友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

秋神温泉

2007年08月31日 23時58分57秒 | Weblog
 濁河温泉は思ったほど秘境の温泉地というものではなかった。御岳さんの北側にあり、行きにくい奥地にあることは間違いないが、もっと秘境らしいところと勝手に思っていた。料理は美味しかったし、ここに次女夫婦を連れてきてもいいかなと思ったくらいだ。温泉は鉄分が多く、黄土色でぬるっとしていた。一度は訪ねてみるのはいいけれど、何度も行ってみようという気にはなかなかなれないなと思った。

 フロントで「秋神温泉へ行ってみたいのだけれど」と話すと、「車一台がやっと通れるような狭い道で、道路はでこぼこですよ」とのこと。できれば避けた方が安全ですと言いたい様子だった。「車では無理ですか」と聞き直すと、「行けないことはありませんが」と言う。それならばと出かけた。しかし、本当によく生きて帰れたと思うほどの道だった。対向車がいなかったから良かったものの、あれで向こうから車がきたらどうやってすれ違うことができたのか。こういう道をよく走ったけれど、今回はまた特別だなと思った。

 秋神温泉は20代の時、3年ばかりお世話になった。私が高校の教師をしていた時、ブラスバンドの顧問を頼まれ、秋神高原での合宿に同行した。本来ならば引率なのだろうが、ブラスバンドの生徒たちは全てを自分たちで計画していて、私はただ乗っかるだけだった。ところが民宿で一泊してみて、これはとてもガマンできなかった。そこで聞くと、少し奥に温泉地があるとい言う。そこが秋神温泉だった。
 
 一軒しかない宿の主人はちょっと変っていて、山の植物を絵で説明したプリントが玄関先に並べてあった。わたしはここがとても気に入り、生徒たちを民宿に残したまま、自分はここを宿とし、昼間は生徒たちのところへ通った。民宿のおばさんは生徒たちのために、山盛の料理を用意してくれたが、残念ながら私は胸が一杯になってしまって、食べられなかった。私の生まれたばかりの子どもとカミさんを連れて参加していたので、カミさんや子どものためにもゆったりと食事ができる場所が必要だった。ブラスバンドの生徒たちには、「先生は何しに来ているのか」という不満があったかもしれない。その頃のブラスバンドの生徒たちから誘われて、9月には信州に出かける。不思議な縁だと思う。

 話が逸れてしまったが、今、秋神温泉は「氷点下の森」という名で毎年のようにニュースに取り上げられている。私が知っている秋神温泉の建物ではあったが、増築され、周りにはバスの駐車場もできていた。ひなびた温泉宿から観光地の温泉宿に変っていた。好きな人とそっと世を偲んで出かけるような温泉宿ではなくなってしまったようだ。車から降りて、あたりを散策したけれど、「宿泊客以外は立ち入りできません」の看板が目に付いたのもちょっと嫌な気持ちになった。あの宿の主人に会いたいなと思いながら、あたりをウロウロしていたが、結局出会うこともなく、「あんなに気になっていた秋神温泉はこれだったのか」と思いながら後にした。

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中学のクラス会の前に

2007年08月28日 23時57分26秒 | Weblog
 また、酔っ払って書いている。中学の時の友だちの家に、行った。彼を誘ってどこかで昼飯でも食べようと思っていた。中学の時からの友だちと彼の家を訪ねると、「まあ上がれ」と言う。言われるままに上がり、そうか私は「昼飯を一緒にどこかで食べられないか」と、彼に電話し、素直に「おお、いいよ」と言うので、てっきりどこかで食べるものだと思っていたが、そうではなかったと気が付いた。

 昼間だったのに、奥さんの手料理で酒の肴が用意されていた。彼は「飲もう、飲もう」とビールを持ってくる。「いや、これからクラス会の打ち合わせだから」と初めは辞退したが、彼が私たちが来るのを楽しみにしていたことがよくわかった。それに奥さんもそのために料理を作ってくれたのだ。いらないなどとは言えなかった。

 3人で飲むのは、以前、彼の家に来た時以来だ。その時は奥さんも一緒だった。酒宴の中であの時、ストリップを見に行った話をしたことを、彼は友人に「ほんとにお前は下品なヤツだな。家の人間のいる前ではああいう話はするもんじゃーないぞ」と言う。ストリップに人一倍関心があったのはお前の方じゃーないのかと、私は思ったが、同時に、彼は奥さんのことを気にしているんだなと思った。

 いつもいつもマイペースでかなり格好付けて生きてきたように思っていたけれど、奥さんの前ではやはりいい子でいたいのだと思った。男は奥さんの前ではいい格好でいたい存在だ。へまもやるし、信頼も裏切るが、いい子でいたい。自分が奥さんを結果としてはないがしろにしていたとしても、いやそうではないよと言っておきたいのだということがよくわかった。好きになった女の方が女房より安心して居れるという男もいるが、彼も奥さんと別れないのは、奥さんの価値を認めているからだろう。

 私たちは中学3年の時に初めて同じクラスになって知り合った。その3年の時の秋以降に、私たち3人と女の子2人、さらに膨らんで、男の子が5人でよく遊んだ。遊んだというよりも、女の子の家に上がり込むことが多かった。彼女たちのお母さんは、私たちを快く迎え、食事をしたのかおやつを食べたのか、定かではないが、面倒を見てもらった。女の子が大阪に引っ越してしまったのに、男ばかり5人で彼女の大阪の家に遊びに行き、泊めてもらったこともある。今らか考えると、彼女のお母さんの偉大さがよくわかる。

 男という生き物のおもしろさについては、一緒に行った友人が体現していると私は思っている。それで彼には「彼女のことを、彼女とのことをもっと聞かせてもらって、僕が小説を書くよ」と言っている。私は本気でそう思っている。それは男の生き方を象徴しているからだ。まあ、いつか老いた男の恋物語がブログの載っていたら、その友人のことだと思っていただきたい。彼は今も男と女の友情を信じているのだから。

 昼間のお酒は酔いが早い。彼に別れを告げ、クラス会の打ち合わせの場所へと二人で行く。少ししか飲んでいないとはいえ、飲んだことに変わりないから、これで交通事故でも起こしたならば、飲酒運転の30万だけではすまなくなる。気をつけて、気をつけてと思いながら、打ち合わせの場所へ行く。ここで、さらに3時間も話し込んでしまった。

 どんな人生であろうと、その代わりができるものではない。私たちは還暦を過ぎてしまった。友人が言うように「これから何をするというものでもないだろう」。浴びるように酒を飲むのもいいし、何年来の女友だちとプラトニックに付き合うのもいい。要するに悔いのないように生きることが一番だなどと勝手な結論を導き出す。これって、やはり歳のせいだなと思う。

 明日は濁河温泉に行ってみる。高校の教師をしていた時、その手前の秋神温泉に何度か宿泊した。顧問をしていたブラスバンドがこの土地の民宿で夏季合宿をしていたためだ。始めての年は子どもと同じ民宿に泊まったが、生まれたばかりの子ども連れでは泊まれるようなところではなかったので、その奥の秋神温泉に宿を取った。今では氷の芸術で知られる宿になってしまったが、当時はほとんどお客のないひなびた宿だった。もう一度、その秋神温泉を見てみたいし、あの時、いけなかった濁河温泉に泊まってみようと思い立った。

 さて、我が家のさなぎは身体がさらに白くなった以外に変化なし。
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残暑厳しい中で

2007年08月27日 22時22分06秒 | Weblog
 まだまだ、残暑厳しい。「暑いですね」「もう干からびそうですよ」。そんな会話が続いている。それでも今朝は比較的涼しかった。そこで、マンションの友だちに「お茶を飲みに来ませんか」と誘う。ルーフガーデンは西に面しているので、夏の午前中は高原の朝の雰囲気がある。今年はサルビアをたくさん植えたので、これを見てもらいたいし、今年の庭つくりについてもあれこれ言って欲しかった。

 午前10時に来てもらい、日が差し込んでくる11時半まで、おしゃべりで花が咲いた。私はコーヒーを入れる。我が家のコーヒーはアメリカンスタイルで、姉に言わせれば「薄すぎてコーヒーじゃーない」というようなコーヒーだが、慣れてしまうとこの薄味がいい。ちなみにアメリカで飲んだコーヒーはカフェでも家庭でも、日本の喫茶店のものと変らなかったから、我が家だけが特別薄いのだろう。

 テーブルを出し、折りたたみのイスを並べ、持ってきていただいたお菓子や果物を食べながら、私が入れたコーヒーを飲み、取り留めのない話があちらこちらに飛ぶ。風が少しさわやかに流れ、至福の時が来る。我が家の上の階の娘さんとその子どもたちもやって来た。かわいくて、みんなの宝物のような、愛嬌のある男の子だ。小学校1年になった今年は、下に妹が生まれたこともあって、随分と大人っぽくなってきた。色の白い人形のような男の子だったけれど、日に焼けてたくましくなったばかりか、年上の自覚も生まれてきていた。

 先ほどエレベーターの前で、その子とお友だちの集団に出会った。彼は「おおスズキさん、今朝のお茶会楽しかったです」とまるで大人の口調で言う。私は恭しく「また、来てください」と答える。子どもたちはいい。みんな素直に大きくなっていく。私がこのマンションの自治会の役員をやった時、一緒に役員をした人たちでよく食事会をした。例の1品持ち寄りの宴会である。その時、小学校6年で、一人っ子のせいか、いつもお母さんと一緒に参加してくれていた男の子も今は大学2年だ。この子も賢い子で、大人の馬鹿話を黙って聞いていた。自分で作ったという1品を持ってきてくれたこともある。

 私が子どもの頃、大人たちが集まるのは法事のような時が多かった。私も隅で黙って大人の話を聞いていた覚えがある。でも大方は、従兄弟たちの面倒をみることになり、何かゲームを考え、子どもの中のリーダーの役割をしなくてはならなかった。大人たちが話すうわさ話や悪口やグチや人の批評など、子どもではあったがおもしろかった。どういうわけか、父親も母親もそうした場にはいなかった。たいていは父親の妹たちが輪の中心だった。

 大人の中で育つ子どもはどうしても大人っぽくなってしまう。それはそれで、良いことだと思う。人の短所は長所でもあり、逆に長所は短所にもなる。相手の長所はうらやましいと思えるので、私は素直にほめる。でも本当は、長所を長所にしていくのはその人自身だ。私は知人に「怖い人だよね」と言われたことがあるが、よく見抜いていると思う。多くの人が私を「優しい」とか「思いやりがある」と評価してくれるが、思いつめたら何をやらかすかもしれないところが実はある。

 私自身は自分を完璧な人間とは思えない。極端から極端に走ってしまい、私の子どもからも「ヘンな人」と言われ、「アホみたい」と評されている。極端から極端と言ったけれど、右から左ということではない。私はいつも極端の中にいるから、まあ孫悟空が釈迦の手の中で見栄を張っているようなものだと思う。取るに足らぬヘンな人間がとうとうヘンなジジイになってしまったのだ。もう若くはなく、ただただ老いていくばかりだ。だから楽しく生きていこうと思う。

 「彼女は明るすぎるくらい明るい」と評したら、「過ぎるといわれて落ち込んでしまった」と彼女は言う。私は、彼女は素敵な人だと思っていたので、素直に彼女の明るさをほめたつもりだった。明るすぎるとはいけないことなのかと私も考えてしまった。長所をより長所にしていくのも、短所にしてしまうのも、結局は本人である。先の子どものようにいつまでも自分に素直でありたいと思う。けれども、大人になってしまって今更素直になれるかと言う声も聞こえる。どう生きるかである。

 我が家のさなぎは変化なし。
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ネズミ男に出会う

2007年08月26日 19時25分23秒 | Weblog
 昨日は演劇で『がんばれ!日本国憲法』を観たが、今日は「憲法9条」ののぼりを立てたネズミ男に出会った。憲法9条の意義を訴えたいと、全国行脚をしている福崎やすおさんだ。真っ黒に日焼けしたその顔は、ほとんどアフリカ人だ。やせた体型が、飢えた人そのものを表している。

 彼は、このままでは憲法改正に突き進んでしまう、憲法を守れという人々が集まり、より意思を固めたとしても、改正反対の人数を増やすことにはならないのではないか、そう考えた。ごく普通の人々、憲法の改正反対でもなく賛成でもない人々に呼びかけていかなくては、国民投票で改正反対票は伸びない。歩けば、立ち止まって話すこともできる。全国を歩いて廻ろう、そう決心した。沖縄から初め、昨日は岐阜県可児市で泊めてもらい、名古屋を目指している途中というわけだ。

 「どうしてネズミ男なのですか」と尋ねる。「ネズミ男は、嘘をつくし、お金に目もくらむ。けれども鬼太郎のような武器は持っていない。だから悪いやつだけれど、決して人を殺してはいない。日本はネズミ男なんです」と話す。なるほど、おもしろい発想だ。続けて彼は「親鸞は人の罪を見抜いていたし、キリストの1番弟子のペテロはキリストが捕らえられた夜、3度も嘘をついた。自分がうそつきだという自覚が大切だと思ったのです。自分たちはネズミ男なのだと自覚すれば、憲法の意義も見えてくる」と言う。

 「以前、町会議員だった時は、みんな敵だと思っていたんです。でも、自分が敵だと思っていれば、やっぱり相手も敵だと思っているわけです。これではいけないなと思うようになった。北は敵だと言うでしょう。攻めてきたらどうするんだと。本当はその前に、お互いが理解しあえるようにするにはどうするのかが大切なんじゃないか。攻めてきたらじゃーなくて、人殺しをしないためにはどうするのか、と考えたいのです」。

 ネズミ男は炎天下の町の中を再び歩き出した。「熱中症にならないように、気をつけてください」としか、私は言えなかった。こんな暑い日中に、タダひたすらに歩く。私は憲法改正に反対だけれど、彼のようにたった一人でも行動して、皆さんに訴える、それほどの勇気と熱意は無い。そんなことで日本の社会が変るわけではないと当初は思っていたけれど、ネズミ男のヘンな力みのない、淡々とした話を聞いているうちに、私は一緒に行動できないけれど、彼の行為を称えたいと思った。

 別れ際に彼は「憲法9条の会、がんばってください」と言って手を差し出した。私は憲法9条の会のメンバーではないので、どう答えてよいのかわからないまま、「くれぐれも身体に気をつけて」と言って、その手を握り返した。サラッとした冷たい手だった。彼は「一人で歩いていると、思わぬ出会いがあります」と、話していた。いろんな人がいろんな形で、自分の思いを人に伝えようとする、それができることの悦びとそういう人がいることの尊さを思った。

 我が家のさなぎは変化なし。
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『がんばれ!日本国憲法』

2007年08月25日 19時55分51秒 | Weblog
 名東文化小劇場で、「愛知・県民の手による平和を願う演劇の会」のよる『がんばれ!日本国憲法』を観た。上演は明日も行われるので、興味のある方はぜひ見て欲しいと思う。憲法問題に真正面から取り組んだ演劇というのに、残念ながら入りは良くない。「難しいことはわからないから」とよく人は口にするけれど、難しいというのは逃げ口上でしかないことは多分言ってる本人もわかっていることだ。興味があることならば、難しいなどとは決して口にしない。政治のことは難しいことだという固定観念が人々に植え付けられてしまっているのだ。これは、政治を話す側の力量がなかったためでもある。

 その点でも、『がんばれ!日本国憲法』はおもしろいなと思った。チラシもそうなのだが、日本国憲法を巡るバスツアーに出かけるという筋立てがユニークだ。バスの客も、2人の憲法改正賛成派と3人の反対派、そして中間的な人々を配していて、かなり「双方」あるいは「中立」に配慮している。私は憲法改正に反対する根拠が弱くなりそうな気がし、心配した。最後に、憲法改正がされることがもたらす現実を描いていたが、徴兵制度の導入はすぐには行われないだろう。改正に反対する空気を強めるようなヘマはしないものだ。

 ヒットラーが独裁国家を作り上げたのは、圧倒的な多数の国民が熱狂的に支持したからだ。初めから強権的な政権ではなかったが、むしろ国民が後押しした。日本の場合も、欧米列強国の横暴への反発から、マスコミも軍部の先走りを認め国民を鼓舞した。怖いのは、集団の心理だ。これはおかしいと思っても口に出せなくなる。次に、おかしいことを擁護し、自分の身を守る。国家のような大きな集団でなくても、4~5人の集団でもそうしたことは起きる。「いや、それはおかしいよ」などと言えば、あいつは偏屈なヤツだとか、集団の和を乱すヤツとか、レッテルを貼られて何もいえなくなる。次にいじめられるのは自分ではないかという恐怖心から、ゴマすりをする者が生まれてくる。こうしてどんどん集団は先鋭化してしまう。

 「現在の日本国憲法で困っている人がいるの」との問いかけに、改正派はうまく反論できなかった。環境権がないとか、自衛隊を認めた方が現実的だとか、そんな程度だった。改正派の問題意識としては、憲法が制定されて60年も経ていること、自国を防衛する軍隊を持つことは当然の権利であること、この2点に尽きるように思う。60年経ているとかアメリカの押し付けであるという意見には、「現在の日本国憲法で困っている人がいるの」という言い方は有効である。自国を防衛する権利と言う意見にはこの演劇の中では「どこの国が攻めてくるの」という反論になっていた。この点での掘り下げが必要に思った。つまり、憲法第9条の積極的な価値を取り上げるべきだと私は思っている。

 人はともすれば「難しい話は」と言うけれど、そういう人たちに対し、戦前のような社会にもどると強調しても共感を抱いてはもらえないだろう。あなたはこれからどんな社会にしたいのか、積極的に未来を語ることが大切な気がする。戦前の恐ろしい社会を見てもらうことは大事なことだが、それだけでは物足りない。人は恋もするのだから、否定面だけでは受け入れられない。この演劇『がんばれ!日本国憲法』を見てみようと思われる方は、明日の午後2時から、地下鉄『上社』駅の名東文化小劇場へ足を運んで欲しい。

 ところで、蝶の幼虫は2匹ともさなぎになった。片方はまだ色が緑色だが、先にさなぎになった方は白っぽくなってきた。報告はまた、明日。今晩はこれから、長女が「タコ焼き」をルーフガーデンでやってくれるという。
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美しい人

2007年08月24日 23時48分52秒 | Weblog
 佐賀北が甲子園で優勝したした時、「県立」という言葉が強調された。私は県立高校の卒業なので、やはり敏感に反応してしまった。そういえば、私学と公立の対戦になると自然に公立を応援していた。私学の場合は、特待生制度が問題になっていたが、お金で優秀な選手を集めてくると思っていたから、実際はそうでもなくてもそうに違いないと思い込んでいた。

 佐賀北は普通高校で、かなりの進学校であるらしい。野球部の彼らは実績がないために、サッカー部にグランドを譲るようにして、練習してきたそうだ。その練習も私学の強豪のように、ハードなものではなくて、ごくごく普通の練習であり、しかも限られた当たり前の時間内で行ってきたようだ。そんな練習とかけた時間で、誰が高校野球の最頂点に達することができると、誰が予想できたであろう。彼ら自身も「まさか!?」と思ったに違いない。

 九州人に言わせると「佐賀の人が歩いた後はぺんぺん草も生えんね」ということらしい。九州の7県の中でも佐賀県は貧しい、特に有名なものが無いということらしい。その九州勢の中で、佐賀北は頂点に達した。普通の子どもたちが、普通に練習し、試合をする毎にたくましく成長した。甲子園大会は彼らには成長するための練習試合だったのかもしれない。しかもその練習試合は真剣勝負だったから、持っていた力が、持っていた以上に発揮できたのだと思う。

 佐賀県人の明るさと実直さを見せてもらった気がした。私の知る佐賀の女性は色白で、気を遣うわりにはちょっと明るすぎる。それは彼女の美徳なのだが、気が廻らないと気にかけていた。完璧主義者ほど完璧にできないことを気にする。他人は自分が気にするほど気にしない。完璧でないことはむしろ可愛いことなのだ。完璧主義では息が詰まる。人はほどほどが一番よいのだ。

 我が家の孫娘も、朝早くから水泳練習に出かけ、帰ってくれば夏休みの宿題に追われ、さらに午後には再び水泳練習に出かけるか、学習塾に出かけるか、ピアノのレッスンに出かけるか、とにかくボゥーとしている余裕がない。今朝も6時からの朝食の時間に「ホーク取って!」と言う。おいおい冗談じゃーないよ。あなたの方が近いでしょう。そう思いながらも情けないことに、孫のために身体は動いてしまっている。

 「私って、本当にわがまま!」と、送っていく時に孫娘はポツリと言う。なんだやはりわかっているじゃーないか。そう思ってホッとした。「かわっているけど、それしかできん」と言う。「アンポンチンめ」と私は叱るが、まあ許している。そのうち、本気で好きな人ができれば、自分が何をしなくてはいけないか、わかるだろう。若ければ若いだけで、美しい。けれども、年齢を重ねたって若い人よりもっと美しい人もいる。魅力は多分、その人の持ち味なのだ。そういう人になってもらいたい。

 ミカンの木の幼虫はさなぎに変身した。ところが2匹いたうちの1匹が見つけられない。昨夜、時々ミカンの木から落ちた幼虫はその度に枝に戻しておいた。その時、ジッとしていた片方が今はどこにいるのかわからない。昨夜の様子から推測すると、私がいない間に、木から落ちて、部屋の中のどこかでそっとさなぎになっているのかもしれない。明日の朝、どうなっているか楽しみだ。

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どうでも良いことにこだわる

2007年08月23日 20時26分29秒 | Weblog
 蝶の幼虫はまださなぎになっていない。バリバリと音を立てて、ミカンの葉を食べている。周りが静かなら、本当にせわしなく葉を食べる音がよく聞こえる。一息に食べ、そしてしばらくじっとしている。音には敏感に反応する。眼もみえるようで、近づくとピタリと動かなくなる。緑色の保護色は、じっくり観察しないとどこにいるのかわからないほど巧妙だ。枝を移動する速度は思ったよりも早い。1時間前はこの枝の先の葉を食べていたから、きっとその辺りにいるだろうと思ってみるといない時がある。前にいた枝からかなり離れた枝に移っているのだ。

 食べたフンはお尻からムクムクと排出されるが、下に敷いた新聞紙に落ちてきた時にはもう、べたべたしたものではなく、乾燥していてちょっと固い。実によく食べるから実によくフンも出す。臭いはないような気がする。さて、今晩こそは孵化してくれるかと楽しみにしているのだが、結果についてはまた、明日報告する。

 こんなどうでも良いことにこだわることはないのだけれど、こういうのは性分のように思う。小学校の時に、いつも夏になると遊んでいた川のことが気になったことがあった。それで急に、上流はどうなっているのか見てきたくなった。自転車に乗って、川の堤防を行けば上流へいけるだろうと考え、一人で出かけていった。堤防の道はしばらく続いたが、やがて途切れた。仕方ないから、その日はそれで引き返し、次の日にその地点から上を目指して自転車を走らせた。堤防の道が無いということは、川に沿って走ることができないので、走っているうちにどこを走っているのかわからなくなる。

 お百姓さんに道を尋ねて代わりにウリをもらった。のどが渇いていたから食べればよかったのに、そのまま家に持って帰った。何度か繰り返して、川の上流を目指したが、結局行き着くことはできなかった。今のように道は舗装されていなかったし、自転車も快適なものではなかったから、走ることは大変だった。それに地図がなかったので、多分こちらだろうとカンが頼りだった。人に尋ねることも滅多にしなかった。絶対しなければならないことではなかったので、適当に走り、今日はここまでと引き返した。川の上流を探すはずで出かけていたのに、自転車で出かけることが目的になっていたのだ。

 高校3年生の時も、父親が佐渡島からくれた絵葉書のことがひっかかって、どうしても日本海が見たくなった。父親がくれた絵葉書には「日本海の海の色は太平洋の海の色と違い、黒い」、そんなことが書かれていた。その絵葉書がいつのものだった覚えていないが、日本海の海の色が黒いということが、長い間気になっていた。高校の3年の夏は大学入試に向けた補習がみっちり組まれていた。高校の予備校化に反対し、学校新聞とは違う新聞まで作って配布していたのに、補習を受けるのは卑怯者のように思い、気になっていた日本海を見てこようと、一人で出かけた。

 勉強になることか、実用的なことにこだわっていれば、また少し人生が変わっていたかもしれない。いつも子どもたちに、「今ある自分は過去の自分が選択した結果なんだよ」と言ってきた。いいことも悪いことも、人はいつも自分が決めてきている。「そんなことはない。決められた」と言う人もいるかもしれないが、決められたことを受け入れたのは自分だ。本当にイヤならば、違うことを決めればいい。どうでもいいようなこともまた振り返ってみれば結構楽しいことが多い。
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佐賀北の大逆転

2007年08月22日 21時18分51秒 | Weblog
甲子園大会の決勝戦は予想もしない展開だった。佐賀北の大逆転劇にはただただ驚かされた。行政相手に裁判を行っている知人は「これで、大逆転だ」と、我がことに引き寄せ興奮していた。試合を見ている人は皆、広陵の優勝は間違いないと思っていたはずだ。佐賀北は先発投手が2点を先取され、これまで無失点の押さえのピッチャーも打たれ、7回までに4点を取られた。打線は7回までにヒットは1本しかない。これでほぼ確実に広陵の優勝が決まった。私はそう思い、お茶しないかという知人の誘いもあったので、出かける準備をした。

ところが8回、先頭打者が出塁すると、連打がでたりして満塁になった。ここでホームランが出れば同点だが、まずありえないなと思いながら見ていた。これまで完璧なピッチングで佐賀北打線を抑え込んできた投手が粘られ、押し出しの1点を与えてしまった。塁は埋まっている。打者は3番だ。ホームランが出れば逆転だ。野球は筋書きのないドラマ、ホームランなら最高に盛り上がるところだ。そんなことを願ってはホームランは出ないだろう。ところが結果はホームランだった。そんな馬鹿な!こんなすごいことが起きるなんて!

守る側からすれば、最後の最後まで気を抜かずに攻めて押さえ込むことを、攻める側からすれば、最後まであきらめずに全力を尽くすことを、今日の試合は教えてくれた。高校野球は優勝したチームとそうでないチームに大きな差はない。人生も同じだと私は思っている。どの人の人生も素晴らしい。素晴らしいドラマの積み重ねだ。自分はなんと恵まれない人生なのか、そんなことを思う必要はない。佐賀北のように、大逆転だってありうるはずだ。そんな風に思えば、人生はどんどん楽しくなる。

楽しくなることが、今一つある。我が家では子どもたちに、蝶の孵化を見せようと2本のミカンの木がある。毎年、蝶がやってきては卵を産みつけ、幼虫が葉を食い荒らす。ところがいつも、いつの間にか幼虫はいなくなる。さなぎの抜け殻もない。今年もすでに10匹以上の幼虫がいつの間にかいなくなった。原因を突き止めなくては気がすまない私は、ミカンの鉢を居間に持ち込み、孵化しても家からは出られないようにした。見ていても昼間は孵化する様子はなかったので、ならば夜しかない。しかし、さなぎの抜け殻が残っていないのも気になる。

卵から孵った幼虫は、初めの2日間くらいは茶色と白色のまだら模様だが、次に気が付く時はもう緑色に変っている。この変化の様子も見たことがない。緑色の小さな幼虫も1週間ほどで5センチくらいにある。縞模様もハッキリして美しくなる。それでさなぎになると思うのだが、さなぎは越冬したものしか見たことがない。だから推測だが、さなぎになると同時に孵化してしまうのではないか、そう思ってミカンの鉢を居間に置いた。明日の朝、居間に2匹の蝶が飛んでいれば、やはり夜のうちに孵化したと考えていい。先ほどまで、バリバリと音を立てて、葉を食べていたが、今は静かだ。幼虫は音も聞こえ、眼も見えるようでもある。さて、明日の朝が楽しみだ。

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今日は楽しかった

2007年08月21日 19時49分20秒 | Weblog
 昨日のブログを読み返してみて、驚いた。何を粋がっているのだろう。何に対して、何を言いたかったのだろう。酔っ払いという者は大方こんなものだ。自分が何を言いたいのかもわからず、勝手に言いたいことを放つのだから。

 私は酔っ払って、自分を見失うことはなかったと思うけれど、これだって自分がそう思うだけで、他人が見れば「相当に自分を見失っていた」のかもしれない。正直に言えば私の中では、酔っ払ってある時間帯の記憶がなくなっていたことが3度ある。いずれも大学生の時だ。

 1回目は1年の初めての大学祭で、先輩に勧められて飲まされた時だ。大学を出るまでは少し酔ったかなくらいに思っていた。電車を降りて帰る道すがら、私はまっすぐに歩いているつもりなのに、塀が私にぶつかってきて、押し返しても押し返しても押し戻され、服は傷つき、手も膝も傷ついた。どのように家にたどり着いたのか、記憶にない。

 2回目は3年の時で、教育実習先の先生と飲んだ時だ。この時は、ほとんど何も覚えていない。秋だった。なぜか稲穂をかき分け歩いていた部分だけが記憶に残っている。翌日、自分の靴を見ると泥まみれであったし、洋服もまた泥が付いていたから、確かに田んぼの中を歩いたのだろう。家に帰るためには電車に乗らなければ帰れないのに、その記憶はないし、電車に乗ったのなら、駅から家までの間には田んぼなどないから、どのようにして帰ったのか、不思議だ。

 3度目は、東京にいた時だ。指導教官に言われて、4年の大半を東京で過ごした。私が出版関係で働きたいと言っていたので、指導教官は東京の出版社を世話してくれたのだ。授業は出ずに、会社に出勤して働いた。アルバイトである。会社の先輩に連れられ、昼間から銀座で飲み、いろんな店に行った。最後に、カウンターバーの女の子が「お客さん、もう止めておきなさい」と言われたこと、それから「トイレに行ってきます」と言ったことまでは覚えている。次の記憶は、タクシーの中で嘔吐してしまい、運転手に怒鳴られ車から降りたことだ。その次の記憶は水の中だった。どうして水の中なのかわからなかった。眼鏡がなくなってしまっていたので、周りはよくわからないが、遠くに光が見えたし、車の音や人の声も聞こえた。自分は生きている。少し歩くと、コンクリートの壁にたどり着いた。かなり高い。勇気を出して「オーイ」と叫んでみた。何度か叫ぶと上で「誰かが叫んでいる」と言う声が聞こえた。

 東京タワーが見える場所だった。後日、そうではないかと思う場所に行ってみたが、水面までは5メートル近くあった。警察官が「岸の方に歩いたから良かったが、そうでなければ死んでいたかも知れんぞ」と言っていたことを思い出した。

 自分を見失うような酒は飲まない、そう決めた。なぜ、もう酒は飲まないと決めなかったのかとは一度も思ったことはない。酒を飲む時は、難しい話をしない。馬鹿話が酒の肴に丁度よいと思う。楽しむために酒を飲むわけではないにしても、酒を飲む時は楽しい方がいい。

 「どうして生きるのですか」と言う。答えは簡単だ。「生きているから」。生きているのだから、自分が生きているのだから、自分の人生でありたい。私が楽しいと感じるのは、みんなが楽しいと思う時だ。人間は一人では楽しくもないし、幸せにもなれない。残念ながらと言うよりも、だからこそ人と人との関係の中にしか、楽しさも悲しさも幸福も不幸もやってこない。

 今日は楽しかった。
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自分がしたいように生きる

2007年08月20日 22時44分54秒 | Weblog
 甲子園大会で、静岡の常葉菊川高校が大垣日大附属高校を破った。この試合だけは見逃さないようにと思って、テレビにかじりついていた。今年の春の優勝決定戦でぶつかり合った両チームがどんな試合をしてくれるのか、楽しみでもあった。

 私自身はチームプレーイの経験が乏しい。子どもの頃は、どういうわけかわからないうちに、地域の子どもソフトボールチームに入れられ、朝早くから練習させられた。何が一番イヤかというと、朝早くから練習させられることがイヤだったという誠にひねくれた子どもだった。足は速かったが、野球に興味はなかった。

 指導者の大人の人は、私を高く評価してくれていたのか、練習が終わるとアイスキャンデーをもらうことが多かったが、私は皆でコツコツ練習することがイヤだった。身体が小さかったから、打者としては非力で打つコツもわからなかったから、たいした選手ではなかったと思う。皆はプロ野球選手に関心があったが、私は選手を誰も知らないくらい無関心だった。一人で黙々と走ることはできても、チームの一員としてスポーツを楽しむレベルではなかった。

 話が逸れてしまったが、私は常葉菊川を応援していた。高校野球はバント戦術が王道のようだが、常葉菊川はまず振らせてくる。それが私を魅了した。高校野球といえば、名電高校のようにバントを使ってくる。勝つための野球に徹している。本当にそれで選手たちは楽しいのかと私は疑問だった。ところが常葉菊川はバントをしない。打たせてくる。これって、高校野球じゃーないかと私は思った。勝つための野球ばかりでは正直言っておもしろくない。

 最近、「楽しんでやります」と言う選手が多くなり、これが日本選手をダメにしていると言われている。要するに「根性のない選手が増えたので、成績は上がらないのだ」というわけだ。私に言わせれば、成績なんか上がらなくて結構だ。楽しんでスポーツをやって何が悪いと思う。国の成績を上げるためにスポーツはあるのではない。スポーツを行うものが自らの限界に挑むから、見ている側が勝手にワクワクしてしまうに過ぎない。

 常葉菊川は私が思い描いているチームとは本質的には違うよと、言われるかもしれないが、今の私はバントという姑息な手段を用いず、何が何でも打っていく姿勢が好きだということだ。選挙の時、とにかく当選するためには違法スレスレでやれと言う人もいれば、当選できるなら違法を覚悟してでもやった方が得だと言う人もいる。残念ながら、私はどちらにも組しない。当選することが一番大事で、何が何でもやることが必要だという意見には反対である。私は、結果はもちろん大事なことではあるが、その過程こそが一番問われることだと思っている。結果よければ全て良しと、考えてきたから、今日のような事態を生むことになったのだ。

 明日は若い女性とデートである。若い女性と話もできず、権力にだけしがみついている男どもには「ザマーミロ」である。人は「自分がしたいように生きる」しかないと言っていた人がいるが、確かにそのとおりだと思う。
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