友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ボードレールの詩集『悪の華』

2017年02月28日 17時18分58秒 | Weblog

 卒業生がFBに書き込んだ『担任の思い出』に心惹かれた。彼の担任は、私が初めて勤めた高校の同じ科の先輩で、私にとっても思い出深い先生である。ベレー帽をかぶり、絶えず煙草をくわえ、2口か3口吸っただけで消してしまう。その吸い終わった煙草を、灰皿にきれいに山を作って並べておくので、教官室の掃除をする生徒がかすみ盗って喫煙する。おそらく先生も気付いていたと思うけれど、そのダンディーな仕草を辞める気配はなかった。

 昭和62年の卒業と言うから、先生はもう50代の半ばを過ぎていたと思う。京都で美大生だった先生は詩人ボードレールの『悪の華』を愛読していたらしい。学生生活が「悪の華」のようだったのかも知れない。持ち歩いていたノートに詩を綴り、絵を描き込んでいた。ある日、恩師の元に遊びに行き、宝物のノートを見せた。すると恩師はニコニコ顔で「ボードレールのようだね」と言われた。その夜、先生は鴨川に大切なノートを投げ捨てた。この話がとても印象的で心に残っていると卒業生は記している。

 今の若者には関心がないかも知れないが、先生たちの青春時代はボードレールやロートレアモンあるいはエリェアールの詩の1つ2つ暗唱できなければ美大生ではなかった。カミュやブレヒトを語らなければ芸術家ではないような風潮があった。どうして鴨川にノートを捨ててしまったのか分からないが、私にとっても先生のことを身近に感じる話である。先生の授業を見せてもらったことはないけれど、コーヒー好きの先生は飲み方からこだわっていて、「美学」を持っている人だった。

 「教育者になるか、アーチストになるか、決めなさい」と先生に言われたことが、私には一番心残りだ。詩集『悪の華』は20代のボードレールが出会った、混血の美魔女ジャンヌ・デュバルとの退廃と愛欲の、そのくせたまらなく淋しくて切ない、だからこそ心の叫びに共感する人も少なくない。背伸びした高校生の私も、分からないままに、ゾクゾクしながら読んだ。

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引き継がれない遺産

2017年02月27日 17時30分49秒 | Weblog

 元の生活に戻りつつあるなと感じていたら、それを察したかのように、80代の先輩から電話があった。『徳川家康』『前田利家』に続く第3弾の歴史講座のDVDが出来たというので、いつもの喫茶店で会った。私が「歴史が好き」と言ったことから、いつも必ずレジュメをプリントし、DVDを渡してくれる。歴史の話から、市政のことや選挙の話など、おおよそ1時間近く無駄話をする。

 「薩摩はどうして独立しなかったのかねえ」と聞かれ、「独立して潰されるより、徳川を倒す機会を待っていたんでしょう。薩摩の金が無ければ明治維新は出来なかったと思います」と答える。「中国が近代化できなかったのは、時の支配者が漢民族ではなく満州民族だったので、政権の維持しか頭になかったからでしょう」などと世界史の話にもなり、「市長が名古屋市との合併を言い出したのはなぜですか?」と聞いてみたが、物知りの先輩も知らなかった。

 先輩が急に「あなたにはもう一度表で何かやってもらいたい」と言うので、「今は、井戸掘りをやっていますから」と答えると、「中学校の西を用水が流れている。今は給食センターになっているが、そこに桜の並木があるのはご存知か?」と聞くので、「ええ、前の町長が提唱して植えたものです」と答える。「そこに手押しポンプがあるが‥」。「ええ、防災用にと掘ったものです」。「それがさび付いて動かないままになっている」と言うので、ふたりで現場を見に出かけた。

 1本だが咲きかけている桜があった。芸大生の彫刻も2体あるがイタズラされて放置されたままだ。税金という他人の金だからか、行政はせっかくある財産も引き継ぎが出来なかったからか、まるでゴミ同然の扱いだ。市内の児童公園や保育園、学校などに掘られた井戸も、首長が変わり引き継ぎが出来ていないので、全くの持ち腐れとなっている。公務員が自らの自治体に関心がないのは、市民が市政に関心がないからだろう。困ったものだ。年末から伸び始めた胡蝶蘭の花がやっと開いた(写真)。

 

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快刀乱麻と回答乱魔

2017年02月26日 18時32分38秒 | Weblog

 『眠り姫 快刀乱麻』を観た。休憩のない2時間半の長い芝居だった。どういう物語か、あらすじを知らない人にはちょっと酷だったかも知れない。会場の千種文化小劇場は円形劇場で収容人数は少ないが、芝居好きには演じてみたい施設だろう。小さい劇場だから目の前で、しかも上から舞台が見下ろせるので、観客にとっても芝居がよく分かり見やすい。

 『眠り姫』はヨーロッパの古い民話で、そのあらすじは日本人でもかなりの人が知っている。だからだろうけれど、『眠り姫 快刀乱麻』はひとひねりもふたひねりもしてあり、芝居が始まった時は何が何だか分からなかった。コンピュータで制御されているとか、ギフトという超能力少女が登場したり、アドルフという若き独裁者やブロッケン王子は善人なのか悪人なのかよく分からないまま展開する。

 会場に入った時も気になったが、観客席は若い女性が多い。どうやら友人、知人が出演していて、その応援で観に来ているようだ。演じている劇団は名古屋で演技教室を開いているようで、出演者はこの教室の関係者である。出来るだけたくさんの人を舞台に立たせてあげたいという脚本のためか、出演者の数も多くしかもセリフの多いから、ストーリーは複雑怪奇となり、俳優たちはみな早口で、「なんだかよく分からない」感想になってしまった。

 『眠り姫』は映画にもなり、私も観たがそれは美しい物語だった。ところで『快刀乱麻』とあるのは、『眠り姫』の謎を「次々と見事に解き明かしていく」という意味で付けたのだろう。高校の国語の時間に、「回答乱魔」と答えた生徒を先生は「珍答」と笑い、『快刀乱麻』が中国の杜甫の言葉だと教えてくれた。さらに「解衣推食」と書いて、「自分の着物を脱いで人に着せ、自分の食物を人に与えることで、人をもてなす極意だ」とも言った。横道の話なのに、覚えていることがあるのも不思議だ。

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卒業旅行

2017年02月25日 15時06分22秒 | Weblog

 国家試験を終えた孫娘は翌日から次女の住む仙台に行き、帰ってきた翌日の昨日、大学の友だちとハワイへ卒業旅行に旅立った。看護師の先輩である長女から「遊べるのは今しかないから」とでも言われたのだろう。「よくお金があるねー」と聞くと、「ママバンクから無償で借りた。看護師になれたらお金を使う時間はないから、返せるとママが言ってくれた」と正直に話す。大学は卒業できても看護師の国家試験に合格できない人もいるのに孫娘は本当に楽天家だ。

 卒業旅行でハワイか、私たちの頃は卒業旅行という言葉もなかった。新婚旅行でハワイに行くようになったのは昭和40年代の後半ではないかと思う。私は大学で美術を専攻したが、油彩・彫刻・デザインのコースがあり、恩師がデザインの先生だったこともあって、デザインコースに籍を置いていた。恩師の家で書生をしていた3年生の時、先生の提案で4年生は横浜から船でマカオへの旅に出かけた。

 私は横浜まで見送りにでかけたが、来年もマカオだったらどうしようかと密かに悩んだ。旅行代を工面できる目安がなかったからだ。翌年、私たちの卒業になっても先生から何の話もなかった。先生は私のことを思って何も言われなかったのだろう。卒業制作展が終ってからだと思うが、デザインの仲間で京都へ1泊の旅に出かけた。四条河原町辺りの小さな旅館だった以外は余り覚えていない。

 高校3年の夏にぶらり旅と称して京都へ来た時は、どこへ泊まろうかとウロウロしていたら若いアンちゃんに声かけられ、案内してもらったのは駅前のひどい安宿だった。その時に比べれば雲泥の差で、お酒も飲めて料理も美味しかった。何年か前にマカオへ出かけてみて、先輩たちはこの石段を登って天主堂を眺めたのだと思った。先輩の卒業作品の中にあった天主堂がそこにあったから。

 もっと若い時にいろいろ見ていたら、人生も少し変わったのかも知れない。「遊んでばかりいて」と長女は孫娘を叱るけれど、いろんなところを知っていることは知らないことより宝ではないだろうか。さて、今晩は演劇鑑賞。どんな演劇なのか楽しみだ。

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女子大生刺傷事件の裁判

2017年02月24日 18時39分16秒 | Weblog

 酷い男がいる。音楽活動をしていた女子大生を一方的に好きになり、プレゼントした物が送り返されてきたことに逆上し、待ち伏せしてナイフで34カ所を刺した。女子大生は命こそ失わなかったが、顔にも心にも深く傷が残る重体で今も後遺症に悩まされている。その裁判で、刺された女子大生は震えながら被害者として陳述した。直接目を合わせないように、ついたてで囲まれていたとはいえ、絶対にいつか殺しに来るだろう男が怖かったと思う。

 男は初め、黙って聞いていたようだが、次第に小刻みに身体を震わせ、時に咳払いして威嚇する仕草までした。女子大生が「この間も、きっと心の中では笑っていて、反省はひとつもしていないと思います。こんな人を絶対に許してはいけない」と述べると、突然、「じゃあ殺せよ」と大声で叫んだという。裁判官の命令で被告の男は途中退席させられたが、ついたてで囲まれた女子大生の前を通った時も「殺すわけねえだろう」と声を上げていた。

 女子大生は死の恐怖が蘇り、最後まで陳述することが出来なかったようだ。「世の中に出てきてほしくない。今すぐに消えてほしい」と思うのも当然だろう。検察の求刑は懲役17年とあるから男は45歳で出所することになる。減刑があればもっと早く出てくることもある。その時、裁判が求めたように罪を償うことの出来る「普通の人」になっていればいいのだが‥。

 「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉があるが、それでも殺すことは信じられない。考えてみれば人間ほど恐ろしい動物はいない。テロなら相手が憎いという感情があるだろう。1970年代のセクト同士の内ゲバも相手が「革命の邪魔をしている」と信じていただろうし、連合赤軍の虐殺は自分が生き残りたいために仲間を殺している。戦争で爆撃機から大量の爆弾を投下している兵士は何を考えているのだろう。

 風邪薬やがん治療薬よりも、本当は心をきれいにする薬の開発が不可欠だが、そんな恐ろしい薬が生まれたら人類が消滅する時だろう。訳の分からない生き物だから人間は生存できるのかも知れない。それにしても恐ろしい事件が続いている。治らないなあー。

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刺身と野菜を買う

2017年02月23日 18時50分32秒 | Weblog

 少し元気になったので、病院に行って来た。診断の結果はインフルエンザA型だった。インフルエンザに罹ったことは無かったから、ただの風邪だろうと思っていたが、そう甘くはなかった。医者は「カミさんがインフルエンザに罹ったなら、一緒にいる人は当然なりますよ」と言う。看護婦さんが傍から「仲がよろしいですね」と冷やかす。仲がいいか悪いかの問題ではなく、生活を共にしているから感染するというだけのこと。

 「あとは他人に移さないことですよ」と医者から言われた。しかし、今日は同年者の集い(シクラメンの会)の幹事会を喫茶店で行う。今更、変更は出来ないし、私を抜きにしてやってくれとも言いにくい。皆さんには「移してはいけないのでマスクしてるけど、ごめんね」と断っておいた。先日行った結婚式場は、来年は使えない。早急に次の会場を探さなくてはならない。「三河のホテルでバス送迎付きで7000円のところがある」と、「湯の山にも送迎付きでやってくれるところがある」と、2案が出た。

 遠くまで出かけたことはなかったけれど、それもいいじゃないかというので、2案から詰めることにした。会議を終えて車に乗り込み、せっかく出てきたのだから何か美味しいものを買って帰ろうと思った。インフルエンザのためなのか、食欲が全くない。元気もなかったから、食べなくてもどうってことなかったが、美味しいものを食べれば少しは食欲も湧くだろう。料理しなくてもいいもので美味しいと思えるものは刺身がいいか、そう思ってスーパーに寄った。

 刺身だけでは物足りない。ブロッコリーとオクラと菜の花を買う。料理とは言えないかも知れないが、野菜は茹でて刺身のつまにしよう。そう考えただけでもかなりの進歩だ。「食べなければ人間は生きていけない。だから早く死のうと思ったら、食べなければいいのだ」と物知りの先輩の言葉を思い出した。逆もまた真なり、食欲がないなら食欲を増すようにすればいい。ちょっと、頭も冴えてきたような気がする。

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地域でつながる

2017年02月22日 17時03分54秒 | Weblog

 自分のブログを見て、「おかしいな」と思った。どうして19日がアップされていないのか、書いたつもりでいたけれど思っていただけだったのか。ワードの下書きを見ると確かにある。下書きが完成するともうそれで出来たような気になってしまう。いつもなら、もう一度見返すのに残念だ。今日も体調不良だから丁度いい。ちょっと古いネタだけど、今日はこれにしておこう。

 昭和19年4月から20年3月に生まれた同学年の集いを結婚式場で行ったが、やはり賛否に分かれた。女性たちは「たまにはこういうところもいいわね」と言うが、男性たちは「バイキングの食事は食べた気がしない」と不評だ。食べ放題という割には並んだ料理の数が少なかった。従業員の教育も出来ていない感じがした。ただ、結婚式場だけあって、宴会場から南国風の美しい庭が見え、「雰囲気がいい」と言ってもらうことは出来た。

 「こんなところで結婚式を挙げたい」と言う女性がいれば、ダンナのいない女性は「それが出来るのは私だけね」と微笑む。「オレなんかこの先は南無阿弥陀仏しかない」と手を合わせる男もいて、大笑いになった。「こんな風な結婚式場はなかった」と昔の話になる。結婚したのは昭和40年代で神前結婚が多かった。私たちは団塊の世代よりも若干年上の世代、子どもの頃の貧しさは体験しているが、みんな似たようなものだったから不満はなかった。それが「もうすぐ金婚式」という年代になった。

 私は結婚するまでテレビも冷蔵庫も洗濯機もなかった。洗濯機は下宿にあった共同の物を使っていた。毎日必要な物を買って食べていたから冷蔵庫は必要なかった。テレビもなく、新聞も購読していなかった。教員採用試験の他に新聞社の試験を受けた。試験が一般教養だけというので、それならチャンスがあると思ったのだ。ところが新聞を読んでいれば答えられただろうが、詳しく知らない時事問題ばかりで完敗だった。

 自営で今も働いている人もいるが、多くは退職している。子育ては終わり、孫育てで忙しい人もいる。親の介護の人もまだいるが、そろそろ自分が介護される側になってきた。それでもこうして集まれる人は元気で、何かしらボランティア的なことをしている。何かに役立つならと活動することが、自分を元気にしているようだ。核家族化を進めてきてしまった反省からか、地域につながりを持とうとしている。

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風邪を引いた

2017年02月21日 17時00分56秒 | Weblog

 風が荒れ狂っている。私の風邪は本格的で、熱はそんなにないが、咳が止まらない。カミさんの方は咳もひどく熱もあり、とうとう病院へ出かけていった。私はただひたすら寝ることにしている。食事の時間以外はフトンの中だ。居間からテレビニュースが聞こえてくる。相変わらず「金正男殺害」を取り上げている。マレーシア警察は「遺体が誰なのか確認できなければ引き渡せない」と、ごく当然のことを言っているのに、北朝鮮は「渡さないのは、韓国と結託して政治問題化しようとしている」と言う。

 金正男殺害がもし、北朝鮮以外の国の仕業であると言うなら、それを証明すればいい。しかし、まだ暗殺がこんなにも簡単に行なわれる時代だったのか。北朝鮮は人権もなければ、言論の自由も、移動の自由もない、まるで封建時代である。そんな国が長く続くはずがない。私は一日中フトンの中にいて、眠っているのか起きているのかはっきりしない夢うつつ状態にいる。すると、なぜなのか、同じような夢(?)ばかり見てしまう。自分が殺されそうになるとか、人を殺したくなるとか、そういう物騒な夢は出てこないが、どうあがいても、肩が寒かったり、胸が痛んだりする。

 そう言えば、子ども頃は熱があったりして眠っていると、急に天井がどんどん遠のいていく夢を見た。今、見る夢はパソコンで検索しているのになぜか辿り着けない。やっぱり熱があるのだろうかと計ってみるが正常値だ。青春時代の夢とか、熱烈に恋していた時の夢とか、どうして楽しい豪華ドラマのような夢を見ないのだろう。今晩は火曜日だから午後10時からのドラマ『カルテット』を見たいけど、録画してもらって体調のいい時に見た方がいいかな。あっと、そういえば月曜日に仙台に出かけた孫娘をみんなで駅まで見送った時、長女が近づいてきて、何か言いたそうだったことが気になる。「順調にいってるか?」となぜ声をかけなかったのかと悔やむ。

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孫娘の試験

2017年02月20日 17時14分14秒 | Weblog

 今朝からクシャミと鼻水が止まらない。昨夜、寝ていても背中が寒かったからとうとう風邪を引いたのかも知れない。昨日は看護師を目指す孫娘の国家試験の日。それなのに孫娘から「試験、終わったよ」とも、「まあまあかな」とも、何の連絡もない。「今は友だちと答え合わせしているのだろうから、そのうち連絡が来るよ」とカミさんを慰めるけれど、「こんなに連絡がないから、ダメだったんじゃ―ない」と勝手なことを言う。

 長女にまでメールして「帰ってきたのか?試験はどうだったのか?」と問い合わせている。挙句に「あの子はいつもすごく努力しているのに、ちっとも報われなくて可哀想」とまで言い出す。「ちょっと待てよ。その言い方では合格できなかったみたいじゃーないか。一生懸命にやってダメならしょうがない、その時にどうするか考えればいい」と言っても、心配性のカミさんは「悪いことでも考えなければいいけど」と、ますますマイナス思考になっていく。

 そんなことがあって、私は先に寝てしまったがカミさんは孫娘からの連絡をズ~と待っていたようだ。時々、「ねえ、ヤバイって言ってるよ。どうしよう」とか言って起こされるが、眠い私は「ウン、ウン」と空返事をしていたような気がする。その罰なのか、起きたら咳と鼻水が止まらなくなった。今朝になって孫娘と連絡が取れたようで、「これから一緒に行って」と言う。試験が終わった孫娘は仙台の次女のところに遊びに行くことになっているので、届け物を「持って行く」と言うのだ。

 孫娘に会う。案外元気だ。試験問題を見せてくれて、「ここは出来たけど、ここが出来なかった」と説明してくれるが、何しろ専門的なことばかりなので私たちに分かるハズもない。孫娘から聞いている限りでは何とかなったのではと思うけれど、あくまでジジババの望みでしかない。「これまでの人生で一番勉強した」と自らが言うのだから、きっと神様も認めてくれるだろう。次女のところでゆっくり休むがいい。

 すると、次女のところの5月で3歳になる孫娘から「あかふくかってきてください」と動画が届く。仙台の孫娘はどんどんオチャマになっている。長女のところの小1の孫娘は、看護師になれたら姉が家を出ていくことに抵抗があったけれど、今では「私、この部屋で一人で寝る」と言っている。いろんな夢が描けるなんて、いいなーと羨ましく思う。クシャミと鼻水は止まらなくて、鼻の周りが真っ赤になってきた。

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同じ時代を生きた

2017年02月18日 14時08分15秒 | Weblog

 NHKの朝ドラ『べっぴんさん』は子どもたちが巣立ちをする時期だった。昭和38年の春だから、私の高校卒業と同じだ。そうか、このドラマの子たちは私と同じ年の生まれか。日本が朝鮮動乱で一気に景気が良くなり、活気に溢れ、都会に出ればアイビールックの兄ちゃんを見かけるようになった。私の街は田舎だったから、朝ドラのように高校生の男女ふたりが喫茶店に行くなら、たちまち不良扱いだった。

 それでも校門の外で待ち合わせて、一緒に帰宅する男女もいたようだから、世の中は少しずつ変わっていた。高校の時に見た映画『ウエストサイド物語』に触発されて、我が街版の脚本を書いた。工場が建ち、新しい家が増え、地元の若者との間に軋轢が生まれる物語だ。しかし、映画以上に展開できなかった。それに、どこで誰が演じるのかと現実を考えると何も思いつかなかった。こんなものを書いて何になるのかという気持ちになって破棄した。

 今晩は、昭和19年4月から昭和20年3月に生まれた人が集まる懇親会を行う。もともとは社会福祉協議会の呼びかけで発足した会で、私たちがその第1期生である。中心になってやっていた人が何年か前に亡くなり、役員を選挙で決めることになった。マズイなと思ったが会長に選ばれてしまった以上とことんやるしかない。初めは地元の人たちが多かったけれど、今では私のようなヨソ者が増えた。引き受けた当初は会の目的を考えたけれど、毎年こうして集まりおしゃべりして酒を酌み交わす、それでいいのだと今は納得している。

 60歳から始まったから今年で一回りしたことになる。そこで会場を結婚式場に変え、遠い昔を思い出し、懐かしんでもらうことにした。それが吉と出るか凶と出るかは分からない。御膳立てする側は文句を言われて当たり前、次回に活かせばいい。同窓会もそうだけど、亡くなる人はあっても増えることはないから、同じ時代を生きてきた者同士、「次回も元気に会いましょう」が合言葉である。

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