友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ポピュリズム

2012年11月30日 21時00分16秒 | Weblog

 朝晩の冷え込みが厳しく、紅葉が美しいと感心していたら、11月も今日で終わりである。明日からはもう冬か、そう思うといっそう寒くなった気がする。ルーフバルコニーで鉢の土の入れ替えをしていると、平日なのに政党の街宣車が「皆さんのご支持を我が党にお願いします」とやって来る。「約束は守ります」とか、「改革を行ないます」とか、相変わらず「何をどうするという内容がないまま」に、政党や候補者の名前ばかりを流していく。

 滋賀県知事の嘉田由紀子さんが脱原発グループをまとめるために、『日本未来の党』を立ち上げた。安倍自民党総裁に言わせれば、「トイレに行っている間にまた新しい政党が出来た」ことになるが、当然そうなるだろうと予想しなかった安倍さんの政治感覚が鈍いということだろう。15にもなる小さな政党が右往左往していたのでは有権者はどうしたらよいかと迷うだろう。そうすれば死票が多く生まれる。これを食い止めないと脱原発は遠のいてしまう。

 さらに、議員数では多いけれど、選挙になれば半数も当選できないであろう『生活が第一』は嘉田さんと組むことで小沢色を薄める必要があったと思う。ここで小沢さんが「引退」を表明すればもっとよかったのかも知れない。「いろんな考えがあって違うのに、ひとつにまとまって何ができる。政治は実行することだ」と『維新の会』の橋下さんは言う。『維新の会』が石原さんの『太陽の党』と合流して、それまで掲げていた「維新八策」は吹っ飛んでしまったのに。

 それでも橋下さんの演説は迷いがない。合流する前は「政策が第一」と原則に立っていたけれど、合流してしまうと「政治は実行することです」と変わった。石原さんが「脱原発はしない」と言っているのに、橋下さんは「脱原発を目指す」と演説している。橋下さんは有権者に受けるだろうと思われることをまず大声で言う。脱原発も脱官僚も議員定数の削減など、国民の気持ちを代弁するようなことを必ず言う。

 橋下さんの政治手法を「ポピュリズム」という。今日の朝日新聞に北海道大学准教授の吉田徹さんへのインタビューが載っていて、ポピュリズムを解説していた。ちょっと引用すると、「政治によって『代表される人々』と、社会にいる『実在の人々』との間には必ずズレが生じ、それが『自分は誰にも代表されていない』という政治不信を生みます。ポピュリズムはそのズレを修正する自己回復運動のようなもので、民主政治に不可避なもの」と言う。

 それではどうしたらよいのか。吉田さんは「ポピュリズムを徹底すること。(略)どんな社会に住みたいのか、どんな政治を望むのか、一人ひとりが突き詰めることから始めるしかありません」と結論付ける。そして政治のリーダーは企業経営者イメージではないとして、「政治のリーダーとは人々を導く上質な『物語』を語れる人です」と言う。37歳の准教授は私の考えに近いなと勝手なことを思った。

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不完全な男と女

2012年11月29日 17時16分38秒 | Weblog

 カミさんの知り合いのダンナが定期健診で引っかかり、ガンの摘出手術を受けた。「元気に退院できたならよかったじゃあないか」と言うと、「それがねえ、奥さんはご主人にどう声をかけたらよいのかと悩んでいるのよ」と困っている。「どうして声をかけるの?」と聞くと、「だって、励ましてあげるのは妻の務めでしょう」と殊勝なことを言う。「滅多にはない病気だそうよ。それを乗り越えてやっと退院したのだから、奥さんとしては心配でしょう」。

 だからどうするというのだろう。「今日はどう?身体の具合の悪いところはない?」、「調子はいい?」、「どこか痛いところはない?」、「顔色悪いけど、大丈夫?」、「疲れたりしていない?」、「無理しないでね」とか、毎日こんなことを聞かれたのでは、それだけで病気になってしまいそうだ。自分だって医師から「手術はうまくいきました」と言われても不安に思っているのに、こうも毎日、「大丈夫か」「無理しないで」と言われ続けると余計心配になるだろう。

 ちょっと品のない話で申し訳ないが、セックスの最中に女が「ねえ、入っている?」と男に聞いた。男は途端に萎えてしまった。挿入できていたし、これからピストン運動にかかるところだったのに、それってオレのは小さいってことなのかと思ってしまったのだ。男はこれくらいデリケートなのだ。言葉は励ましになるけれど、一刺しの武器にもなる。「ああ、嬉しい。あなたが好き」とウソでも言ってくれれば、男はさらに女を愛しく思うだろう。

 「何も言わない方がいいのじゃないの」と言うと、「それでは心配していることが伝わらないじゃーない」と否定する。「僕なら、病気のことには一切触れずにいて欲しいけど」。「それはあなたが当事者でないからそんなことを言うのよ。ご主人には奥さんの励ましが一番大事なのよ」。「そんなものかなあー、それで何と言ってあげるの?」。「その言葉が難しいから悩んでいるのよ」。それならそれで、悩んでください。私はやはり何も言わない方がいいと思うけど、そうでないのかも知れない。

 余りに気を遣われると、重苦しくなるものだ。冗談でもいいから、「ねえ、私も浮気するからあなたもしていいわよ」とくらい、笑って言ってもらった方が気持ちは楽になる。心配してくれるのはありがたいけれど、心配されすぎると、本当は治らない病気なのかと勘ぐってしまう。夫婦は多少抜けているくらいの方がいい。トルストイは言う。「この世には不完全な男と不完全な女しかいない」。

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「優しさの塊」

2012年11月28日 18時31分43秒 | Weblog

 高校3年の孫娘は友だちから、「優しさの塊(かたまり)」と呼ばれているらしい。頼まれると断れない、それは優しさであるけれど弱さでもある。先日も芸術大学のことで電話してきた。どんな特長があるのか、卒業して学校の先生になれるのか、先生になれなければ他には何になれるのか、学費はいくらか云々‥。私がわかることは答えたけれど、「インターネットで大学を調べればもっと詳しく出ていると思うよ」と付け加えると、「ああ、そうか、ありがとう」と呆気ない。孫娘の後から女の子の声がしていたから、その子のために大学を探しているのだろう。

 おせっかいなくらいの世話好きで、「もう少し、自分のことに集中したらどう」と言えば、「してるよ」と答えるけれど、私にはとてもそうは見えない。そのくせ自分のことになると優柔不断で、どうしようどうしようといつも迷っている。実のところ誰でもそうなのかも知れないが、外ではすごく調子がよいし、おせっかい過ぎるだけに、より目に付くのかも知れない。意地悪な性格よりも「優しさの塊」と言われている方が、私としても孫娘がより可愛く見える。それに「おせっかい」はどうも私の血の流れのようなのだ。

 NHKの朝のテレビ小説『純と愛』は、題名とは裏腹に全くの喜劇だ。主人公の純さんを好きだという人は結構いるが、逆に嫌いだという人も結構いる。この主人公の度が過ぎる世話好きは評価が大きく分かれるだろう。これまでの朝のテレビ小説とは大きく路線を変えてきたけれど、NHK内部でも議論のあるところだろう。主人公の純さんは、「みんながこのホテルに来て良かった」と言ってもらえるホテルにする夢を持っている。就職する時も面接では完全に失敗だった。それをオーナー社長が「面白いね」と採用してくれた。

 数々の失敗を重ねるが、いつもこの社長が助けるところはまるで漫画である。いや、このドラマそのものが漫画だと思う。深夜零時を過ぎて、客がコーヒーを部屋まで持ってきて欲しいと言う。ホテルでは零時を過ぎてからのルームサービスは行なわないことになっている。ところが彼女は「お客が喜ぶことをするのがホテルの役割」と客の要求に応えてしまう。こうしたトラブルばかりを繰り返すのだが、「私はよいことをしているのに、どうしてみんなは分からないの」と彼女は思っている。

 先輩の女子社員から、「自分が正ししければ、何でも出来ると思うのは間違いよ」とクギを刺される。この女性の指摘はいつも的確で、社会人の模範のような人だ。ホテルも組織である。組織が動くためにはみんなの理解と協力が必要だ。それをどのようにして作り出していくのか、きっとそれがこのドラマのテーマなのだろう。今までのところでは、純さんがむやみやたらに突っぱねていくがこれからどんな展開になるのだろう。

 ただ、もし純が組織にウエイトを置いていくようなら、平凡な社員で物語にはならないし、しかし、いつまでも失敗ばかり重ねるのも能がない。孫娘がおせっかいであるとはいえ、純さんほどでなくてよかったとちょっと安心している。

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『週刊アエラ』の特集「右傾化する女子」

2012年11月27日 18時25分26秒 | Weblog

 小さなのぞみが実現できないとなると、ガッカリしてしまう。子どもなら、お母さんが連れて行ってくれるはずだったことがダメになったり、恋人同士なら、デートの約束が延期になったり、私たちの井戸掘りも急に相手の都合で中止になったり、そんな時はちょっと気持ちが落ち込んでしまう。そんなことは日常茶飯事で、いちいち落胆していてどうすると叱られそうだ。何しろ大人の世界では、予定していたことが実行されないとか、約束していたことが実現されないことばかりだから。

 『週刊アエラ』が「右傾化する女子」を特集していた。「女が好きな政治家」という見出しもあった。女性というところを女子とか女と表現しているところから察すると、編集者には潜在的な女性蔑視があるのだろう。日の丸を掲げ、乳母車を押して、尖閣デモに参加している女性たちが増えているという。24歳の若い主婦は、「使える原発を止めて火力発電を増やしたことで、年間3兆円が無駄になっている。日本の経済がダメになったら子どもだって守れない」と脱原発デモを批判している。

 そういえば先日も、駅前で若い女性が街頭演説を行なっていた。「竹島は日本の歴史的にも固有の領土である。なぜ、韓国の実効支配を許しているのか。天皇陛下に対する韓国大統領の屈辱的な態度に対して、なぜ政府・民主党は毅然として抗議しないのか。私は絶対に許せない。許してはならない」と激しい口調で演説をしていた。60年安保も70年安保も、どちらか言えば男性主体のデモだった。男尊女卑という意識があったのか、女性たちは男性たちの後に控えていた。アジ演説も男ばかりだった。

 一般の女性が街頭行動に出るようになったのは毎週金曜日に首相官邸前で行なう脱原発デモからではないだろうか。60年安保も70年安保も、組織された者が参加したデモだった。その前から沖縄での反基地デモには労組ではない人たちの参加もあったようだが、子どもを抱えたり乳母車を押して参加する姿が一般的になったのは脱原発デモからのように思う。組織ではなく個人が自分の意思で参加するデモは、「とても和やかだった」という。「参加者自らが交通整理に当たり、交通に支障が生ずることもなかった」とデモに参加した女性は言う。

 『週刊アエラ』は「右傾化する女子」というけれど、実際は政治に関心を持つ女性が増えたことだろう。だから脱原発の人もいれば、これを批判する人もいるわけだ。「女が好きな政治家」の第1位が小泉進次郎で、次が橋下徹、東国原英夫、安倍晋三、石原慎太郎、石破茂とある。歯切れのよいしゃべり方で分かりやすいのが特徴であり、考え方はタカ派ばかりである。小泉さんにしても橋下さんにしても、若々しくて格好いいから、女性ファンが多いのは当然だろう。

 「男の好きな政治家」をなぜ同時に載せなかったのだろう。アンケートを取れば大して違いはないのではないかと思う。こういう政治家が好まれる時代になったのだ。「はっきり自分の意見を言う人がいない中で、この人は自分の意見を持っている」と政治家を評価するようになった。「信念を曲げない」とか「押しが強い」ことも評価の対象である。「なあなあで生ぬるい。ガツンと正しいことを正しくやってくれる政治家が必要」という声は大きい。でもなあー、誠実さが政治家には大事なのではとマイナーな私は思ってしまう。

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老人の狂気

2012年11月26日 20時22分41秒 | Weblog

 「雨が降っているので、学校まで送って行って」と高校3年の孫娘からの要請に応えて出かけた。久し振りに車を運転することもあるが、今朝はなんとなく頭がスッキリしていなかった。曲がる道を間違えて、予定よりも10分近く遅れてしまった。たった1ヶ所、右折する所を間違えただけだったのに、慌てて軌道修正しようとしてさらに迷路に迷い込んだ。ナビを見ていたのに、イヤ見ていたからこそ、狐に騙されたような具合だった。よせばよいのに、送って行った帰り、どこをどう間違えたのか確かめるつもりだったのにさらに分からなくなってしまった。これはひょっとすると老化なのかも知れないという不安がかすめた。

 午前中は会議があった。この会議は何のためのものなのだろう、そればかりが頭から離れなかった。会議の進め方もよく分からない。本来の目的を果たしているのだろうか、それを口にすべきなのかと迷う。実際、私は今、何の役にも立っていない。役に立っていない人が参加し、そのために何がしかのお金を払うのは無駄な気がしてしまう。このままではどうにも自分は居心地が悪い、やはり辞退する方がいい、そんな気がした。私自身に改革を推し進める情熱がなくなってきているようだ。今朝の車での迷路への入り込みも、頭が働かなくなっている証拠ではないかと思えてくる。

 「このままでは日本はダメになる」「何でオレがこんなことをやらなくてはならないのか、若いやつ、しっかりしろうよ」と太陽の党を立ち上げた石原慎太郎さんは、「憲法改正・脱原発・消費税なんて細かいことにこだわっている場合じゃーない。もっと大きな国家の行く末をどうするかだ」と橋下さんの維新の会との合流を果たした。「政策の一致が大事」と言っていた橋下さんは、脱原発も企業献金も捨て、「組織を動かすことが政治」と言い出している。石原さんの小説「太陽の季節」は、既成概念への反抗ではなかったのか。太陽族の元祖が軍備力の強化で世界と対等になれると言い出すのは、老人の狂気ではないかと思う。

 尖閣諸島や竹島で政府の対応はナマヌルイと言う人は多い。私の友だちもそう言うし、知的な高齢の女性も強い口調で政府の弱腰をなじっていた。「自衛隊でも派遣するのですか」と私は冷やかすのだが、そう言う人は本気で「その方がいい」と答える。「戦争になるくらいの決意が無ければ領土問題は解決できない」と主張する。「それで、もし戦争になったらどうするの?」と聞けば、「その時は戦えばいい」と言う。友だちも女性も高齢で、自分が戦場に行くことはないけれど、実際に戦地に向かわなくてはならない若い人は嫌だろう。小さな島の奪い合いになぜ自分の命を捧げなくてはならないのかと思うだろう。

 殺されるのは嫌だし、殺すのも嫌だ。そんなことをしなくてすむ社会をつくることが政治の役割だろう。狂気の老人に付き合う必要はない。むしろ狂気であることを知らせてあげた方がいい。

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本音とたて前

2012年11月25日 18時41分26秒 | Weblog

 今日も一日中、ルーフバルコニーにいた。すると街宣車がひっきりなしにやって来る。民主党、維新の会、減税日本、共産党の政党名が聞こえた。他にも来ていたのかも知れない。選挙の告示は12月4日だから、今は選挙活動は出来ず、あくまでも何がしたいのか、どのような国にするのかという政治活動でなければならない。けれども聞いていると、政策を語る人はいなくて、名前の連呼である。最もひどかったのは民主党の現職で、「立候補のごあい」まで言って、同乗者に制止されていた。長年議員を務めていながら、政治活動と選挙活動の区別も出来ないのかと思ってしまった。

 街頭演説をするのなら、もう少し政策を語って欲しいものだ。我が党がどのように考え、何を実現しようとしているのか、そうした政策も語らずに、「日本を変えられるのは我が党だけです」とか、「皆さんのご支援をぜひ我が党にお寄せください」とか、「頑張ります」「必ずやります」とか、こんな風にいつもと変わらない選挙でいいのかと思う。こういう有権者を馬鹿にした選挙が続く限り、やっぱり日本は変わらないのではないかと思った。

 高校3年生の孫娘が大学に合格できたと浮かれている。面接で、「この大学を選んだ理由は何ですか?」と聞かれたのに、志望した学科についての回答を用意していたので、「地域に根ざした看護師を目指したいからです」と答えたと言う。根はいい子なのだがやはり国語力が足りない。面接の練習も繰り返していたけれど、私が面接官なら、「そんな紋切り型ではない本音を聞いてやろう」といじわるな質問をするだろう。孫娘に言わせると、「だって先生が前もって用意しておきなさいと言っていた」と言う。「それでその優等生の答えは自分で考えたの?」と聞くと、「ママに見てもらった」と答える。

 「あなたの学校の特色は何ですか?」という設問に、「国際交流が‥」と言うので、「自由な風紀に満ちていて」と私が茶々を入れると、「そんなことを言ったら、先生に叱られてしまう」と誠に素直だ。言ってはならないこと、言った方がよいこと、その辺りは分かっているようだ。でも、粉飾になりようなことを話すよりも誠実に話すことの方がよいと思うけれど、まあとりあえず合格できたのだからここは素直に喜んであげよう。

 大学に入ったらアルバイトをしてお金を貯めると言うが、「何か欲しいものがあるの?」聞くと、「特には無いけど」と答える。私たちの頃は大学生がアルバイトをするのは普通だったけれど、看護学科ではそんな時間的な余裕はないらしい、そんなことは知らないのだろう。これから社会へ飛び出していく若い人たちは大変だろうけれど、目標を見失わずに頑張って欲しいと思う。それにしても母親と同じ看護師の道へ進むとはね、血なのだろうか。

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ガンガン働いて、ジャブジャブ使った人々

2012年11月24日 19時13分01秒 | Weblog

 鉢の土の入れ換え作業を続けている。今日は午後からは風が強くなり、作業を中止しなくてはならなかった。冷たい風は身体を硬直させる。このままでは心臓が止まるかも知れないとさえ思った。砂が舞い上がり、目に飛び込んでくる。これでは作業が出来ない。雨が降っても、風が強くても、単純な作業なのにどうすることも出来ない。作業中の土を袋に入れ、中断して家に入る。暖かさにホッとした。

 昨夜は我が家で、『ボジョレーヌーボーを楽しむ会』を開いた。昨日は市の「ふれあいフェステバル」だったけれど、私は参加しなかった。それで皆さんの慰労を兼ねてボジョレーを楽しむことにした。カミさんとふたりで飲んでも、カミさんはすぐにうっとりうっとりと舟を漕ぎ出すばかりだ。「田舎から送ってきたイノシシの肉があるから鍋にしよう」と友人が言ってくれた。鍋とボジョレーの組み合わせはいかがかと思ったので、とりあえず簡単なオードブルを作り、みんなで「お疲れ様でした」と乾杯する。後はもう、どんどん飲み、食べ、話し、笑うばかりだった。

 イノシシの肉を持ってきてくれた友人は苦労人だ。小さい時に両親を亡くし、親戚の家に預けられた。だから子どもの頃から大人並に働いた。山に行って枯れ枝を集め、それを町で売ったり、山菜やキノコを採って来て、やはり町で売ったそうだ。中学を卒業すると東京に出て、工事現場で働いた。最後には自分の会社を持ったのだから立身出世を成した人だ。今でも山へ入って山菜やキノコなどを採ることが好きで、よく出かけて行く。

 働いて働いて、お金が入ると新宿で飲み歩き、「よく使った」と言う。あの頃の人はみんなそうなのかも知れない。私の中学からの友だちもそんなことを言っていたし、井戸掘りの仲間の先輩も「一晩で何十万円という金を使った。会社も接待費をジャブジャブ持っていた」と言った。今、安倍自民党総裁は「輪転機をぐるぐる回して、無制限にお札を刷る」とか「建設国債は日銀に全部買ってもらう」などと、「政権を取替えしたら、大胆な金融緩和策を」と発言している。もう一度右肩上がりの経済成長を描きたいようだ。

 経済成長が続いていた時代、自民党政権は膨大な借金を積み重ねた。あの時代は物が無かったから売れた。けれども今は買いたい物がない。それに人口は減少するから、買い手は少なくなる。かつてのように、ジャブジャブ使えるような時代になる要素は無い。酒場へ飲みに行っていた連中も、家庭でのホームパーティで満足している。私たちの子どもたちは、結婚もしないし、車も興味が無い。働いて出世することにも意味を見出さない。

 先週の朝日新聞の『悩みのるつぼ』に、「30歳手前の息子が真面目に働く気が無い。息子を捨ててもいいですか?」という相談が載っていた。回答者は「捨てなさい」と当然のことを答えていた。ガンガン働いて、ジャブジャブ使う時代は過ぎた。

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いい夫婦の日

2012年11月23日 17時12分46秒 | Weblog

 今日は結婚記念日だったので、三岸節子記念美術館へ出かけ、『生誕百年記念 丸木俊展』を観て来た。私の両親とほぼ同時代の人、どんな風に生きてきたのかと思った。俊子(本名)さんは北海道の田舎の寺に生まれたが、優秀だったのだろう旭川高等女学校を卒業し、絵を描くのが好きだったので、東京の女子美術専門学校師範科に入学した。千葉県の小学校の代用教員となり、どんな縁か分からないけれど子どもの家庭教師としてモスクワで、1年過ごしている。

 27歳の時、展覧会の説明文では「失恋して」とあったが、日本領であった南洋群島へ出かけている。その翌年にはソ連公使の子どもの家庭教師として再びモスクワへ出かけ、この年に日本画家の丸木位理と結婚する。昭和20年夏、俊子さんが33歳の時、位理の故郷である広島に原爆が投下され、ふたりは広島に帰り1ヶ月ほど滞在して救援活動に加わる。この広島体験がふたりの生涯の課題、『原爆の図』となった。

 俊子さんはモスクワや南洋群島での体験をもとに絵本も描いている。その原画も展示されていたけれど、色使いがとてもきれいだ。位理は平成7年、94歳でこの世を去った。俊子さんは5年後の平成12年、87歳で亡くなった。夫妻で共同して、『原爆の図』『米兵捕虜の死』『南京大虐殺の図』『水俣の図』『沖縄の図』など、社会性に富んだ作品を描き続け、ノーベル平和賞にノミネートもされた。

 美術館の帰りは、カミさんが割引券を持っているという和食の店に行った。偶然にも私たちの両隣は同年の男女のグループで、ビールを飲みながら話が盛り上がっていた。私の右隣は男3人女2人で、高校の同級生らしかった。初恋の人に会いたいとか、会えばこのままではすまなくなるとか、まだそんなことを考えているのとか、いや覚悟が出来ているから大丈夫だとか、現在の旅行の話や病気の話、昔の学生時代の話などが混在していた。

 夫婦でないのは「主人は」とか「女房は」といった言葉が飛び交い、しかもあからさまに初恋の人の話や「ミッチャン、今でも好きなの?」とか言っていたからだ。同級生で、夫婦でないからこそ、あけっぴろげで本当のことが言えるのかも知れない。「ウチの主人は『オレはもう2年か3年しか生きられないだろう』ってばっかり言うのよ。どうぞ、どうぞって言ってやった」「そう言う人に限って長生きするのよ」「だから嫌なのよ」。

 今朝の朝日新聞のコラムは、11月22日(いい夫婦の日)について書いていた。「将来配偶者を介護したい」と答えた女性は36%、男性は55%だそうだ。「有料老人ホームに入るなら同じ部屋に入りたい」と希望するのは男性82%なのに、女性66%だった。どういうアンケートなのか分からないけれど、そんなものかも知れない。「亭主と旅行に行くより、友だちと行く方がいい」と女性たちは言う。旅行先まで行って、あれこれ面倒をみなくてはならないのは嫌というわけだ。

 街頭インタビューで夫婦円満のコツを聞かれたお年寄りが、「嫌なところは見ない、口にしない」と答えていたが、多分その通りなのだろう。丸木夫婦はどうだったのだろう。

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友だちのこと

2012年11月22日 18時55分31秒 | Weblog

 今日も一日中、鉢の土の入れ替えをした。明日も作業を続けたいのだが、天気がどうなるのかと心配している。今日の午前中は曇っていて、作業をするにはありがたかった。午後からは日差しもあり、汗をかくほどだった。小学校の運動場から子どもたちの元気な声が聞こえてくる。子どもの頃は誰もが無邪気で可愛いのに、大人になると意地悪で悪いことをするのはどうしてなのかと思った。子どもだけ見れば性善説なのだが、大人を見ると性悪説であるように思えてくる。

 理性は自己防衛のためにあるなどと、大学に入ったばかりの頃、夜中遅くまで議論したことを思い出した。酒の勢いもあって生意気なことを言い合っていたが、その友だちの家の人たちはきっと迷惑だったと思う。それにその家の息子である友だちは、まだ浪人中ではなかっただろうか。彼は自分が幼い時にこの家に引き取られたことをとても気にしていた。彼のように養子であった友だちが偶然にも他にふたりいた。

 このふたりとは高校に入って出会った友だちで、高校生の時にふたりの家に遊びに行ったこともある。継母というと童話の世界では冷たい人のように描かれているけれど、3人の家に行った私の印象は、家庭は血のつながりではないことだった。3人とも一人っ子ということもあって、家ではとても大事にされていたし、両親の愛情が溢れていて羨ましくさえ思った。しかし、3人とも自分が養子であることをどこかで気にしていた。3人とは今も付き合いが続いている。

 私にとっては、中学・高校時代が一番思い出深く、この時期に自分が出来上がっていったと思う。ものの見方も考え方も、好き嫌いの感性も美意識も、あらゆるものが蓄えられ形作られた。あれから少しも変わっていない気さえする。クラス長になったり、生徒会長にもなった。友だちは多かった。中学3年の時は、クラスの男子の半分くらいを私が通っていたキリスト教の教会に連れて行ったりもしていた。

 今もたくさんの友だちに恵まれている。小学生の男の子からも「おじさんちの子どもになりたい」とせがまれる。選挙の時に応援してくれた人たちや、その後で知り合いになった人たちなど、年上も年下もいろんな形で周りに集まってくれる。人には本当に恵まれていると思う。苦しい時に必ず誰かが助けてくれた。私は大勢の人たちと一緒に何かをやる、一緒に食べたり飲んだりする、そういうことが好きだ。

 次女を泣かせてしまった時、カミさんが「あなたと同じように、考えてくれたり、あなたの価値観を理解してくれる人はいるの?」と言う。私の独りよがりを指摘し、娘に寛容でありなさいと言っているのだ。私と同じように考えたり、同じように感じる、そんな人に出会ったことはない。私はいつもマイノリティーだ。それを思うと寂しくなるが、それでも友だちはたくさんいる。考え方や価値観が違っても、人として好きな人はたくさんいる。それでいいのではないかと思う。

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ただ一瞬愛でるために

2012年11月21日 17時34分39秒 | Weblog

 朝からルーフバルコニーに出て、チューリップのために鉢の土の入れ替えをした。午前11時くらいから風が少し出てきて、埃が舞うためか目が痒い。ひとりで1鉢づつ、ひっくり返しては古い根を取り除き、ミミズを捕まえては別の容器に入れ、赤玉土を区分けする。黙ってひたすら同じことを繰り返すので、腰が痛くなってくる。大きく背筋を伸ばして、また同じことを考える。こんなに丁寧にやらなくても、適当でいいのではないかと。

 毎年、同じことを考えながら結局何も変わらない。そしていつも、過ぎ去ったことを蒸し返し考えている。次女を泣かせてしまった話を高校3年の孫娘にした時、孫娘はうまいことを言った。「優しさの押し付け合いだね」。孫娘も友だちとの間で、そんなことがよくあると言う。孫娘は友だちのために良かれと思ってするのに、友だちは孫娘のためにはこの方がいいと思って別のことをする。それで、言い合いになってしまうことがあるそうだ。なるほどと、孫娘に教えられた。

 するとまた別の角度から、「200円くらいのことでと言うけれど、じゃあ200円稼ぐことが出来るのか」という声がする。残念ながら今の私は200円稼ぐことすら出来ない。会社を経営していた友人が「どうしてもお金が要るから貸してくれないか」と言った。お世話になった男であるし、真面目な性格で、「必ず毎月10万円ずつ返すから、助けて欲しい」と言われ、自分が役に立つならと思って貸した。稼ぐことも出来ないのにである。

 友人は自己破産してしまった。昨日が「財産状況報告集会・債権調査・計算報告集会・破産手続き廃止に関する意見聴取のための集会」であった。出席してどんなものなのか見ておこうと思っていたが、開催の連絡が来ると思っていたのに裁判所からは何もなかったので、ますます気持ちは落ち込み、行くのを止めてしまった。人生は不可解だ。どこにどんな落とし穴があるのか分からないのだから。

 普通に働いていればその結果としてお金は手に入った。働けば何とかなったし、より働けばより多いお金を手にすることが出来た。我武者羅に働いてもわずかなお金しかいただけない時もあった。私たちの世代は、お金に執着するのはみっともないと教えられてきたところがある。清貧に甘んずることが貴いという面もあった。お金のある人は会社をより大きくしてさらに儲けようとする。車もグレードを上げ、飲み食いも派手になる。しかし、長くは続かない。やはりそこそこでいいじゃーないかと思う。

 政治も結局は経済に動かされる。国の利益を上げるために、より安い労働力を求めるし、商品を売り込む道筋をつくろうとする。中国で起きた反日デモでほくそ笑んだのはドイツやアメリカの企業だ。中国の13億人の市場が各国の企業の目指すところだ。今度の衆議院議員選挙でも露骨に国益が言われている。私はひとり、黙々と土を砕き、ミミズを捕まえ、古い土にバーク堆肥や乾燥牛糞を混ぜ、チューリップの土作りをする。ただ一瞬愛でるためだけのために。全く生産性のないことに何時間も費やしている。

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