっていないか、そんな気がする。私たちは今、みんなでよってたかって、「面白ければいい」だけの人間、そんな社会を作っていないだろうか。
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涙もろさは母似

2007年05月24日 22時49分31秒 | Weblog
 最近とても涙もろい。そんなことを話していたらカミさんが「何言ってるの。昔からじゃーないの」と言う。結婚したばかりの頃、『コント55号』という萩本欽一と坂上二郎のテレビをよく見た。余りにおかしくって涙が出てしまったことがある。落語も古典落語は人情話が多いから、聞いていると笑いながらも泣けてしまう。

 昨日は、名演で『ルームサービス』という芝居を見た。コメディータッチの芝居で、随所で笑わせるのだが、最後になって涙が止まらなくなってしまった。アメリカの芝居だから、難しいテーマがあるわけではない。売れない劇団のプロデューサーがあの手この手で上演にたどり着くまでの、馬鹿馬鹿しいような話に過ぎない。ドタバタの末にやはり最後はハッピーエンドで終わる。

 私が泣けてしまったのは、なぜなのかと後から考えた。主人公のプロデューサーはいかさま師と言っても良いくらいに人を騙す。それでもなかなか演劇の上演までに至らない。そこでさらに上演のために、あらゆる人を騙し続ける。こんなにまで騙し続けたのだから、せめて最後には花を咲かせてやってほしいと思うまでになっていた。よく考えれば、プロデューサーの彼が悪というわけではない。善悪で言うなら、ここには悪い奴はいない。プロデューサーを目の敵にしたホテルの重役だって、自分の仕事に忠実なだけだ。仕事に忠実すぎて、人の情けを忘れたかも知れないが、それでもそれで彼を責めることはできないだろう。

 みんながそれぞれに自分に忠実に全力を尽くした。一人も手を抜く人はいなかったし、人に責任を押し付けることもなかった。「あれだけ一生懸命にやったのだから、最後に上演できて本当によかった」。そう思ったら泣けてきてしまった。ハッピーエンドだし、コメディーだし、何も泣くまでもないじゃないかと自分でもそう思っていたのに、また涙を流してしまった。一生懸命にやって、報われて本当に良かったと思えたのだ。

 「男は泣くものじゃーない」と私の母はよく言っていた。そういう母は涙もろくて、他人事のはずなのに、聞いていた母の方が泣いていることがよくあった。私は、自分は父親に似ていつも冷静に見ている方だと思い込んできた。しかし、歳を取った今となってみると、どうやら母に似て涙もろい性格のようだ。怒ったり、怒鳴ったり、人を危めたり、人を騙したりする性格よりも、母に似て何にでも泣ける性格でよかったと思う。
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許す心を持て

2007年05月23日 22時15分31秒 | Weblog
 やはり、時間がなかった。ちょっと焦っていて、何が書きたかったのかわからなくなっていた。昨日のブログのことだ。

 今日、人との会話の中から『晩秋』の年老いた父親役の俳優は、『アパートのかぎ貸します』などで有名なジャック・レモンと教えてもらった。残念ながら余り俳優の名前を知らない私には、そんなに有名な俳優なのか、じゃーあの映画はメジャーなのか、そんなことくらいしか思いつかなかった。

 また、横道に逸れてしまったが、50年以上も一緒に暮らしながらも、人はなかなか理解し合うことが難しいということは理解できた。多分それは、恋人なら夫婦なら「一体になる」という幻想に縛られているからだということもわかった。私は「愛することの呪縛」に取り付かれているのだろう。愛することは一方的なことなのだ。愛するだけでよいものを、人は愛することへの見返りを求めてしまうから、難しい存在になってしまう。

 父親は家族のために、働いてきた。子どもたちが育ち、巣立っていく。夫婦二人の安住の生活が始まる。それなのに、求めているものは違う。違ってもよい。付き合える部分で付き合っていけばそれでよい。そんな当たり前のことが、頭では理解できても、現実生活では不満の形で現れてしまう。「19歳の若者となった老いた父親は、子どもたちの世話をしたり、温室で花を育てたり、実現できなかったけれど、海岸で妻と踊ったりしたかった」。彼は生活のために犠牲にしてきたものを、老いた今やろうとしているのだが、しっかり者の彼の妻はつつましく充実した日々こそが大事と思っている。

 老いた父親が息子に語る最後の言葉が、「やればできる」というアメリカンドリームで、その息子が自分の子どもに語る言葉が、「許す心を持て」というのも面白い。息子は父親の姿を見て育つ。老いた父親の息子は労働者ではなく、お金を動かす経営者になる。それこそが男の価値と思い、家庭崩壊を招いてまでも働き、冨を築いてきた。両親の離婚を見て育ったその息子は、大学を出て資格を得る道を捨てた生活を選ぶ。

 3代の男の生き方は違う。何が幸せかではない。人はどんな風に生きるかだと思う。それでも3代の男はそれぞれの生き方を認め、敬意を持って受け止めているようだ。この映画では、男たちはそれでよいかも知れないが、老いた妻はそれでよかったか、夫婦のことが描き切れていないと不満が残った。夫婦は、きっと親子のように、血で理解し合うことはできないだろう。相手への思いやりと妥協とあきらめに尽きるのかな。

 先日もカミさんが包丁をタナの上に置いたままにするので、「何回も言って申し訳ないけど、包丁はキチンと仕舞っておいて」ときつく言ってしまった。そるとカミさんは「そんなに言うなら気が付いた自分がやればいいのよ」と言う。もちろん私はすでに仕舞っている。私は包丁がよく目に付くところに置いてあることがイヤなのだ。もう、そんなに若くないのだからカッとすることはお互いに無いかも知れない。まずそんなことは無いだろうけれども、不安なのだ。だから仕舞っておいて欲しいと言っているのに、全然で聞いていないことが腹立つ。

 二人の価値観は違う。私がものを言えば「どうしてそんな小さなことばかり言うの。もっと大事なことがあるんじゃないの」と言い返されてしまう。言えば角が立つから何も言わない方がうまくいく。しかしいつか、どこかで、何かで、不満は吹き出ることになる。もちろん不満を持たなければよいわけだから、飄々と生きていくことがうまい方法だとは思う。

 『母と娘』は、そういう意味で母親と娘が血で理解していく様子がリアルに描かれていた。母親は家族のために香港に出稼ぎに行くが、子ども、中でも娘は母親が自分達を置き去りにしたと恨む。この食い違いがなかなか埋まらない。娘は盛んに「家族のためと言いながら本当は自分のためじゃないか」と責める。母親を「決して母親と認めないし、許さない」と責める。母親は家族のためにつらい思いに耐えて働いてきたことが理解されないことに苦しむ。そして二人の感情は爆発し、心の中にあったものを全てぶちまけてしまう。その後はお互いを理解する。

 それでも生活のために再び母親は出稼ぎに出発するところで終わる。娘は母親の出稼ぎをテーマに論文を書くと母親に言う。国の誇りだとも。豊かになることは同時に貧しくなることのようだ。母親の出稼ぎで買われた物であろう家電製品や家具が揃う豊かな生活がある。その恵まれた生活の中で、娘は母親を憎み、罵倒し、自ら身を崩す。求めるものが大きければ大きいほど、失うものも大きいのだ。

 「許す心を持て」と言った父親の言葉は正しいと思う。いつだったか友だちが「そういう意味では日本人はすごいですよ。何でも水に流してしまうのですから」と皮肉を込めて言ったけれど、そのとおりだと思う。「許す心」は尊いし、人間として最高の精神だと思うけれど、「許す心」は水に流せということではない。「水に流す」のを許してしまえば、歯止めはかからない。何が問題で、それはどのように克服しなくてはならないか、私たち自身が問われていることだ。

 私は自由を求める。人は自由でなくてはならない。自由でありながら、人と人とのつながりとルールを作り上げ守っていかなくてはならない。無秩序の上に作られる秩序こそが大切で、秩序が目的にならないようにしなくてはならない。
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晩秋

2007年05月22日 23時59分26秒 | Weblog
 昨夜は『晩秋』を、今夜は『母と娘』をBSテレビの衛星映画劇場で観た。
2作とも素晴らしい映画だった。昨夜の『晩秋』はアメリカ映画で、舞台はカリフォルニアだった。題名からも想像がつくように、人生の終わりをテーマにしていた。結論から言うと、アメリカ人の中にもこういうテーマを真面目に扱う人がいるのだと感心した。アメリカ映画といえば、ハッピーエンドというのが相場だ。もちろんこの映画だってある意味ではハッピーエンドかもしれないが、よくまあーこんな思いテーマに取り組んだと思った。

 年老いた母親が心臓発作で倒れる。息子が両親の元に戻る。多分、息子は母親が回復すれば、自分もまた職場に復帰できると軽く考えていたと想像する。ところが、父親の様子がおかしい。おかしいばかりか、ガンなれば死ぬしかないとおびえる。そして本当にガンとわかり、一変する。父親の看病のために、職を捨て付き添う。別人のようになった父親を自宅に連れて帰るが、やはり手に負えなくて病院に戻る。そこで良い医師にめぐり合う。父親は奇跡的に回復し、家に戻って普通の生活を始める。

 やはりハッピーエンドじゃーないかと思った。ところがここからが違う。これまでが序曲で、いよいよここから『晩秋』が始まる。息子は会社を辞めて、両親と暮らす。父親は元気になり、近所の子どもたちの面倒を見たり、農夫に憧れたり、海岸に行って踊ろうと妻を誘ったりする。日本人の隣人を理解するためには日本の食べ物や習慣を理解しようと、日本食のパーティーをする。家族がみんな、父親のそんな姿を大事に思い、付き合うのだが、突然にも母親が「もうたくさん」と怒り出す。

 母親は「あの人(父親のこと)はおかしくなっている。19歳に戻ってしまい、一生をサラリーマンで過ごしてきたのに、農場をやるとか、夢の中にいる。しつこくセックスを迫る。どうかしてしている。全く別の人になってしまった」と言って父親をののしる。息子は「親父は自分が本当にしたかったことをしようとしているのだ」と母親を叱る。

 父親はしっかり者の妻に何もかも任せ、家族のためにひたすら働いてきた。妻はそれで満足だった。息子は家庭を顧みない父親に不満だったが、男は働いて稼いでくる、できれば父親のような労働者ではなく、背広を着てネクタイを締めた経営者であることこそが男の誇りと信じて、家庭の崩壊を招いても働いてきた。その息子が、年老いた両親を目の前に見て、職を捨てて両親のそばにいることを選択する。
おかしくなっていく祖父を見ている孫息子、母親と離婚してまでも仕事を選んだ身勝手な父親と、二人が最後の別れの場面で、「許す心を持て」と語る。そしてまた、死んでいく父親が息子に語るのは、大リーグの戦いというのも少し変じゃーないかとおもうけれど、ここで努力すれば報われるアメリカンドリームだ。やはりハッピーエンドかな。
時間切れだ。
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