友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ガソリン税の暫定税率が復活

2008年04月30日 23時30分29秒 | Weblog
 昼過ぎに郵便局へ出かけた。ところが渋滞で進まない。交通事故でもあったのかと思ったけれど、原因はガソリンスタンドへ入るために車が数珠繋ぎになっているためだった。宣言どおりに自民党と公明党はガソリン税の暫定税率を再び可決した。可決して多少の混乱と不満が上がったとしても、日本人のことだからそのうちに収まると踏んだのだろう。国民を甘く見ているというかべきか、よく見ているというべきか、これは国民自身が判断することだ。

 ガソリンは1リットル当たり約30円高くなるとテレビは報じていた。値上げになる前にガソリンを入れておこうという庶民の涙ぐましい姿があちこちにあった。満タンで50リットルなら1,500円得したという感覚なのだろう。我が家のカミさんも「ガソリンを入れて来て」と言うけれど、彼女の車は満タンにしたばかりだから、よく入ってもせいぜい10リットル、つまりせいぜい300円というところだ。しかし、これって本当に得したことなのだろうか?

 オイルショックの時もトイレットペーパーが無くなるというウワサが飛び交い、これは大変だとみんなが買い溜めに走った。おかげでトイレットペーパーは本当に店頭から消えた。カミさんの両親が「灯油が買えないと困る」と言うので、それならガスストーブにしたらと思い、ガス器具店を回ったけれど、売り切れなのかどこの店の店頭にもガスストーブは置いてなかった。店の人に尋ねても「申し訳ありません」と言うばかりで、結局はプレゼントはできなかった。

 米作の不況でコメが無くなり、外国から大量の輸入米が市場に溢れた時があった。大阪の友人が「おコメが買えないから、10キロほど送ってくれないか」と電話してきた。情報が一人歩きを始めると、パニックになることが多い。情報社会だからこそ生まれる現象なのだろが、よく考えてみると、昔から情報操作は存在していた。それほど、人は情報に流されやすいのだ。自分だけが取り残される、自分だけが損をしてしまう、そういうことに人間は敏感にできているようだ。

 わずかな金額のことなのに、逆にウワサが被害を大きくしてしまう。今回のガソリン税の問題も、オイルショックも、コメ不足も、言ってみれば政治の責任である。政府がキチンと対応できていれば、いやそもそもが、こうした問題が発生しない政治が行われていれば、パニックは起こらなかったはずだ。ところが人間は集団生活をする動物であるから、本質的に情報やウワサに振り回される性質を備えているようだ。そうした性質を利用して意図して情報が流されたり、意図したわけでもない情報が予想を超えて大きくなることもある。

 ウワサに惑わされないためには正しい情報を得ることだろうけれど、もしそれができないのであれば、自分を信じて判断する以外にないと思う。
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男と女というもの

2008年04月29日 21時56分11秒 | Weblog
 今日はリクエストに応えて、友だちの恋愛を取り上げたい。それは、「人は何のために生きるか」といった哲学的な思索のためではなく、人は何を求めているのかをちょっと考えてみたいと思うからだ。「人は何のために生きるのか」の答えを私は用意できない。今は「生きているから」という消極的な答えしか出てこない。けれども、自分を見てみても、何かを求めているから生きているような気がしてならない。

 友だちには妻子がある。しかも彼は、妻と彼の関係を「セラピストと患者」のようなものだと書いている。だからこそ「セラピストと患者という女房と私の関係が崩れるのが、何よりも怖かった」と告白している。彼は、12年間も付き合ってきた女性に「友だち以上、恋人未満」を望んだ。それは彼の現実を冷静に見る能力と現実に支配された彼の欲望の妥協の産物だった。けれども、ダンナと別れた彼女は本当にそれでよかったのか。

 彼は恋愛にあこがれていたが、「私が死ぬほど愛した」彼女から、もし結婚を迫られたならどうするつもりだったのだろう。彼女は、彼が女房と離婚し、自分と結婚などしないことを充分に承知していたのではないかと私は思っている。彼がまだ40代の働き盛りの時に、二人は出会っている。この時なら、二人はまだやり直しができたのかもしれない。けれども今、彼は退職して年金暮らしだ。先の見通しは無いのだから、二人が暮らしていけるストーリーはないはずだ。

 彼も彼女も当然、もうすぐ終わりが来ることを知っていただろう。終わりが来ることも知らずに、「友だち以上、恋人未満」を続けていたとしたなら、それはいったい何だったのだろう。「恋ではない」と言い聞かせている「恋」のために、何も見たくなかったのだろうか。二人は本当に「今までの恋愛の概念を越えたステージ」を目指していたのだろうか。

 彼は嫉妬から、彼女を「尻軽女!」とののしった。彼女は「あんなに屈辱され、ののしられたのは生まれて初めて。楽しい思いでも全部消えてしまいました。あなたにとって、私は尻軽女ですから、早く忘れてください」とメールを送ってきた。12年間、「友だち以上、恋人未満」を続けてきたのに、まるで熟年男女の痴情的な破局である。それでも彼はそれから半年間、「思い出を棄てる時は、私が死ぬ時」「叫び続けても、声は女に届かない」「それで ほんとにいいの」「すれ違う二人の魂」「もう一度、付き合うチャンスがほしい」などなど、ブログで彼女にメッセージを送り続けてきた。

 昨日の彼のブログは「感触が確信に変わった瞬間だった」と題し、「最後に彼女は私に向かって言った。『これからも二人で、いい思い出を作ることに、私は異存ないわよ』。感触が確信に変わった瞬間だった」と結んでいた。男と女というものは学校の試験のようには答えが出ないものだと改めて思い知った。
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フレッシュな印象

2008年04月28日 23時25分32秒 | Weblog
 衆議院山口2区の補欠選挙で、民主党が予想通りに勝利した。民主党が勝てないようならこの国の有権者はなんと鈍い感性なのかと思っていたので、当たり前と言えば当たり前の勝利だった。後期高齢者医療制度は小泉政権下で自民・公明の強行採決で実現されたものなのに、そのことには余り触れられず、不平等感だけが強調されている。そしてガソリン税の暫定税率問題は、上げ下げの問題に矮小化され、税のあり方にはメスが入らない。

 バラエティ番組でも政治の問題が取り上げられるが、なぜか歯がゆい思いがする。こんな風に面白おかしく政治を考えていくのもよいのだろうが、軽さには何か危険な意識が含まれているようにも思われるのだ。知り合いの市議はいろいろとアイディアを思いつく。たとえば団塊世代の大量退職者を目当てにした講座を設けたり、地地球環境を考える映画会を開いたり、精力的に活動している。確かにそうした活動は時代の要請に応えているし、やっていく意味も大きいと思う。

 私が不思議だなと思うのは、そこから何を導き出したいのだろうかということだ。彼の話を聞いていると、イベントを行なうことが目的のような気がしてしまう。しかも、内容にかかわることよりも行なうこと自体が目的化されてしまっている。かつて、「女性議員を議会に!」という運動があった。女性議員ならば誰でもよいわけではないはずなのに、このスローガンが単純に目的化されてしまったのだ。

 市民の目線で見える政治を!と言い、それが支持されて当選したのに、議員や首長になってしまうと、訴えてきたことを反故にしてしまう人がいる。自分が首長や議員になればこういうことをやると主張していたのに、いつの間にか首長や議員のイスにいることが目的になってしまう。むしろ、勝ち取ったイスを手放したくない思いの方が強くなってしまうようだ。自分が何のために首長選挙や議員選挙を戦ったのか、当初の理想や目的が風化していることに気がつかない。

 いや初めから、全く内容も無く、ただただ議員や首長になりたいだけの人もいる。私の知り合いの市議もそんな一人なのかもしれない。「あなたはそれで、何がしたいの?」と尋ねても、はっきりとした彼の理想論は出てこない。そんな政治家がいつまでも続くわけはない。いつかは自分の力量というか本質がむき出しにされてしまう時がある。

 昨日は、「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」の総会だった。久々に新入会員が参加した会議はフレッシュな印象を与えてくれた。ここの仲間は真っ正直な人ばかりだが、人間はどうしてもブレやすい。だからこそ自らの政治姿勢を互いの論議の中で検証していかないといけないと思う。
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「楽市楽座」

2008年04月27日 22時17分04秒 | Weblog
 今日は忙しかった。朝早くから駅前の「楽市楽座」の出店のために出かけた。NPO法人を立ち上げる事前事業として、ポン菓子と懐かしの駄菓子を販売する準備のためだ。昨年に比べて、私たちのポン菓子チームの出店場所はメイン会場からかなり離れている。出店の設営に取り掛かっていると、駅前の商店の人が「私の店の前でやるのはけしからん」と言う。「冗談ではないよ、私たちは駅前発展会から頼まれてポン菓子と昔懐かしい駄菓子の販売をしているのですよ」と言いたいけれど、それを口にしてしまったなら、これから先を失うことになりかねない。

 「楽市楽座」はさびれていく駅前商店街を活性化させようと企画されたものだ。商店街だけでは盛り立てることができなくなってきているから、私たちのような素人にも声をかけ、祭りを盛り上げようとしているのだが、商店の中にはヨソモノの参加を快く思っていない人もいる。私も「地域新聞」という商売をやってきたから言えるのだが、商売の基本は「損して得とれ」だと思っている。奉仕あるいはサービスをしている事業所こそが大きく伸びていく。誰もが自分のためにやっていてくれるのだと思えば気持ちの良いものなのだ。

 私たちが売る商品はどれも百円にしている。ポン菓子も百円なら、昔懐かしい駄菓子も1袋百円である。お釣りが間に合わなければ、「お金は後で結構ですよ」という商売である。結果的には予想を超えた売り上げを実現できた。そんなこんなで、「反省会」と称して飲み会を行い、次への英気を育ててきた。飲み会は互いの意思を確認できる場であり、明日への活力を生み出す場でもある。元気の無かったおじさんもやる気を取り戻し、これからのことを考える機会となったことは間違いない。

 NPO法人は、言いだしっぺの一人でも熱意を喪失するなら、たちまちのうちに疑心暗鬼となってしまう。そういう意味で今は試練の時だと仲間の多くが感じているから、今日はそこそこの売り上げを実現し、明日への英気を養うことができたのだに思う。一人ならば堂々巡りの終わっていたであろう事柄が、着実に一歩進んできたことを実感できたのではないかと思う。
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友だち以上恋人未満の恋愛!?

2008年04月26日 23時26分20秒 | Weblog
 先日も知人が「ブログ、読んでいますよ。お孫さんの話とお友だちの恋愛の話が一番おもしろいですね」と言う。ありがたいことだが、少々ガッカリもした。政治や社会のことで、私が発言していることはそんなに面白く無いのか、私自身のことやその思いはそれほど共感を呼ぶようなことでは無いのか。それならば仕方がない。読み手に迎合して、友だちの恋愛をもう少し論じてみようかと思った。

 友だちは12年間、女性とプラトニックに付き合ってきた。二人は「友だち以上、恋人未満」でいようと決めた。そして12年間、決めたことからはみ出さなかった。この話をほとんどの人が「ありえない。ウソだろう」と言う。男性ばかりでなく、女性も「ありえない」と言う。ありえないようなことではあるが、二人はそのように付き合ってきた。

 人は、食べて眠って働いて生きているけれど、何も考えず何も求めずに生きているわけではない。人は何か、満たされるものを求めて生きている。何かはおそらく、人によって千差万別だろう。自分が生きている実感というか充実感というようなものを求めているのではないかと私は思っている。

 彼は言う。「周囲に迷惑をかけず、相手にも自分の気持ちを強要せず、しかも自分の気持ちに正直に相手に伝えようとすればするほど、今までの恋愛の概念を越えたステージに、自らを立たせ、今までの常識以外のところで愛情の表現をすることでしか成立し得ない」。「愛情の度合いが深まれば深まるほど、相手に肉体を求めたり、独占したいという気持ちから遠ざかっていく」。「男と女の関係になることは、重要度合いの観点から考えると、トップスリーにも入らない」。「彼女との12年間の思い出がある限り、私はこれからも自分を失わず、正直に生きていけるとさえ確信できる」。

 二人が待ち合わせて、せっせと出かけて行ったのは、思い出作りだった。彼は何百枚もの決して公開できない写真を撮り、彼女からのメールの全てを保存し、思い出の行事の一つひとつをブログに書き込んでいる。彼女の長く黒い髪、大人の女のしぐさ、一緒に笑ったり見たり食べたり、ちょっとした思い違いから生まれる小さなケンカも、彼は実に細かく記してきた。

 しかし、それらの一つひとつは明らかに「恋愛」ではないのか。「友だち以上、恋人未満」であり続けることが二人の約束であったけれど、彼は渥美半島の恋路が浜に出かけた時のブログの中で、手をつないだことの喜びとともに、この浜を手と手をつないで歩いた二人は永遠に結ばれるという言い伝えをも記していた。手をつなぐ行為は、肉欲的な行為ではないのか。肉の交わりがなければ、プラトニックなのか。二人はなぜ、「互いが心を通わせ続けた」のだろう。

 思い出があれば生きていけると彼は言うけれど、彼女も思い出作りが必要だったのだろうか。彼のことはよくわかるけれど、彼女がどんな人か知らない私には、彼女の心の動きが見えない。彼には見えていたのだろうか。
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言葉遣い

2008年04月25日 21時54分10秒 | Weblog
 孫娘を塾に送り届けて、ひとりで食事をする。味気ないが気楽でもある。孫娘は「すっごくいいことを考えた」と言う。「えっ!何?」と聞く。「あのさ、ママの名前と私の名前を残すの!」と答える。孫娘が通う中学校は母親の母校でもある。そしてこの学校の体育大会のプログラムには、それぞれの種目の新記録と出した人の名前が記載されている。孫娘の母親も女子100メートルの記録保持者で、20何年前の彼女の記録は未だに破られていない。孫娘は、「ママの記録を塗り替えるのは私」と言っていたが、「ママと一緒に私の名前を残す」と言うのだ。

 「それで、あなたは100メートル以外に残せる種目があるの?」と聞くと、「女子800メートルに出る」と言う。「だいたい我が家は短距離型なのに、800メートルはとてもきつい種目だよ」と念を押すと、「ウン、パパの血が半分あるから大丈夫!」と自信満々で答える。「練習すれば必ず報われる」と信じてきた彼女らしい言い分だ。今週は体力測定の期間で、一昨日などは階段が上れないほど全身の筋肉痛に襲われながら、「絶対に800メートルで新記録を出す」と自分の身体に鞭打って、運動場を走り、水泳を止めないでいる。

 肉体を使うことにはどこまでも厳しく自分を律するのに、言葉遣いはなかなか改善できない。「宿題はできているの?」とカミさんが尋ねると、ぶっきらぼうに「もうやった」と答える。既に宿題はやってしまっていたのだから、「もうやった」でもいいけれど、もう少し答え方があるんじゃないか。先日も私がパンに「ジャムを塗ってあげようか?」と言うと、「いらん」と答えるから、「そんな言い方はないよ。いらんではなくてせめていらないですか、丁寧に言うなら結構ですだよ」と言うと、ふてくされて「結構です」と言う。

 小学生でもそうだけれど、テレビの影響なのか、女の子でも男言葉で話すのを耳にする。「おまえ」とか「うるせんだよ」とか、平気でつかう。孫娘も同じだ。「そんな言い方をしていると、そのうちに直らなくなるよ」と言えば、「別に、直す必要ないもん」と開き直る。

 そういえば、洗濯機の仕上げ剤の容器に、私は娘が使っていた洗剤を間違って入れてしまったことがあった。するとカミさんは「本当に、余分なことばかりするんだから!」と怒った。よく確かめずに、容器が空だったのでそばに置いてあった洗剤を入れてしまったけれど、悪気があってしたわけではないのだから、もう少し他の言い方をして欲しかった。けれども、その反対の場合もあるから、えらそうなことが言えた立場ではない。言葉はとても難しいし、それだけに大切だと思うけれど、未だに的確に相手に正しく伝える言葉を発しているのか、不安に思う。
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死刑判決その2

2008年04月24日 21時40分47秒 | Weblog
 山口県光市の母子殺害事件の判決については、昨日のブログに書いた。中日新聞が中面の全頁を使って報道のあり方について報じていたことも書いた。その頁に、映画監督の森達也さんが記事を寄せていたが、印象に残る文面だった。森さんはテレビのワイドショーを見ていて「ふと気がついた。ここには一人称単数の主語がない。スタジオに並ぶ全員の主語に、いつのまにか「本村さん」が憑依(霊などが乗り移ること。とりつくこと)している。死刑判決を受けた元少年の存在すらも消えている」と書いていた。

 ワイドショーは見ていないが、この光景は想像できる。思想集団や宗教集団が話し合うと恐ろしいくらいに一つの意見、一つの見方に集約されていくが、これに似ている。連合赤軍の「総括」の光景だ。この傾向はこのワイドショーばかりでなく、日本全土に広がっているような気がする。「凶悪な事件が増えた。これを押さえるには、悪いことをした者に厳罰で臨むべきだ。人を殺した者は、一人だから無期で二人から死刑ではなく、また少年だから無期で成人なら死刑ではなく、殺した者は全て死刑にすべきだ」。そんな空気が広がっている。だから森さんは「悪いことをしたのだから死刑で当然だ。そう主張する人に対しても言葉はない。今はただ、自分の無力さに吐息をつくばかりだ」と締めくくらざるを得なかったのだろう。

 今日の中日新聞の同じ蘭に、フリージャーナリストの綿井健陽さんが『被告の話 大人は聞かず』と題して寄稿していた。「事件当時18歳になったばかりの彼に対して、大人の側が彼の話を真摯に聞こうともせず、最初から反省や悔悟だけを求め、事件の実行行為や動機の事実を見つけようともしなかった。そして彼の生い立ちや人格に合ったさまざまな『術』を与えようともせず、探そうともせず、司法は最後に『術がなくなった』と結論づけた。これは大人の責任放棄としか言えない」。

 綿井さんの指摘を私は正しいと思う。もっとも有名な『きっこのブログ』ですら、判決の日に「例のトンデモ弁護団による荒唐無稽な大バカ作戦こそが、わずかに残されていた『情状酌量の余地』すらもゼロにしてしまったってことが分かった。」と書いていた。言葉は悪いが知性のある人だと「きっこ」さんを想像していたが、この見解には少々ガッカリした。「トンデモ弁護団」がどんな弁護を展開したのかを知らない私がものを言う立場にないが、少なくとも綿井さんの言うように、死ぬことになるかもしれない被告の話を真摯に聞くくらいの余裕が裁く側には必要だと思う。

 元少年はこれで、たとえ上告したとしても、死刑からは免れることはなくなってしまった。本村さんも言うように「それで彼が犯した罪が償えるのか」、実は誰も分かっているわけではない。法の定めと慣習に従うことで、みんなが満足しているに過ぎないように私には思われる。もし、私自身が元少年であったならと、考えてしまう。誰もが元少年であったならと、一度は考えてみる必要があると私は思った。
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死刑判決

2008年04月23日 23時23分44秒 | Weblog
 山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審判決で、広島高裁は犯行時が18歳1カ月だった男に死刑を言い渡した。この事件は、妻と子どもを殺された本村さんがマスコミに積極的に出て、遺族の苦しみを訴えたことから注目されるようになったと思う。さらに報道を過熱させたのはマスコミ自身で、中でもテレビは弁護団と本村さんを対立的に描くことで、バラエティーの域に落とし込んでしまった感がある。

 昨日の記者会見を見ていて、本村さんはすごく冷静な人だと思った。事件後、何度もマスコミの前に立たされたけれど、彼はいつも自分の言葉で自分の意見を語っている。その言葉は正確だし、趣旨もハッキリしている。昨日の判決についても彼は「遺族が求めてきた判決」と言いながら、「決して喜ばしい気持ちではない」と述べた。誰かが、「本村さんなら総理大臣にしてもいい」とブログに書いていたが、スジの通ったキッパリした発言は今の政治家にはいないと思う。

 私は昨夜、テレビ報道を見なかったのでわからないが、今朝の新聞を見ると、朝日新聞は1面ではなく2面扱いだった。そして1面の「天声人語」も3面の社説も、「あなたが裁判員だったら」を前面に出していた。1年後から始まる裁判員制度をPRすることで終わっているのだ。これに対して中日新聞は1面で「高裁『供述は極刑逃れ』」と報じ、中ほどの面では全面を使い判決の趣旨や報道のあり方を論じていたし、最後の頁では本村さんおよび弁護団の記者会見をトップ記事にしていた。

 私は、人が人を殺すことは断じて許さない。いかなる戦争も認めない。もし誰かが誰かを殺してしまったなら、その人は一生をかけて償わなくてはならないと思っている。だから、人を殺す死刑もすべきではないと思う。これは極論だから賛成者はいないかもしれないが、たとえ正当防衛であっても、どんなに納得できるいかなる理由があろうとも、人を殺してしまったならば極刑に服するべきだと思う。私は正当防衛での戦争も認めないし、自分が殺されそうだったからやむなく殺した場合の正当防衛も認めない。

 人間は人間を殺した場合は、極刑となることが現在の人間の最大の智恵のように思う。弁護団が言うように、被告が真実を語ってこそ初めて公正な裁判ができると私も考える。たとえ、それが荒唐無稽のものであってもかまわない。けれども、被告が語る真実を見ても極刑は当然だろう。被告は被害者を殺したこと自体は間違いのないことなのだから。被告もそれは認めているし、私の勝手な思いかもしれないが、被告自身が「死」は覚悟していたと思う。

 弁護団の中には死刑廃止論者が大勢いたかもしれない。いや、遺族である本村さんだって、死刑にしたから満足だとは言っていない。彼は、被告が行なった行為を償って欲しいと言っているに過ぎない。彼もまた、ある意味で死刑廃止の人とも言える。死刑にすればそれで全てが解決できるわけではないからだ。人間そのものの、生き方なのか価値観なのか、生活環境なのか、どこがどういう問題なのか、人間として考えることが、解決の道のようにも思う。

 我が家の北の部屋の窓際の壁でサナギになっていたアゲハチョウが今日、羽化して飛びたった。飛び立たなければ、新しい世界は見えてこないが、明日は雨降りのようだから、ちゃんと雨宿りしているかと気になっている。
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強制されるのはイヤ

2008年04月22日 21時57分41秒 | Weblog
 新学期の授業が始まった。隣りが小学校だから、学校の様子がよくわかる。ピッーピッーの笛の音が聞こえてくる。先生が前と後にいるから、どうやら新1年生だ。小さな体操服の列は行儀よく、先生の笛に合わせて小走りに行く。木陰に着くと、横2列での体操座りとなった。先生が「何番から何番はブランコ、何番から何番はシーソー」と指示すると、子どもたちはサッとブランコとシーソーに分かれた。

 先生の指示を受けて機敏に行動するから、エライものだと感心して眺めていると、しばらくしてこの行動に慣れてきたのか、あちらこちらで歓声や奇声が上がる。体操服でいるけれど、ピッーピッーと笛の号令はあるけれど、ブランコもシーソーも基本的には「遊び」だから、慣れてくれば当然のように自然と声が上がる。
私は自分の小学校の頃を思い出す。級長だからみんなを並ばせなくてはならない。人には命令するくせに、実は私は人から命令されるのが一番イヤだった。集団で一糸乱れぬ行動をとりながら、なぜか馬鹿げていると思っていた。縦、横、斜め、一直線にきちんと並ばせることを生き甲斐に思っているような先生が嫌いだった。姑息にも、自分は列を乱さず、掛け声までかけながら、腹の中ではなんでこんな馬鹿馬鹿しいことに一生懸命になるのだろうと思っていた。

 教師になっても、きちんとやることに抵抗していた。生活指導部の先生から「あなたのクラスの生徒は髪が長いから注意してください」と言われた。私自身が長髪にしていたから、生活指導の先生は私に注意したかったのかもしれない。私はホームルームで「生活指導の先生から、ウチのクラスは校則違反の長髪が多いと注意を受けた。自分の髪が長髪だと思うものは手を上げて」と言うと、誰一人手を上げない。「じゃー、このクラスには校則違反の長髪はひとりもいないんだな」と聞くと、「ウォー」と言うので、「わかった。校則違反者は一人もいないと報告しておく」と私。

 今、文部科学省は国を愛する心を育てようと、日の丸を掲揚し、君が代を斉唱させることを指導している。私は現場にいなくて本当によかったと思う。「愛する」ことは強制してできるものではない。愛してはならないとどんなに規制しても愛さずにいられないのと同様に、愛せよと言われても愛することなどできない。私たちの心の中までは誰もが規制することなどできないのだ。
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花泥棒

2008年04月21日 20時29分30秒 | Weblog
 土曜日と日曜日の強い風に痛めつけられ、我が家のチューリップは限界です。朝、チューリップを眺めていて、まだよい花だけでも切り取り、プレゼントすれば花も喜ぶだろうと思いたった。バケツに2杯のチューリップを車に載せ、お世話になっているデイサービスへと運んだ。

 「わあー、キレイ」とか「こんなにも大きいんだ」とか、皆さんに喜んでもらえたからよかった。私としてはもう少し前、花がこれからという時に持ってくるべきだったと思ったけれど、気候の判断は難しく。ちょっとタイミングとしては遅かったけれど、1本や2本ではない花のかたまりは、それなりに迫力もあり、花の持つ見事さも伝えることができたのではないだろうか。

 前橋では目抜き通りのチューリップ約千本が何者かに切られた。福岡や静岡でもチューリップが荒らされたという。「花泥棒は罪にならない」。そんなことを昔聞いたことがある。「花の好きな人は心のキレイな人だから、盗っても必ずどこかでその花を咲かせているだろう」という、優しい解釈だった。人が丹精込めて育てたものを盗んでいって、それを許す心に広さには感心するけれど、盗まれた方はガッカリだ。まして、通りや公園の花が荒らされてしまったのでは、とても許す気にはならないだろう。

 名古屋だけなのかわからないけれど、この地方ではお店の開店祝いに花を並べる。ひどい時は、並べた端から開店祝いの花を持っていく人がいる。最近では時間を区切ってからにしているとも聞くが、はじめてみた時は驚いた。「花泥棒」そのものではないかと思ったのだ。ところがこの地方では、開店の時に大勢の人が来て、花を持って行ってもらうことが商売繁盛につながるのだから、非難してはいけないと聞かされた。

 それにしても開店を祝うはずの花が、あっという間に無くなってしまうというのも寂しいものだ。いったい誰が「花泥棒は罪にならない」と言い出したのだろう。調べてみると、「花泥棒」ではなく「花盗人」から来たものらしい。「花盗人」というのは狂言で、桜の枝を折って捕まった僧が詠んだ歌が見事だったので、罪を許して花見の宴に加えたという話に由来するようだ。

 花を盗んだり、枝を折ったり、公園を汚したりせずに、むしろ進んで花を植えたり、雑草を抜いたり、水をやって育んで欲しいと思う。街路樹が緑で覆われてきたのに、その根元は雑草ばかりか空きカンや空きビンなどのゴミが放られている。道に面した家やお店、事業所の人たちがもう少し気にかけて手を入れてくれたなら、もっと気持ちよくなるのにと思うには私のエゴなのだろうか。

 「花泥棒は罪にならない」をプロポーズに使った人がいるそうだが、いったいどんな風に使ったのだろう。映画『卒業』のように、結婚式の最中に花嫁を連れ去るのだろうか。あるいは既婚の女性を奪うことを意味しているのだろうか。
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