友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大飯原発の再稼動

2012年05月31日 20時35分32秒 | Weblog

 「政府の言う原発の安全性は信用できない」と言っていた大阪市長の橋下さんが、「机上の空論ではいかないのが現実の政治だ。一時的な稼動にご理解していただくしかない」と、大飯原発の再稼動を容認する発言に変わってきた。今、週刊誌の見出しを見ると、橋下さんしかこの国の混迷を救う政治家はいないという内容の見出しが多い。しかし、私は動物的なカンで橋下さんを支持する気にならない。

 橋下さんは脱原発と言う。公務員の特権を排除せよと言う。利権政治を無くせとも言う。国民の多くが思っていることを代弁している。代弁しているから、国民の声をよく聞いているかと言えば、そうではない。橋下さんの思いは別のところにある。君が代斉唱で教員一人ひとりを監視することや、刺青をした職員に辞めるようにと言うところに、彼の本質的な怖さがある。名古屋市長の河村さんは「刺青はよくないけれど、しっかり働くことの方が大事」と言っていたけれど、考え方としては河村さんの方が正しいだろう。

 河村さんも橋下さんも庶民の目線から言葉を発しているから、庶民の味方のように、庶民の方が思い込んでしまっている。減税(橋下さんはダメだと言っているが)、脱原発、市民自治、古い政治を変える、官僚政治からの脱却、公務員の天下りの禁止など、みんなが望んでいる単語や短文を口に出して大いに叫ぶ。論理立てというよりも、いかにも当然でしょうというように叫ぶ。だから国民の多くが「そうだ。その通り」と賛同する。

 私は、橋下さんは思想として脱原発を持っているわけではないと思っている。利権政治や官僚政治を否定するが、民主主義とはどうあるべきかという発想からではないと思う。橋下さんは広く大衆の支持を取り付け、自分が描く社会づくりに向かいたいのだろう。まだ、君が代斉唱や刺青問題くらいしか、彼の思い描く社会の一端は見えてこないけれど、私はこれだけでも動物的に嫌悪してしまう。

 大阪府知事の松井さんが今日、「関西広域連合を(大飯原発の)再稼動のアリバイ作りに使われた思いだ。僕は容認したのでも理解したのでもなく、(再稼動までの)プロセスが不十分だと言い続けていると述べ、橋下さんと若干の食い違いが露になった。けれども私には、「大阪維新の会」としてはどちらにも行ける逃げ道なのだとしか考えられない。野田総理と小沢さんが会談したけれど、増税はやむを得ないがその時期については、考え方が違うのだと表明した。思想としてはふたりとも一致しているが、実施時期が違うだけだと言っているようだ。

 小沢さんは「民主党が描いてきた社会保障ビジョンが反映されておらず、消費税増税だけとなっている。これでは社会保障と税の一体改革とは言えない」と、野田内閣の政策を批判している。「大増税は納得できない。国民に大きな税負担をさせる前にやるべきことがある」と言う。ご自身の考えが受け入れられないなら、潔く辞するのかと言えばそうではないようだ。政府側の人も、小沢さんを切り捨てるわけではなく、何時までもあいまいなままにしておく方が得策だと考えているようだ。

 言葉のやり取りだけ聴いていると、どっちが正しいのかよく分からなくなる。

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いくつになっても

2012年05月30日 19時19分29秒 | Weblog

 介護施設で働く女性たちの話を聞いているとなかなか面白い。施設を利用する人にはいろいろなタイプがあり、学歴も職歴も様々だ。積極的にみんなの輪に入ろうとする人もいれば、かたくなまでに仲間に加わらない人もいる。そうしたいろんなタイプの人を見極めて、上手に対応しないといけない。認知症が進んでいるからと無視したりすれば、そういう感覚は鋭いもので、怒りをぶつけられてしまう。ベテランはその見極めが確かで、気配り目配りの出来る人だ。

 法の改正で利用者が施設にいる時間が長くなった分、対応する職員も長時間勤務になったそうだ。そこで延長となる時間を考えて、時間割を組むことになる。カレンダー作りや壁飾りなどの手作業は得意な人もいれば不得手の人もいる。作る前から、子供だましで馬鹿馬鹿しいと拒否する人もいれば、そう言いながらもやっているうちに夢中になってしまう人もいる。昔話をさせるところもあるし、絵を描かせたり書を書かせたりするところもある。俳句や合唱などをするところもあるそうだ。

 私の経験では、歌は力がある。歌を歌わない人も中にはいるけれど、昭和20年代の聞いたことのある歌にはかなり多くの人が口ずさむ。施設だけではない、職場でも学校でも、人は1日にせめて1回は、腹の底から声を出したいものだ。声を上げることで気持ちがスッキリするように出来ていると思う。歌でもいい、おしゃべりでもいい。同じ歌の繰り返しでもいいと思う。むしろその方がよいのかも知れない。みんなが声を出せる歌を選んで、出来るだけ大きく声を出すことがいいと思う。

 「男はいくつになっても男ね」と言う。介護士さんは女性が多いので、男たちは「オレはこんなにモテタ!」という自慢話をしたがる。中には触ってくる元気な年寄りもいる。在宅介護に行っていた私の中学時代の友だちも「おじいさんがすぐに触ってくる」と困っていた。同性としては、恥ずかしいというよりも申し訳ない、そういうものなのだから許してやって欲しいと思ってしまう。いくつになっても女性を愛おしいと思う男たちこそ可愛いではないか。

 女性の中にも老いぼれた爺さんに積極的な人がいないわけではないが、どういうわけか数は少ない。道徳心というか、社会観念に強く縛られてきたからだろうか。病院で亡くなる間際に妻の名を呼んだ夫がいた。看護師は妻にそのことを伝えたが、彼女は「その時に知らせてくれたなら何を置いても駆けつけたのに、臨終に立ち会えなかったことが悔しい」と言う。それは看護師の落ち度だったかも知れないが、妻への思いやりの言葉だったかも知れない。そんな話をする妻には、「よかったわね。本当に愛されていたのね」と言葉をかけるべきだろう。彼女もそれを期待している。

 男よりも女は、愛したことよりも愛されたことの方にウエイトがあるのだろうか。臨終の間際になれば人は誰も、「私は愛されていた」と思いたいものなのか。まだまだよく分からないと言うことは、まだまだ死ぬことは出来ないと言うことなのか。いくつになってややこしいのが人間というものらしい。

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運命と引き際

2012年05月29日 18時38分04秒 | Weblog

 天候が荒れている。三重県地方にはカミナリ注意報が発令された。この地方でもカミナリが鳴っている。雨はそれほどでもない。カミナリが鳴ると梅雨明けだったけれど、今年はカミナリが鳴って梅雨入りの様相だ。午前中にルーフバルコニーでの作業をしておいてよかった。6月に入るとマンションの給水管取替え工事のために、我が家のルーフバルコニーは足場作りの場になる。北側の植木鉢は全て南側に移動して欲しいというので、その作業にかかった。

 ミカンの木に大きくなったアゲハチョウの幼虫が2匹、サナギになるための場所を探して歩き回っている。そのうちの1匹がせっかく決めた場所から強風のためにずり落ちた。既に吸盤のある足は亡くなっている。このままではサナギになれないのではないかと心配して、とりあえず元の位置に近い鉢の上に載せておいた。昨年の秋、やはりサナギになったのに風のために飛ばされたものを両面テープで鉢に留めておいたが、1匹は羽化したけれどもう1匹はまだ何の兆候も無いから死んでしまったのだろう。

 今、雨が止んだのでアゲハチョウの幼虫を見てきた。サナギの方は雨に打たれていたが、持ち上げるとわずかに動くので、またそっと元のところに置いた。雨の中で動き回っていたもう1匹は風の強くない場所を選び、植木鉢の中央にしがみついている。ミカンの木のどこかでサナギになる幼虫もいる。この方が安全に羽化できるのに、どうしてわざわざ地上に降りてきて、他の植木鉢によじ登ってサナギになるのだろう。偶然なのか必然なのか分からないけれど、ちょっとした違いが一生を左右する。

 福井大地震でお姉さんを亡くした人の話を聞いた。お姉さんは叔母さんと映画を見に行っていて、地震に遭った。たまたま席を離れていた時に地震があり、お姉さんと叔母さんは生死を分けた。叔母さんは逃げる時、誰かに足をつかまれたが振り切って逃げた。逃げ切れたから命があったのだが、そのことに叔母さんは長い間悩んだそうだ。話をしてくれた彼女は、乗るべきバスに乗り遅れたために命が助かった。何が幸と不幸とを分けるのだろう。善行を積んだ者だけが生き残るわけでもないし、悪行の者が罰を受けるわけでもない。

 今日は大和塾で講師を勤めてくださった俳優の舟木淳氏の『語りとトークの会』に行ってきた。傘寿記念とあったから80歳になられるのだが、そんな歳には見えないくらい元気だ。けれどもご自分でも歳のことを気にしてみえて、「あと何回出来ることか」と何度も言われた。耳が聞こえにくくなったことや脳卒中の手前だったことなどあり、気弱になられた。人前で自分をさらけ出して仕事をしている人は表舞台からの引き際は大事だ。もうちょっとやって欲しいと思われているうちでないと恥を晒すことになる。

 個人なら、いつでもどんな形でも、引き際などというものが無い。いつも、明日に向かって全力投球でも、寝たり起きたりでも、酒を飲もうが歌を歌おうが、何をして過ごしてもかまわない。出来るだけ多くの人に会い、毎日が充実した気分なれるならこれ以上のことは無い。雨が止んで、夕日が差してきた。明日はどんな天気なのだろう。

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悪女について

2012年05月28日 19時01分21秒 | Weblog

 女優の沢尻エリカさんが話題になっているのか、私のブログにもトラックバックがあった。結婚したとか離婚するとか、よく芸能ニュースで取り上げられている。顔立ちもよいしプロポーションもよいから女優としてはまずまずなのだろうが、私は関心が無かった。何時だったか新聞のテレビ番組紹介に、沢尻エリカが悪女を演じるとあった。土曜日の番組だった。どういうわけか、土曜日というのは見たくなるような番組がないので、どんな女優なのか見てみようと思った。

 『悪女について』という題で、貧しい家に生まれた女が大金持ちになっていき、最後は自殺してしまうという物語だった。この女の10代から40代(?)までを沢尻さんが演じたわけだが、私の目には年代の差があまり感じられなかった。原作は有吉佐和子さんで、1978年に「週刊朝日」に連載されたものだ。テレビドラマでは巨額の富を築いていく過程がよく分からなかったが、女が本当に愛したのは誰だったのかという、「愛」についてはなんとなく分かる気がした。女は近寄ってくる男を踏み台にして実業家になっていくのだが、男を騙すだけでは巨額の富を築く実業家にはなれないだろう。

 北海道から東京に出てきて、優雅な生活を送っていた木嶋佳苗という女性のことを思い出した。彼女を写真で見る限りでは決して美人とは思えないのに、男たちは彼女に多額のお金を渡している。彼女は「喜ばせてあげたのだから当然」と思っているようだ。話し方が優しいとか料理が上手とか言われているけれど、きっとそうなのだと思う。男たちは沢尻エリカさんのような美人が好きだけれど、美人ならそれでよい訳ではない。相手から愛されたていたいのだ。だからそのためにお金も使ったと思う。男たちは彼女に騙されているというよりも、自分の方を向いていて欲しかったのではないだろうか。

 『レ・ミゼラブル』を書いたフランスの文豪、ヴィクトル・ユーゴーは「人間の意識とは、いろいろな妄想や渇望や企てが混沌と雑居している場所であり、夢想のるつぼであり、恥ずべき考え方の巣窟なのだ。それは屁理屈の伏魔殿であり、欲情の戦場なのだ」と言っているが、この見解は間違いないと思う。人間の不可思議さこそは悪なのだろうが、だからこそ文学や芝居や映画は探求し続けてきた。人間が完璧に正義で清楚で純真であるなら、この世に哲学も芸術も生まれなかったであろう。

 沢尻エリカさんがこれからどんな女優になっていくのか分からないが、清純さだけで長く女優を続けてきた吉永小百合さんも30代の時、脱皮しようとして大胆な濡れ場に挑戦したことがある。現在も俳優として活躍している人は、男優なら昔は悪役ばかりしていた人が多いし、女優ならヌードも辞さないできわどい場面を演じてきた人が多い。沢尻エリカさんが木嶋佳苗を演じられるようになれば、彼女はきっと大物女優になれるのではと私は勝手に想像している。

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組織が生み出すもの

2012年05月27日 23時16分56秒 | Weblog

 NHKテレビが昨日と今日、2日間にわたってオウム真理教について特集していた。昨夜はドラマ仕立てで、オウム真理教が肥大化していくと共に、狂気に向かう姿を描き、今晩はオウム真理教を追う警察の動きをドキュメンタリーに取り上げていた。昨夜も今晩も、ブログをやらなくてはという思いから、しっかり見られなかったが、「この世界で人間ほど恐ろしいものは無い」という言葉を思い出した。

 トラやライオンが、ヘビやサソリが恐いと言う人はいる。私もきっと遭遇したら肝を冷やすに違いない。その点、人はいきなりナイフを振りかざす者もいるけれど、大概の人は温厚で優しく常識的だ。それなのに人間ほど恐いものはないという存在にどうしてなってしまうのだろう。一人ひとり個々に話し合えばとてもいい人なのに、それがなぜ人殺しをしても平気でいられるようになってしまうのだろう。

 オウム真理教の組織も他の宗教団体も会社組織も同好会も、人が集えばそこに何らかの優劣が生まれる。教祖の麻原彰晃の声を聞いたけれど、こんなにも軽い話し方の人なのかと驚いた。そんな麻原がなぜ何万人という信者を集めることが出来たのか不思議だ。人間として優れているところがあるように見えないのに、従う人々が大勢いたのだから、話し方や声の質だけでなく、別の何かがあったのだろう。

 そして、ドラマを見ていてそう思ったけれど、麻原も一人であったなら単なるチベット密教の修行者で終わっただろうが、次第に彼の周りに人が集まり、そうすることで独特の世界が掲載されていく。私は中学2年の時に、ある新興宗教に誘われたことがある。たまたま私がキリスト教に関心があり教会に通っていることを知った小学校の時の同級生が、「ためになるから行かないか」と誘ってくれたのだ。

 8畳くらいの部屋に14・5人の若者が集まり、経典を合唱し、その後ひとりずつ自分がいかに変わったかを告白していった。この一種独特な連帯感というか一体感が私には恐怖に写った。組織が強い連帯感や一体感を求められると、必ずひとりふたり、たとえば先輩とか役職の者とかいった力のある者に対して、無意識なのか意識的なのか分からないが同調したり、「そうそう」と相槌を打つ者がいる。

 自分の意見を言わずに、言えばまるで瓜二つのように繰り返す。相手の言ったことを否定せずに合わせていくから、傍目から見ているとまるでコロコロと意見が変わるように見えるのだが、本人はいたって真面目な様である。ドラマだから本当だったかは分からないが、麻原は自分の意見を言う前にたくみに幹部連中の意見を聴き、その上で発言している。用心がいいのか、初めから何も無かったのか、それにしても人の操作は上手だ。

 集団が狂気に走るのは、リーダーと仲間の一体感が強くなり、そのために蹴落とされる人が生まれる時だ。オウムも連合赤軍も内ゲバも戦争もみんなよく似ている。集団が一体になっていくことに、未だに恐さを覚えるのは私の体質なのかと思う時さえある。

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窮屈で理不尽な社会

2012年05月26日 21時32分35秒 | Weblog

 開かずの間という踏切がある。特急が行って、普通が行って、準急が行く。これが上下で何本かあれば10分ほど遮断機は下りたままになる。「電車の来る前から遮断機が早く降りすぎる」と怒り出す人もいるけれど、のんびり屋の私は「安全のためには仕方ない」と思う。けれども不思議だなと思うのは、遮断機が上がっている時に、自動車は必ず一時停車して左右を確認して踏み切りを通ることだ。法令がそう定めているからそれに従っているのだが、じゃあ遮断機はなぜ設置されているのだろう。踏み切りで自動車が必ず一時停止するために、通過できる自動車は少なくて運転者をイライラさせている。

 遮断機のある踏切では一時停車をする必要はないと法を改正すれば、もう少しスムーズに自動車は通行できるのにと思う。美術館には撮影禁止という注意書きがある。フラッシュで作品を傷めないためであると共に、著作権の保護という意味もあるのだろう。そうであるなら、フラッシュを使わずに展示会場全体を撮影する場合は問題ない気がする。けれど、会場で撮影したりすればすぐに係員から注意される。展覧会の会場でカメラを手に持っていれば、写さなくても係員が「撮影は禁止です」と言ってくる。

 私たちが井戸掘りを始めたのは、阪神淡路大震災の時に救援に駆けつけた人の話がきっかけだった。「飲料水はすぐに自衛隊が運んで来たけれど、生活用水が無くて困った」と聞いたので、それなら井戸を掘ればいいという話になった。地震で水道が止まればかなりの範囲で断水となるが、各地に井戸を掘っておけばどこかで水を汲み上げることが出来るはずだ。上水道や下水道のように、広範囲な地域で運営する、大きいことがよいことという考えは変えた方がいい。けれど井戸を掘って、水が出ると、「飲めますか?」とよく聞かれる。飲料水になるか否かは保健所で検査を受けなければならないが、保健所の見解は概ね「煮沸すれば飲めます」である。

 山に登ったことのある人なら、小川の水を飲んだことがあるだろう。私たちの子どもの頃は井戸水を煮沸もせずに飲んでいた。中には問題の井戸水もあって、上水道が生まれ、そして張り巡らされた。だから上水道は安心して飲める。各地に掘られた井戸水を保健所が「飲める」と許可したなら、上水道の運営は出来なくなる可能性もある。山の小川の水を飲んだことのある人からすれば、井戸水が危険とは思わないかも知れない。しかし、政治は何よりも生命の安全を大事にするので、上水道の水を飲むようにと勧める。極端な言い方をすれば、上水道の水以外は飲まないということになる。

 踏み切りの遮断機にしても、事故が起きないためには多少の不便は止む得ないし、美術館での写真撮影も禁止しておくに越したことはない。井戸水も飲んで問題を起こされるよりは、上水道の水しか飲料には適さないとしておいた方がいい。世の中はだいたいこんな風に出来ているが、それもこれも私たちが作り上げてきたものだ。何とも窮屈な社会であり、理不尽な社会である。原発にしても、増税にしても、無い方がいいと思っているのに、いつの間にか仕方がないと思うようになる不思議な社会である。

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自分の軌跡を見つける

2012年05月25日 21時15分36秒 | Weblog

 中学の時のクラス会を開こうという話の時に、「どうしてそんな意味のないことをする。昔の思い出など話したって何も生まれない。馬鹿馬鹿しい」とひどく否定的なことを言う友だちがいた。10代を共に過ごしてきた友だちにそんな強い口調で言い張られると、「お前はそうでも、みんなは会いたがっているのだから」としか言えなかった。確かに彼の言うように、昔の思い出話は「あの頃はよかったね」とくらいのところに落ち着くだけなのだろう。けれども、その昔話の中から、自分の軌跡を見つけることはできる。

 自分がどういう人間だったのか、小学校・中学校・高校のそれぞれの場で、その時友だちはどう見ていたのかを垣間見ることも出来る。人は時々、自分を振り返り、自分の立ち居地を確認したくなる者なのかも知れないし、逆に前述の友だちのように、一切の過去を捨て去りたい者なのかも知れない。しかし、どんなに過去を否定しても、現在はその過去の積み重ねでしかないことも確かだ。過去は決して変えられない。むしろ過去を受け入れていくことで自分が作り出されていくような気がする。

 そういう意味でも、小学校の時の卒業記念文集は面白かった。今日、カミさんが彼女の中学校の同級生に会い、中学時代に発行された校誌のコピーをもらってきた。校誌は生徒たちの文集ではなく、学校全体のことが分かるもので、学校沿革史や学校経営の概要、生徒会の歩み、クラブ活動、卒業生の進路、図書室だよりなど、幅広い内容が盛り込まれている。生徒の作文は修学旅行、遠足、山の生活、伊勢湾台風などの体験記や読書感想文、それに随想や紀行や詩歌や創作と幅広い。ちなみにカミさんの修学旅行の作文を読んでみると、中学生の文章とは思えない美文である。

 「私はまだまんぜんとうつりかわる卯月のにおいをただよわせた景色にみいっていた。(略)コロセウム競技場に似た円形の国立競技場がなくても、イギリスの宮殿を思わせる国立図書館がなくても、やはり住みなれた“あの土地(名古屋のこと)”が私を、私の愛情を引きつけるのだ。果たして(やはりの意味)東京は、日本の首都としてそうであらねばならなぬ要素をそなえていた。しかし、私が期待し、欲していたまちではなかった。(略、富士の裾野に政治のまちを建設することを提案している)車内のざわつきに我にかえり、目をうつせば旅のつかれも忘れかけた笑いが車内を流れ、列車は静かな音をたて一路なつかしの名古屋にむかって走っていた」。

 私たちの中学校でも卒業文集を作ったような気がする。表紙は私が一度も追いつくことの出来なかった女の子が描いた。彼女は歌もうまかったし、何でも出来た。2年の時も同じクラスだったけれど、担任が「勉強ができるヤツは何をやらせてもキチンと出来る」と褒めていたことを思い出す。彼女よりも上になれたなら、もっと彼女と親しくしたいと思っていたが、結局は高嶺の花のままの遠い存在だった。私が近寄れる相手ではないと諦めていた。彼女は誰にも優しくて同性の女の子たちからも好かれていた。それにしても、私たちのあの文集はどこにあるのだろう。

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孫娘の悩み

2012年05月24日 19時57分05秒 | Weblog

 薔薇が満開になってきた。薔薇の優しい匂いが漂い、華やかなコーナーになった。久し振りに家にいて、チューリップの球根を抜いて土の入れ替えを行った。けれども午後は風が強くなってきて、作業が難しくなった。

 高3の孫娘がやってきて、学校の愚痴を大声で話している。若い政経の先生が、「宿題だ」と言った問題をテストに出した。「非常識だと思わん?答え合わせもしていないのよ」と怒っている。「中国の首相の名前を書けと言うのに、自分は書けないがと言うのよ。まず、自分が書けて、問題に出すべきじゃーない?おかしいのよ、あの先生は」。

 「4月の授業の初め頃は、寝ててもいいようなことを言っていたのに、本当に寝ていたりよそ事やっていたりしゃべっていたりする子がいて、頭にきているとしても、『テストでいい点とっても評価は低いからな』と言うの。それなら、授業に集中するように注意すればいいのに、見た目で評価するっておかしいでしょう」と、愚痴は延々と続いている。

 学校推薦で大学に行く子が多いことも彼女には癪にさわるようで、「私も学校推薦にしてもらおうかな」と言い、「学校推薦で行けるところは目指す学校ではないし、どうしよう」と嘆き節が続く。小さい頃から水泳一本で生きてきた彼女にとって、努力こそが一番大事なことで、努力もせずによい成績をとる子が憎いようだ。

 「結果が一番」と孫娘が言っていたが、一番を取るためには努力が必要だという意味だった。しかし、大きくなると、努力しないでもよい結果を出す人がいることを知る。いや、そういう人でもどこかで努力しているのだろうけれど、それを余り見せないので、彼女には見えないのかも知れない。天才も99%努力だと言っている。

 学校推薦をもらって、早く楽になりたいというのがどうも本音のようだ。それでは、目標に向かってひたすら努力することを大事にしてきたことに反しないか。大学へ行く目的がぶれるのは、「努力なんかせずに楽したい」からだろう。それを全面否定する気はないけれど、若い時からそんな風に生きて欲しくない。

 結果としては、同じということはいくらでもある。それに、艱難辛苦を味わえば必ず幸せになると言うわけでもない。人生はいつでもどこからでもやり直すことは出来るけれど、年をとればそのチャンスは低くなる。大学へ行くことが目的でもないが、後ろ向きになって欲しくないとは思う。家を出て、一人で生活する、そのチャンスは高校を卒業する時だろうと私は思い、孫娘の行く末を見ている。

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性格は変えられる

2012年05月23日 21時48分19秒 | Weblog

 小学校の卒業文集に記載されていた自分の作文を読んで、改めて私自身の成長過程を見た気がした。小学校4年の時の屈辱が私を変える原点だったのだ。自動車修理工場の息子は悪童で、宿題や図画の課題を私に押し付けた。写生大会では彼のために絵を描かされ、自分の絵を描く時間の余裕がなくて、彼の絵は賞をもらったのに私の絵は佳作にも入らなかった。彼はプロレスが好きで、放課後は毎日教室でプロレスごっこだった。そういう毎日が嫌で、私は学校を休んだことがある。

 4年の担任は女の先生だったが、とてもきつかった。悪童が何か悪いことをすれば、それは男子全員の責任で、学級委員である私の責任になった。本でたたかれたのは、「あなたは学級委員なのだからもっとしっかりしなさい」という叱咤激励だった。通信簿はいつも「おとなしく素直だが、積極性に欠ける」とあった。どうしたら積極性が生まれるのかと考え、実行に移そうとしたのが5年生だった。それまで私は教室で手を挙げることはなかった。それは自信がなかったからだ。それなら自信を持って答えられるように、前日に教科書を声を出して読もうと決めた。

 勉強は学校の教室で、先生から教えてもらうと思っていたが、授業の始まる前には教科書を見るようにした。5年のクラスにもミニ悪童がいた。それが私の席の隣で、私が「積極性をつくるために勉強する」と言うと、「オレも一緒にやる」と言うので、ふたりで勉強した。それでいつの間にか、ミニ悪童とは親友になってしまった。「性格は変えられない」と言う人がいるが、私は自分の体験から、「意識すれば変えられる」と思っている。6年生になり私は児童会の会長に立候補した。キリスト教への関心もこの5年か6年の時から始まった。

 社会の矛盾や不正や不公平、人はどう生きるべきかと考えるようになっていたし、それを実践しようとしていた。私にとって大きな反面教師が、家庭では祖父の存在だった。明治初めの生まれの祖父は家父長制度の生き残りで、晩御飯の始まる前に、ひとりだけ特別なおかずでお酒を飲んでいた。祖父の晩酌が終わると祖母はみんなを食卓に着かせて晩御飯にした。私にはとても理不尽なことに思えてならなかった。父親は教師で小学校の校長だったのに、祖父の前では何も言わなかった。絶対的な権利を祖父だけが持っているのはおかしい、これは民主主義ではないと思うようになった。

 中学1年が終わる時には、もう誰も恐くなくなっていた。この時期は、ひ弱でおとなしいだけの子どもから、強くたくましい大人になりかけていた。私は完全に自己改革していた。好きな女の子もできて、先生が言うように、「大人になった」と思っていた。自己形成の基点は小学校の5年か6年だっただろうけれど、基礎が形成されていったのは中学の時だろう。自分が何者になるのか、それは分からなかったけれど、何者になるにせよ人としての土台は出来ていたと思う。高校はそんな自分がさらに大きくなっていく課程だった。

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小学校の卒業文集

2012年05月22日 21時26分10秒 | Weblog

 小学校の卒業文集はガリ版印刷の粗末なものだったと言う。原版はボロボロで、みんなが手に取ればバラバラになってしまうくらい痛んでいたらしい。それを幹事の一人が1枚1枚、文字を判読しながらパソコンで打ち直し、復刻版を作り上げてくれた。長い月日をかけて作業してくれたおかげで懐かしいものを見ることが出来た。本当にありがとう。

 最初に校長と担任からの祝いの言葉があり、続いて女の子と男の子の寄せ書きがあった。きっと向かい合わせの見開きだったのだろう。文集には、「強い心」とか「明るい心」あるいは「誰にも負けない」とか「正しい道」という言葉が目立つ。これは時代の表れだろうし、「勇気」「意志」「努力」「誠実」は卒業文集にはよくある言葉なのかも知れない。

 クラスで成績がトップだった子は、南極観測船「宗谷」の活躍を知っていたようで、「『宗谷』は南極大陸にかがやかしく着岸し 我らの船は 尊き師の手に導かれ 友とはげましあい 卒業の岸にたどりついた ここまで導きくださった 諸先生に 感謝をささげ さあ ゆこう 次の航路に 我が母校よ さらば」と書いていた。クラス会の席でも本人は「こんなによく書けているとは思わなかった」と驚嘆していた。

 地域の歯科医師会の会長を務めた歯医者の息子は、5年生の時にみんなで学校から抜け出したことにも触れていた。「ぼくたちを育ててくれた母校 たのしかった事かなしかった事 いまからおもうととてもおもしろい みんなといっしょに川に遊びにいったこと」とある。男子は砂場でよく相撲をした。「ぼくたちは ほうかごとに すもうをした 今日もやった (略)みんあ元気にすもうをした ころんだりころばしたりする とてもおもしろい 男子ぜんいんといっていいほどだ すもうをする」。

 女の子は詩的な文章を書いている。「おちばがちらちらおちてきて 私のくつの上に落ちてきてごめんなさいといっているようだ 私はおちばの話がわかるようだ」。「にこにこ顔のよい子供 いつもにこにこわらってる うれしい時も悲しい時も いつもわらってすごそうよ にこにこわらってすごそうよ」「つくばの雲は朝をよぶ 光の沼にわれをよぶ はてなく清き空のもと たのしきまどひらく わが母校」。

 私も詩を書いているが極めて観念的だ。「われは 今 いばらの道を進むのだ ああ この永遠に続くいばらの道を われの後にいばらあり われの前にもいばらあり このいばらの道をどこまでも」。文章の方も同じことが見える。

 「私は苦しかった6年間を思い このようなことをなくしたいと思ってこの作文を書いている。あれは4年生の時だった。一度先生に本でなぐられたことがあった。その原因は一人の悪童からだった。彼は嫌がる者でも宿題や図画を書かせたりした。そういう悪童にたいして、当時学級委員であった私は反抗することもできなかったので、先生に本でなぐられたりしたのだ。あー意志の弱かった自分がにくらしい。こういう悪童は何人でもいる。だからこういう者をなくするとどうじに反抗できるつよい意志が必要だ。どんな苦難にも打ち勝つのは強い意志だ。私は意志の弱かったため数多くの苦難に負けてしまいましたが、ただ1回だけクラーク先生の言葉を思い出して、自分の行いを反省してみて、災難に負けずにすみました。なにごとにも強い意志が必要なのです。強い意志をもて 強い意志を 少年よ大志をいだけ」。

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