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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

男が求める女

2009年11月30日 22時30分20秒 | Weblog
 私が「34歳の結婚詐欺師なのか分らない女と、もうひとり35歳の元ホステスの女は、ともに小太りのブス女と週刊誌の見出しに書いてある。それでも男たちはお金を出してもいいと思ったのだから、やっぱり何か男を惹きつける魅力があるんだよね」と、カミさんに言うと、「ヘンなことに興味があるのね。私は、(イギリス人女性を殺したとされる)この若い男の方に興味がある。どうして何も食べないのか、どうして何も話さないのか、不思議?」という答えが返ってきた。

 千葉県のこの事件は、いったい何なのかということよりも、確かに彼はなぜ何も話さないのか、どうして食べようとしないのか、そのことの方が引っかかる。それはこの若い男が何を考えているかに尽きる。ところで、30代の小太りで美人でもない女性が男どもを手玉にとった手練などはどうでもいいが、女に貢いだ男たちには興味がある。週刊誌の見出しでは、女は料理上手だという。私が子どもの頃は、女が料理上手なら家庭は円満と言われていた。うまい料理を食べたいために亭主はいそいそと家に帰るというのである。

 いくら外食産業が盛んでも、やはり男は女の手料理に釣られたのだろうか。お金を貢いだ男たちは40代より上だったから、意外にも世話焼きタイプの女性には弱かったのかもしれない。「あなたのために作ったの」とか言われて甘えられると、男たちは女をこの上もなくいとおしく思ってしまったのかもしれない。何でもしてあげたい。お金であろうと衣服や宝石であろうと、相手が喜ぶ顔が見たかったのだろう。男が求める女はどういう女なのだろう。

 今日は『太宰治生誕百年』の生涯学習講座の第2回目だった。『斜陽』は『ヴィヨンの妻』と『おさん』の間に発表された作品という。ヴィヨンはフランスの詩人であり犯罪者でありペテン師である。おさんは近松門左衛門の『心中天網島』に出てくる紙屋のしっかり者の女房の名前だ。太宰のおさんもしっかり者で、夫が革命だ破壊だ愛だと言って涙を流すのを、「かなしくて美しいもののため」と理解し、「夫のつらさは、よくかわるけれど、しかし、私だって夫に恋をしている」と言う。おさんと夫の会話は実に軽妙で、それでいて奥が深い。

 ところが、「夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから三日後に、あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。」とあり、夫の手紙を受け取って「男の人って、死ぬる際まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄を張って嘘をついていなければならないのかしら」と冷静だ。ヴィヨンの妻のさっちゃん(これは心中した山崎富枝のあだ名だ)は、もう少し下町っぽい女性だが同じようにしっかり者である。夫は貴族の出身でもだらしなく浮気ばかりしている作家である。さっちゃんは雨宿りさせてあげた青年に「けがされました」が、「うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店に出かけました。」そして、最後に「人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言う。

 講師の先生は「女は怖いですね」と言うけれど、女の方が優しくて現実的だ。男はどうも「革命だ破壊だ愛だ」と言うだけで、現実が見えない。だからこそ男と女は釣り合いがとれて、うまくやれるのかもしれないが‥。
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15歳の秋はどんよりと重苦しい

2009年11月29日 21時08分13秒 | Weblog
 とんでもない日曜日になってしまった。中学3年の孫娘は金曜日に試験が終わったので、今日は私たちジジババと彼女が大好きな井上真央さんが出ている映画『僕の初恋を君に捧ぐ』を見に行く予定になっていた。ところが昨夜それも午前1時頃に、「お腹が痛い」と言い出した。確かこの子の母親である長女も、これくらいの歳の時に虫垂炎にかかったことがあった。「百草丸を飲んでもいいか?」と言うので、「かまわない」と答えた。すると、「薬を飲んだら吐いてしまった」と言う。

 看護師である母親に電話をしたようで、長女が飛んできた。やはり虫垂炎を疑ったようで、すぐに自分が在籍している病院へ連れていくと言う。カミさんと長女とで孫娘を抱えて、病院へ出かけていった。長女は今日、横浜で行なわれる学会へ出席すると言っていたので、私は朝6時に起きて、駅まで送ることになっていた。そこでとりあえず、私は家で寝かせてもらい、どうするかはまた連絡するということになった。

 午前3時過ぎに出かけていったのに、帰って来たのは午前6時半だった。横浜行きはなくなったのかと思っていたが、午前11時に「これから駅まで送って欲しい」と電話が入った。長女夫婦はダンナが開店した音楽スタジオに行っていて、午前1時過ぎに帰ってきたばかりだと言うことだから、ほとんど眠る時間もないままに動き回ったことになる。車で行けば、往復2千円の高速代ですむかもしれないが、新幹線で出かけることにしてくれたのでホッとしている。

 12月で5ヶ月となる赤ん坊は母乳で育てているので、赤ん坊を残して長女だけで行くことは出来ない。どうやっているのかわからないが、結局ダンナも一緒にいなくては赤ん坊と夫婦の生活は成り立たない。15歳も年上の孫娘だから、その辺のことは頭では理解できているのだろうけれど、母親を失ったような気持ちになるのかもしれない。特に昨日は、自分の父親と久しぶりに会い、一緒に食事をしたこともあって、彼女の心の中の葛藤がお腹に大きく作用したのかとも考えられる。

 私もどちらか言えば、緊張するとお腹をこわすことがある。以前は別にどうっていうことはないのに胃潰瘍になって、医者から「職業病ですよ。かなりストレスがありますね」と指摘されても合点できなかった。社会的な責任や時間に追われることが無くなってみると、胃の痛みからは解放されてしまった。目に見えないところで、身体は正直に反応するものかもしれない。

 孫娘は眠くないと言っていたのに、ずっと眠り続けている。何としても良い成績を取らないと自分の行きたい高校へいけないという重荷、試験の最後の日に教育講演会があり、その講師へのお礼の言葉を、生徒を代表して述べるようにと言われたことの重荷、妹が生まれたことを父親に知らせたくないとする重荷、15歳の晩秋は彼女には今日の空のようにどんよりと重苦しいのかもしれない。
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松たか子の『sisters』

2009年11月28日 21時46分24秒 | Weblog
 今朝、何気なくつけたテレビはW0WOWで、松たか子主演の演劇『sisters』を放映していた。見始めたところが余りにもショッキングな場面だったので、結局それから30分余り、幕が閉じるまで見てしまった。新聞で見ると午前5時40分からの放映になっている。随分長い舞台であるのに、その終わりがけを見ただけなので、どんなストリーなのか、どんな役柄なのか、よくはわかっていない。

 けれども、凄まじい舞台であった。松たか子という役者は歌舞伎役者の子どもで、テレビ・映画や演劇に出ていることは知っていても、その演技力がどれほどのものなのか、注意して見たことはなかった。私の中では古い女優だが十朱幸代に似た人という印象しかなかった。今、上映されている太宰治原作の映画『ヴィヨンの妻』で、「妻役は松たか子しかいない」と映画監督が指名したと何かに書いてあったことを思い出す。

 舞台に水が流れてきて、なぜそうするのかは分らないが、確かに水が流れてくることで、異様な雰囲気が漂っていた。松たか子の演技は迫力に満ちていた。長いセリフが完全に彼女のものになっていた。瞬き一つできないくらいに舞台に引き付けられた。彼女は大人はというよりも男は(?)、子どもあるいは女(?)を支配するファシストだと言う。妹あるいはもう一人の彼女である女は、男と女の愛の形にはいろいろある。人にとやかく言われることはないと言う。

 その妹の父親は「出会いはどこにでもある。どこでどんな人に出会い、恋をして愛し合うのに、ルールなんてものはない」と言う。どうも、この父親と妹は実の親子だけれど、何時しか愛し合う仲になっていたようだ。愛し合うということは、互いに必要とし合っているということだ。そこには他の人が入り込む余地などない。松たか子は妹にあなたはあの男に利用され洗脳されているのだと迫るが、父親と妹は身ごもったことを知り死んでいく(?)。「あなたたちは本物だったのね」と最後に言ったような気がした。

 朝からしんどい舞台を見てしまった。午後になって、試験が終わった中学3年生の孫娘が井上真央さんの載っている雑誌を買って帰ってきた。「少年サンデー」は戦う場面が多く、リアリティに欠けて面白くなかった。「少女コミック」は恋愛ものばかりで、ちょっとエロチックで、女の子はこんなものを読んでいるのかと気になった。瀬戸内寂聴さんが「マンガでもいいから本に親しんで」と言っていたけれど、女の子はこんな風な危ない恋愛に憧れているのだろうか。

 出会いはどこにでもある。けれどもそれを運命にするか否かは愛の深さだろう。じゃあ、愛の深さとはどんなものなのだろう。夜回り先生の水谷修さんは「みかえりを求めない愛」を説いていたけれど、求め合うからこそ愛し合えるのだろう。そして愛し合うからこそ相手を大事にできるのではないだろうか。
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病院の待合で太宰治を読む

2009年11月27日 19時49分46秒 | Weblog
 病院で順番が回ってくるまで、新潮社版の『ヴィヨンの妻』を読んでいた。たかが検査のために貴重な時間を無駄にしたくないためである。こんな風に書くと、物凄く充実した毎日を過ごしているようにみえるけれども、実体はグダグダと過ごしている。そうではあるが、病院の待合の時間ほど馬鹿らしい気がするものはない。それに知り合いでもいれば、「どうしました?」「歳なのですかね!」などと、しゃべりたくもないのに話さなくてはならない。しかし、読書に夢中になっていれば、相手も遠慮してそんなに話しかけてはこない。だから、決してよそ見などせずに、一心不乱に読んでいる姿を見せておくようにして読む。

 私は中学・高校の頃、全く勝手な思い込みだけれども、日本人の意地汚い島国根性に自分が染まらないために、日本人の小説は読まないと決めていた。そしてまず西洋人の心の支えであるキリスト教を知ろうと思った。それから、欧米人の小説を読むことで、違う日本人を目指した。この歳になってみると、結果的には自分が嫌っていた日本人というものは、日本人のほんの片面でしかない。それに日本人に流れている気質は、どう逃れようと日本人である私の中にある。太宰治の小説は高校生の時に、無頼漢という言葉に引かれて、『人間失格』を読み、粋がっていたように思う。

 新潮社版の『ヴィヨンの妻』は、太宰治が昭和21年から23年に書き上げた作品が8編収められている。どれも短いので、あっという間に読める。小説なのだから虚構であるはずだけれど、たとえば『家庭の幸福』では、「主人公の名前を、かりに、津島修治、とでもして置こう。これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである」と書いている。つまり津島修治という役人の話なのだとわざわざ断っているのだ。それくらいどの作品も太宰治の日常を描いた小説である。

 太宰治の作品にキリスト教の聖典である聖書が、題材につかわれているのはどうしてなのだろう。太宰の生き方とか考え方とかにどこかで影響しているはずだ。『父』では、冒頭に聖書の「創世記」の「義のために、わが子を犠牲にする」アブラハムを持ち出している。「義」に生きる父に対して、小説では、「私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか」というような、どうしようもない小説家を描いている。どの小説に出てくる男も、飲んだくれで女にだらしがない。女にだらしがないというよりも、女に救いを求めているといった方が正しいかも知れない。

 太宰の名前の由来は、「大宰府から」と先生は説明してくれたけれど、私はこの8編の小説を読んで、ますます名前の由来は「堕罪」にあると思った。
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税収に合わせればいいのではないか

2009年11月26日 20時55分22秒 | Weblog
 昨夜のテレビニュースでも、今朝の新聞でも、「日本の頭脳」が怒っていた。事業仕分けで科学技術関連の予算に対して厳しい判定が出たことで、ノーベル賞受賞者の皆さんが怒りの声を上げたのだ。次世代スーパーコンピューターで世界一を目指すとの官僚の説明に、民主党の蓮舫議員が「世界一でなくてはダメなのですか?2位とか3位ではどうしていけないのですか?」と切り込んでいたことを思い出す。「日本の頭脳」は「世界一を目指してもおそらくなれないが、そういう意気込みでやらないと、2位3位にもなれない」(利根川進氏)。

 野依良治氏は科学技術関係予算の国際比較の数字を示して、「中国や韓国だけでなく、欧米との格差が広がる一方で、これでは全く戦えない」と訴えていたし、「次世代スパコンは開発した国から買ってくればいいという人がいるが、不見識だ。それではその国に隷属することになる」とも言っていた。科学者たちやその団体は、「研究・開発が遅れれば、取り返しの付かない事態になる」「将来に禍根を残すことのないようにすべきだ」「国家の存亡にかかわる」と、強い口調で予算の削減に反対していた。

 誰でも自分の関係する予算が削られれば面白くない。それは道路建設だって、文化活動だって、福祉や医療だってみんな同じことだ。「いや、違う。国の存亡にかかわる」「将来に禍根を残す」と、どの事業だって言えるはずであるし、言えないような事業なら予算など組まれるはずもない。事業仕分けは余りにも拙速すぎると批判がある。批判があることと事業仕分けを公開で行なっていることの意義を考えるなら、私はこの手法は大切だと思っている。論議の材料やかける時間や進行方法や諸々の問題は手直しすればよいけれど、「やめてしまえ!」ということにならないようにしなくてはいけないと思う。

 今、日本の税収は40兆円ほどしかない。それなのに100兆円もの事業の予算が上がっている。削る以外にないのではないか。自分の家のやりくりとして予算を考えてみればいい。40万円しか収入はないのだ。それなのに家族全員の希望を実現しようとすると100万円もかかってしまう。そこで堅実な人ならば、支出も40万円にするだろう。まず、どうしても必要な家賃や水光熱費や授業料を差し引き、食料費や衣服費はいくらかでも抑えようと考えるはずだ。趣味や娯楽にかかわる費用はとりあえず0円にするだろう。それでもこの家庭は40万円も収入があるからまだよい方だ。これが20万円しかないのであれば、もっとギリギリの生活になるだろう。

 「日本の頭脳」も予算の配分にばかり目がいっているけれど、収入がなければ支出を抑えなくてはならないのだから、国の予算を根本から考えて欲しいと思う。道路建設やダム建設を止め、それでもまだ足りないのであれば、科学技術関連予算での優先順位を示して欲しいと思う。人件費についての踏み込んだ議論はないけれど、国会議員や高級官僚、すべての地方の首長や議員の人件費を30%以上カットしても、これらの人たちは生活に困ることはないはずだ。また全ても公務員の手取り賃金を10%カットしても生活に支障はないだろう。人件費の削減こそが予算審議のカギではないだろうか。まず、襟を正すべき人から手本を示すべきだろう。
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再び病院へ行く

2009年11月25日 21時33分49秒 | Weblog
 長女は「午前中は出かけるから」と言っていたので、空いているのなら検査を受ける手続きに行って来ようかと、先日は保険証を忘れたために帰ってきてしまった病院へ出かけた。よく考えてみれば私は頑固で短気で自分勝手だ。保険証を忘れたのなら、取りに帰ればすむのに、「もういい。やめた」と言い切ってしまった。受付嬢だって感じが悪かったはずだ。どうしてあんなに腹が立ってしまったのだろう。あの時は、これは神様が診察など受けなくていいというお告げだなどと、勝手に解釈して、神様も驚き立腹されたに違いない。

 今日は観念して出かけたけれど、駐車場に入る時から満車で待たされた。ところがどういうわけか、駐車場の係りの人が「すみませんね。しばらくお待ちいただけますか」と声をかけてくれただけですっかり落ち着いた。総合受付もスムーズに通過することができた。「では、内科の前でお待ちください」と言われたが、そもそも内科がどこなのか新参者には分らない。分らないのでムッとした気分がまた襲ってきた。皆さんが行く方へと歩いていくと、内科の中央受付があった。そこで、総合受付からの用紙を出すと、ここの受付嬢は「申し訳ありませんね。今日は大変混み合っていまして、1時間ほど後にあるかと思います。右の6番から8番の前でお待ちください」と、言ってくれた。

 心配りのある言葉かけに、「やはり人間に必要なのは言葉だよ」などと納得して、ここは読書の時間を与えられたのだと思って太宰治を読む。文庫本をほとんど1冊読んでしまった頃、名前を呼ばれた。医師の名札を見て、ああ、この病院の若先生の奥さんかと知る。大変な病院に嫁いできて、ご苦労も多かろうなと勝手なことを思っていると、レントゲン写真を見て、「痰は出ますか?出ることはありませんか。急にそう言われても無理ですよね。CTを撮りますので、この後何時にするか決めてください」と言われる。痰?そうか、私は中学・高校からの友だちと同じように肺の白い点を腫瘍と思っていたけれど、結核が疑われているのかと知った。

 結核と言えば、文学青年がなる病気である。なんとなく嬉しくなったが文学老年では先が無いかとガッカリする。もし仮に結核だったとしても、ガンのように肺から肝臓や脳に転移し、あっという間に亡くなったとはならないから、ジワジワと長い時間がかかるのだろうか、などと勝手な想像をしていた。それからまた、長い時間待たされて、CTの予約日を決める。その担当の看護師さんが可愛い人でよかった。「検査結果を聞きにみえる日は何時がよいですか?」「えーと、何時でもいいですが」「そうですか、先生がみえる日が12月は‥、8日でいいですか」「はい、結構です」。

 後で、8日はNPO「おたすけ」の1泊忘年会の翌日と気付いたが、可愛い看護師さんには何も言わなかった。けれども、事務的な受付嬢には、「8日は一番最後の時間にしてください」とお願いした。何事も雰囲気である。ムカッと来るような人には皮肉を言えるけれど、可愛い人には「ええ、いいですよ」と答えてしまう。それが人の常というものだと太宰治も言ってなかっただろうか。会計で4,780円の数字を見て、若先生の嫁さんも大変だなと思った。
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ゴミ屋敷問題

2009年11月24日 20時27分52秒 | Weblog
 先日、NHKテレビで「ゴミ屋敷問題」を取り上げていた。私は議員だった時、自分の議会だよりを全戸配布するために、1軒ずつ郵便受けに入れて回った。私の町の中にも4軒の家が、足の踏み場もないくらいの「ゴミ屋敷」だった。夏はかなり悪臭が漂いとても生活できそうにないように思えたけれど、家の中の人はいっこうに構わない様子だった。

 テレビでもそうだったけれど、「ゴミ屋敷」の住人は男女を問わず、たいてい高齢のひとり暮らしである。いわば世間と隔絶したところで生きている。おそらく誰も尋ねてくる人がいないのだろう。ところが、マンションやアパートなど、1戸建てでないところでも、「ゴミ屋敷」は意外に多く存在するようだ。

 テレビで知る限りでは、公務員や会社員あるいは看護師の人もいた。こちらも男女の区別はないようだ。ただし、マンションやアパートの場合は若い人が多い。ビックリしたのは、医者の奥さんで、ゴミの中で子どもを育てていた。医者であるダンナの方は何とかしようとしたけれど、奥さんは「自分でもどうしようもないの。どんどん物が溜まってしまうの」と話していた。

 1戸建ての場合は、周りから目立ってしまい、ゴミ屋敷がよくわかる。高齢者が多いのは、地域とつながりがなく、明日への希望がないためのようだ。中学校の先生だった人は、子どもと暮らすために2所帯住宅まで建てたのに、子どもは来ず、そればかりか奥さんも出て行ってしまい、「何もする気がない」と言っていた。教え子がやってきて、「片付けを手伝います」と言うけれど、断ってしまう。ご近所に説得されて、家の周りのゴミは無くなったけれど、家の中はまだゴミが山のようにあった。

 「単にゴミを片付ければよいというわけではなく、引きこもりやホームレスと同じ社会問題」と解説していた。確かに明日の希望がなければ、きれいにしたいという気力もなくなっていくのだろう。子どもたちが来るわけでもなく、誰かが訪ねてくるわけでもなければ、ますます何もしたくなくなるのも無理はない。テレビでご近所の皆さんが全部片付けないのは、そうすることでつながりを残しておくためだと言っていたが、なるほどと思った。

 ところが今日、長女が「ちょっと手伝いに来てくれない」と言う。長女は高齢出産のせいなのか、大腿骨頭部萎縮症となって長い間歩けなかった。最近ではまだぎこちないとはいえ、松葉杖に頼ることなく短い距離なら歩けるようになった。そこで、家の中が気になるので片づけをしたいから手伝って欲しいというのである。

 ダンナは仕事人間だけれど、なかなか整理整頓が苦手のようだ。忙しいこともあるし、アイディアマンなので、思いつくとつい熱中してしまう。気が付けば周りにやたらと物が溢れていることになってしまうらしい。そこで、あちらこちらに置かれたものを必要な物とゴミとに区別してもらい、ゴミは燃えるもの、燃えないもの、プラスチックの3種類に分けて袋に詰めた。ダンボールだけでも4束もあった。ヤレヤレである。しかし疲れたなあー。
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河村名古屋市政は日本の未来なのか

2009年11月23日 22時47分43秒 | Weblog
 民主党が政権をとって、今日で68日目だそうだ。そんなまだ出来たての政権に多くを期待する方が間違っているのかもしれない。それでも国民の多くから民主党に寄せる期待は大きいと思う。新聞報道によると、かなり民主党は揺らいでいる感がある。私は大いに揺らいだ方がいいと思っているけれど、国民の多くはそんな民主党に危機を感じているようだ。

 私は小沢一郎氏に会ったこともなければ、小沢氏が書いた本も読んでいないので、彼を批判することも評価することもできないが、もし仮に報道されているように、国会運営が全て小沢氏の指示で行なわれているとしたなら、民主党の先は無いなと思う。共産党や公明党なら上の決定に下が従うのは当たり前のことなのだろうけれど、烏合の衆である民主党がたった一人の考えに全ての人が従うことなどあり得ないと思っていた。それが事実なら、民主党に期待することは間違っていると思う。

 土曜日の朝日新聞のbe版に山田厚史記者の執筆による「民主党の政策はどこへ」という記事が載っていた。山田記者の視点は「貧しい家庭も金持ちも、等しく政府が最低保証する“ユニバーサリズム”の考えだ。(略)すべての人が対象となるユニバーサリズムは新自由主義に対抗する理念として注目されている」ところにある。「ユニバーサリズムは、子育て、教育、医療、介護、年金といった暮らしの安心にかかわる分野で、基礎的なサービスを政府が保証する。失業・犯罪など社会不安は財政や生活費を膨張させる。“支え合い人を孤立させない社会”が結果的に社会コストが少なくてすむという考えだ」。

 民主党が一律支給にこだわるのは、「負担だけ負わされる金持ち層は不満が残り、給付を受ける側も二級市民に見なされる」からだと解説している。そこで、課題はやはり財源だそうだ。そもそも収入がないのに、収入の2倍の予算を計上することは異常ではないのだろうか。確かに国は国債の発行という手があるが、収入と同額の国債を発行し続けて、本当にこれでよいとは思えない。こんな風になぜ借金を続けていくことはできることなのか、経済が分らない私には理解できない。

 民主党が事業仕分けで予算をいくら削減できるのか、見ている限り限度がある。そうなれば当然、不足分は国債でまかなうことになる。これでは自民党の政治と同じではないのか。余分な事業は確かにある。官僚たちの天下り先などは無報酬で働いてもらってもいいはずだ。そんな風に国民の血と汗である税金をいとも簡単に使ってもらったのでは、収める方は堪ったものではない。

 名古屋市長の河村さんが怒っているのも、市民の税金が余りにも軽々しく使われてしまっているからだ。名古屋市議会の議員は年間2,350万円を受け取っている。普通の市民の収入は年簡300万円か400万円というのに、余りにも多すぎないだろうか。税金の使い道を決める議会の議員たちが、自分たちにばかり都合のよいことを優先していたのでは市民は絶対に納得しないだろう。

 名古屋市の動きが今後の日本を決定するのだろうか。
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慣れは恐ろしい、次第に当たり前の感覚になる

2009年11月22日 22時13分09秒 | Weblog
 官僚だった人が退職して次の組織へ天下り、年間1千何百円を受け取る。官僚を退職した時は、何千万円もの退職金を受け取っているのに、さらに何年間かこれだけのお金を受け取り、そしてまた退職金も手にする。これは一部の高級官僚だけのことだというかも知れないが、庶民の常識では考えられない。中国でも日本でも、前の国を倒して新しい国が生まれる時は、官僚たちも新しい国家の建設に燃え、清廉潔白な人たちが多い。それが長く続くようになると、どんどん腐敗していくのはなぜだろう。国の役人たちが、いろいろな組織を作り、その仕事のベテランだからと、作った役人を組織に天下りさせる。在職中にどれだけそうした組織を作ったかを役人たちは競うと聞いたことがある。それが役人の実力評価なのだそうだ。

 国民のためにあるはずの行政が、それに携わる者によって食い物にされている。民主党はこれではダメだと、官僚指導から政治指導へ切り替えると主張している。行政刷新会議の事業仕分けはその手法の第一歩というわけである。私が事業仕分けの成果を見守りたいと書いたところ、 “杞憂の君”という方から、「事業仕分けという作業は文化大革命と同じだ。金の卵を産む先端技術産業が粛清されかかっている」というコメントをいただいた。私はそれでどこまで実現できるかは別にして、国民の視点で事業を見直すことには賛成であるし、大事なことだと思っている。

 社会はいろんな人がいて、自由に意見を述べることができるシステムが一番大事なことだと思う。自由にものが言えない独裁を容認することは決してない。上で決まれば何の躊躇もなく下が従うことにはヘドが出る。けれども、みんなで話し合って決まったならば、たとえ悪法であっても従わざるを得ない。そんな場合でも、誰もが自由にダメだといえる社会でなくてはならない。

 今日の「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」で、ある議員が彼の属する議会の会派が政務調査費で視察に行った先を一覧表にしてきた。沖縄や北海道、あるいは九州や東北に集中している。視察先だけの表だけれど、宿泊場所が分ればもっと分りやすいと思った。政務調査費は会派に支給されることになっているために、ほとんどの会派が視察の名目で懇親旅行に使っている。庶民の常識では考えられないことだが、これも国会議員に政務調査費があるのだから地方議員にも設けるべきだとつくられたものだが、どう使ってよいのかわからないのが実情だろう。でなければ、こんなにも毎回、北海道や沖縄に視察に行く必要はないはずだ。

 慣れとは恐ろしいもので、次第に当たり前の感覚になる。政務調査費はあくまで調査に使用するべきものが、懇親旅行の費用となっている。これらは全て税金である。官僚の天下りがおかしいのと同様なことが地方でも行なわれているし、それを追求しなければならない議員も税金で温泉に浸かっているのだ。まずは、地域の議員がどのように政務調査費を使っているのか、あなたのところでも調べてみると面白い結果が生まれるだろう。
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合性の悪い病院

2009年11月21日 21時24分05秒 | Weblog
 一般論というよりも私の個人的な経験論だが、夏は暑さのために何もできないが、冬は行動的になっているとばかり思っていたが、どうも年齢を重ねてくると、非行動的なようだ。冬の初めは、フトンを出ると途端にハクションが始まり鼻水が止まらなくなる。すると身体が重く、やる気がなくなる。昼までには身体が外気に慣れてくるのか、クシャミも鼻水も止まってしまう。外気に対して敏感に反応している証拠のようにも思うけれど、それならもっとすばやく対応してもよさそうなのに、これは鈍い証拠ではないのかと思う。

 今朝は、先に行なった健康診断で要治療の通知をもらったので、精密検査を受けようと街で一番大きな病院へ出かけた。肺のレントゲン検査で右上部に小さな白い点がある。肺がんなのかとちょっと嬉しいような、不思議な気分になった。中学・高校からの友だちがやはり肺に腫瘍があり、それですっかり落ち込んでいたのに、私はいつの間にか胃潰瘍も無くなり、いたって健康なので、そろそろ自分にも何か衝撃的な病魔が現れてもいいのにと思っていた。病気になること事態を歓迎しているわけではないが、ジワジワと多方面から死に追いやられていく実感が湧いてくるような気がしたのだ。

 通知とレントゲン写真とを持って、病院へと出かけた。日頃、通っている病院は医院の先生に診てもらったところ、「たいしたことではないと思うけれど、一度CTを撮ってもらうといいでしょう」と言う。ならば、やはり大きな病院へ行くしかない。でも、この病院は滅茶苦茶混む。昔、まだこの病院がそれほど大きくなかった時に、胃が痛くなって通ったことがあったけれど、余りにも待ち時間が多すぎて、結局やめてしまった。院長に600字ほどの原稿を書いてもらったことがあり、その原稿からにじみ出てくる院長の人柄が好きだったけれど、あの混雑は我慢ならなかった。

 案の定、受付は混雑していた。病院が新築されて初めて診察を受けるので要領が分らない。私の前の人はイスに座って話していたので、私はその後に立って順番を待った。ところが私の隣の人は新しくやってきた受付嬢に用件を話している。アレッ、こちらでもよかったのかとそちらへ移るが、もうふたりの人が並んでいる。「私の方が先に並んでいたんですよ」とは言いがたいので、その人たちの後に並ぶ。初めて診察を受ける人は誰でも長々と説明しているし、受付嬢も問診票に書き込んだりしているので、やはり時間がかかる。

 そうやって、やっと自分の番が回ってきた。一通り説明し、精密検査を受けたいと申し出る。「保険証はお持ちですか?」と聞かれ、ギクッとした。通知書やレントゲン写真は持ってきたのに、肝心の保険証が入っていない。「すみません、もう一度改めて来ます」と言って、そそくさとその場を離れた。どうもこの病院とは合性が悪い。いや、神様が精密検査などは不要と暗示していたのではないだろうか。これといって、痛いとか苦しいとかがないから、真剣に病気のことを考えることがない。よく考えても、病気とは思えない。来年まで様子を見た方がいいような気がしてきた。
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