友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

演劇『12人の怒れる男』

2010年01月30日 18時29分54秒 | Weblog
 名古屋市千種文化小劇場で演劇『12人の怒れる男』を観てきた。裁判員制度が始まり、その裁判や参加した人の感想や意見が報道されているから、そうした話題性もあってか満席だった。もっとも千種文化小劇場は客席が250席しかない。演劇は300人までの劇場が一番見やすいというのが私の持論だが、ここはピッタリの劇場だった。欲を言えば、足が曲がらない私には、もう少し前後の間隔が広いとありがたかった。

 円形劇場は、四方に客席があるから、役者としてはやりにくいのではないだろうか。同じような円形劇場でひとり芝居を観たことがあるが、今回の芝居は12人いる。場面の交換は無く、休憩なしに2時間10分ほど続いた。昔、アメリカ映画で同名の映画を観たけれど、その演劇版であるわけだが、よく考えてみれば、初めから終わりまで、一部屋の中でのやり取りしかないから、映画よりも演劇に向いた脚本だったのかと観終わってそう思った。

 審理が終わり、裁判長は陪審員に評決を出すように言う。12人が陪審員室に入ってくるところから演劇が始まる。ニューヨークのドヤ街で不良少年がヤクザで暴力的な父親をナイフで刺し殺したという、それだけ聞いただけでも誰もが絶対に少年が犯人だろうと思う。証言は全て、少年に不利なものだった。陪審員全員が有罪と評決してもおかしくなかった。ところがひとり、「有罪と言い切れるだろうか」と疑問を投げかける男がいた。

 アメリカ映画の裁判では、弁護士も検事もよく陪審員に向かって自論を展開するが、陪審員が有罪あるいは無罪と評決すれば裁判長はそれに従い、有罪ならば量刑を言い渡すのだそうだ。もちろん、裁判長が陪審員の評決が間違いと思えば違う判決を言い渡すこともできるようだけれど、陪審員は素人でありながら人の生死を決められる、それくらい重い役割を担っている。だから、「有罪と言い切れるだろうか」と言った男は自分の疑問をみんなに問うていく。

 その過程で、12人の様々な人柄や過去、差別意識や偏見、エゴが見えてくる。あの時の映画の場面と重なってくるが、映画よりもはるかに演劇は迫力があった。最初に疑問を投げかけた男は、映画ではヘンリー・フォンダがやっていたけれど、ヘンリーの印象が強く思い出された。検察が証拠としてあげたいくつかについて、「合理的疑い」があると、それぞれが次第に気付いていく。初めは11対1でしかなかったのに、10対2となり、検証すればするほど無罪と言う人が増え、6対6へと変わっていく。

 最後は頭から「ああいう悪ガキは生かしておいたら、どんどん増えていく。今のうちに芽を摘む方がいいのだ」と決め付ける人や少年に父親を殴って出て行った息子を二重写しにしている人など、3人が残るだけになってしまう。そして最後には12人全員が「無罪」を、自分の責任で口にする。そう、なんとなくではなく、ケンカ腰の話し合いの末に、各自が自分でたどり着いた結論であることが大事と、この脚本が言いたかったことだと思う。

 少年の父親殺しという設定になっていたけれど、それはむしろどうでもよいことで、人が人を裁けるのか、どうしても裁かなければならないのであれば、それなりの覚悟がいるし、誠意と努力がいる。裁判という特殊な世界だけでなく、日常の中にもそんなことがいくつもあるような気がする。
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率直になれば心も開く

2010年01月29日 19時13分07秒 | Weblog
 「家族」のことにもう少し触れておこう。息子が東京へ行ったきり、手紙も電話も来ないと嘆く父親がいる。逆に自分が息子の立場なら、時々は母親には電話することはできても、父親というものは話しにくいと思う。きっと彼もそう思うからこそ、息子の方から電話して欲しいと思っているのだろう。私に言わせれば、そんなに息子のことが心配なら、自分が東京へ出かけて行けばいいのにと思ってしまう。

 東京まで行って何を話すのかということだけれど、「今、何をやっているんだ」とか「ちゃんと働いているのか」とか、息子の現状を質すのではなく、「お前にだけは言っておきたいことがあるから、黙って聞いてくれ。出来ることなら、怒ったり質問したりせずに聞いておくだけにしてくれ」と前置きして、それから視線を息子から離して話し始める。父親の本心あるいは弱点を見せることが大事だと思う。

 「お父さんは好きな人がいる。早まるな!お母さんと離婚するとか、そういうことではないし、もっと言えば、情交があるわけではない。信じないかも知れないが、お父さんはその女の人が好きで、一緒にドライブに行ったり食事をしたりしているが、それ以上のことは決してしていない。お前たちやお母さんを裏切ることはしていない。お父さんはお母さんを愛しているし、お前たちを愛している。家庭を壊すことなど、これっぽっちも考えていない。それでも、お父さんはその女の人が好きなことも事実だ。お母さんにこんな話は出来ないが、お前は男だから、息子のお前だけには話しておきたい」。

 父親が率直になれば、子どもも心を開くだろう。ウチのカミさんはなかなか長女と心を開いて話せなかった時があった。カミさんの期待が大きすぎてなのか、いろいろなことが積み重なってか、ギクシャクしていた。長女に赤ちゃんが産まれ、時々頼まれて世話に行くようになってすっかり変わった。「あの子も素直になってきたね」と言う。それはカミさんを頼りにしているからであり、頼られることでカミさんもまた素直になってきたのだ。ふたりの電話のやり取りを聞いていても、最近は打ち解け合っているだけでなく、相手への気遣いも忘れていない。

 人間は褒めてもらいたい存在だ。少なくとも認めてもらいたい存在である。親は子を一番認めているのだが、それを口に出して言えないのだ。つい、「しょうがない」とか「そんなこともやれないの」とか、激励するつもりが諌めてしまっている。「早くしなさい」「勉強しなさい」は言えたのに、「よくできたね」「しっかりやっているね」とは言えない。「どうしてダメなんだろう」と言われても嬉しくもない。「あんたはいつもそう。どうしてそうなの」となじられて、元気が出るはずがない。自分を相手に置き換えれば、どういう言葉が欲しいのか、わかるはずだ。それができるのが親子だ。

 「頑張っているね」「優しいね」「よくできるね」「素敵だよ」。褒め言葉が親子の間にたくさんあればきっとうまくいく。それは夫婦でも恋人同士でもみんなそうなのかもしれない。
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結婚しない息子たち

2010年01月28日 19時45分21秒 | Weblog
 朝、喫茶店に呼び出された。男ばかりの年寄りが話すことと言えば、政治や世相のことが多いけれど、今日のテーマは「家族」であった。息子はもうすぐ50歳に近づく年齢なのに、なかなか結婚しない。周りがいろいろお膳立てすればするほど、うっとうしがっていて困るとひとりが言えば、ウチの息子も40歳近くになるが全然結婚しようとしないともうひとりも言う。それだけではない、さらにもうひとり、そこにも40歳近い息子がいるが同様だと言う。

 「今の男は、下品な言い方だが、さかりがない。どうしてもあの女を射止めたいと思わないみたいだ」「口説き方を知らん」「そうじゃなくて、口説くことが面倒で、そんなことに時間やお金を注ぎ込むのは無駄と思っている」「女を好きにならんのだろうか」「好きになることはあっても、結婚への過程を面倒と思っている。いろいろ手間ひまかけたくない。すぐにSEXならいいだろうが、心を一つにさせていく努力に価値を見出さない」「私の知り合いにラブホテルを経営している者がいるが、ホテルに来てもSEXもしないで帰っていく者がいるそうだ」「結婚しても家事からSEXまで、みんな押し付けられるのはイヤだと言う男もいる。昔の男と女が逆転してしまっている」。

 確かに、若い男の中には「失敗したくない」という気持ちが強いように私も思う。恋愛は「人生ゲーム」のようにはいかない。一足飛びに上がることは出来ないし、行き違いやズレを修正していかなければ、破綻はやってくる。相手の気持ちを確かめる努力がいるし、自分がどうしなければならないか決断する必要もある。若い男たちは、自分で家事もできるが、まだ「どうしてお前の分までやらなくてはならないのだ」と、思ってしまう人も多い。おそらく、男の生まれ育った家は、父親は働き母親は家事という分担があったのだろう。両親が共働きの家に生まれ育った男は、男が家事で女が外で働くことにそれほどの抵抗はないようだ。

 核家族の後の、新しい家族の形を今の若い男女は作っていかなくてはならない、そういう過渡期にあるのだろう。雑誌『婦人公論』や週刊誌『アエラ』がSEXしない夫婦が増えていると特集を組んでいたが、それも家族の形の変化なのだろうか。男と女が、少なくとも好きで結婚した男と女がSEXしないということはなぜなのだろう。若い男が、そんなことよりももっと他に楽しみがあるとしたなら、いったいそれは何なのだろう。人の肌の細胞から精子をつくることができるというところまで科学は到達しているようだけれど、そうすると、SEXは不用どころか男は不要ということなのだろうか。

 息子がなかなか結婚しないというレベルの話ではなく、人類のあり方そのものが変わるということなのだろうか。そこまでコントロールされた社会ならば、戦争はもちろん犯罪もない社会なのだろう。そうか、男はいないのだから「争いのない楽園」なのか。でも、何だかドキドキワクワクするような社会ではない気がするなと思ったけれど、そもそも男は存在しないのだから、考えることが無駄だった。
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「家族」を考える

2010年01月27日 20時22分10秒 | Weblog
 「家族」という単位は人の関係の中ではちょっと違う形だと思う。「家族」というとどうしても血縁で捉えてしまうけれど、別に血のつながりが問題ではないように思う。「家族」といえる形があれば、そう思っているならば、それは「家族」だと思う。私たち以前の世代は、まだ資本主義が未発達だったから、農業が生産の主であった。だから、父、母、祖父、祖母、叔父、叔母、兄弟、姉妹、ひょっとすると姪っ子や甥っ子、親戚の人などたくさんの人たちが一緒に暮らしていた。「大家族」だった。

 農業だけの時代なら、たとえ商家であってもまあ似たようなものだった。工場ができて働き手が必要となり、農家の次男や三男あるいは女たちが工場のある都会へと出た。その工場労働者を相手にする商売も生まれ栄えていった。都市は大きくなり、工場労働者は結婚して通える所に家を構え、家庭をつくった。戦後に生まれた家庭は、夫婦と子どもだけの「核家族」で、生活スタイルは「大家族」とは全く違っていた。高度経済成長の真っ只中で、豊かな生活を追い求め、規模の違いはあるとしても、それぞれが夢を実現していった。

 努力が評価され、一生懸命に働くことで結果を得てきた。学歴が高ければもっと豊かな生活ができるのではないかと、子どもに「勉強しなさい」と世話をやいてきた。子どもたちに幸せになってもらうには高校卒業のレベルではなく、その上に行かせたい。ピアノやバレーや水泳や英会話や‥習わせておきたい。学習塾へも通わせないと遅れをとるかもしれない。子どもの幸せを願う気持ちが過度の負担を子どもに負わせることになるのに、いやそれは子どものための親心なのだと納得している。

 人は自分たちが生きてきた社会で物事を考える。農業が生活の中心だった時代は、天候の見方や作業の重点を子どもに教えた。村の行事に積極的に参加させ、地域の絆を身体ごと覚えさせた。「家族」が協力しなければ、米も作物も取れないことを実体験させた。工場労働者となった世代は、能力が無ければ出世できない。能力をつけるためには学校を出ること、できるだけ上の学校を出ることを子どもに教えた。人は自分を高く評価してくれるところを求めるから、「家族」はますますバラバラとなった。

 「家族」という単位が本当に必要なのか、地域という社会が本当に必要なのか。逆に「家族」という単位の果す役割とかつながりは何のだろう、地域という社会の機能は何なのだろう。孤独な青年がいる。「助けて!」と家族に言えないでいる。「自分のことは自分でしなさい」とズッーと言われ続けてきた。「弱い人間になってはダメ!もっと強く生きなさい」と教えられてきた。「家族」には甘えられないと、その青年は言っていた。孫娘はもうすぐ高校受験である。「あのさ、失敗したっていいのだよ。人生はいつでもやり直せる。だから人生は楽しい。生きていれば楽しいことがいっぱいあるよ」と彼女に伝えたい。
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超満員の銭湯で考える

2010年01月26日 18時58分13秒 | Weblog
 私の長女は1月生まれだが、1月生まれは色白の美人が多い。6月生まれの次女も色白のぽっちゃりした女性だったけれど、タイ王国バンコクでの長い生活で、すっかり南洋美人(?)になってしまっていた。その次女のダンナから昨夜に電話が入った。「2月末までに帰国となりそうなので、とりあえずご報告をと思いまして」と彼は言う。4年の滞在となるからそろそろ帰国したい旨は会社に伝えてあるけれど、後任が決まらないのでなかなか帰国できないと、以前話していたけれど、まさかこんなに早い帰国になるとは思わなかったようだ。

 それでも、彼の希望が叶ったわけだから、「とにかくおめでとう」である。次女は引越しやらで大変になるとぼやいているらしい。色白でぽっちゃりの次女もすっかり大人の女になっていたが、のんびり暮らしていることができたバンコクと違って、日本の生活は大変だと思う。バンコクでは我が家よりの広いマンションに暮らし、運転手も付いていたが、日本では全て自分たちでやらなくてはならない。家具や家電製品もまたそろえなくてはならない。日本は4季があるから、服も靴も2倍から3倍必要になる。次女の慌てようが目に見えるようだ。

 今日も雑談の中で、「暖かい国の人は怠け者だ」と言う人がいるので、「それは少し違うと思う」と、バングラディシュから来た青年が話してくれたことを伝えた。バングラディシュはガンジス河のデルタ地帯にあるのでいつも洪水で家や田を失った。それでもみんなが協力して暮らしていたから、豊かであった。自分たちが食べる分の米が取れ、木々になる果物を食べ、魚や鳥や獣を少し食べ、みんなが豊に暮らしていた。ところがイギリス人がやってきて、すっかり変わってしまった。彼らは生産物を持って行き、代わりに少しの金を置いていく。それから生活はすっかり変わり、どんどん貧しくなってしまった。生活用品が豊富になり、生活は苦しくなったのだ。

 暖かい地域では、寒さに苦しめられることはない。東北の人が話していたけれど、暖かいところでは食べたものの種を土に放り出せば、やがて芽を吹き実をつけると。食べ物は豊富にあるから、生活の仕方は自然とゆったりとしている。怠け者のように見えるのはそんな環境の違いというのである。実際に真夏の真昼では、身体を動かしたなら熱中症になってしまう。木陰でのんびり昼寝でもして休む方が合っている。

 そういうわけでは全く無いけれど、26日は「ふろの日」ということで、「スーパー銭湯が65歳以上の人は無料で入浴できるから行きませんか」と誘われ、出かけていった。行ってビックリした。超満員なのだ。若い人の裸なら、「美しい」だろうけれど、65歳以上の人となると、色白であるけれど、むしろ気味が悪い。その仲間になってしまったのかと思うとガッカリした。長い間働いてきて、今はロハの風呂に入り、すっかり「怠け者」になってしまったが、それを幸せと考えるか不幸と感じるか、どうしたものだろう。
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軍事基地なんかいらない

2010年01月25日 21時31分32秒 | Weblog
 沖縄の名護市長選挙で、米軍普天間基地の辺野古への移設に反対する稲嶺進さんが当選した。1千6百票という小差であった。沖縄は失業率が高い。住民の多くが米軍基地やその関連の職場で働いている。それに基地の地主は地代を受け取っている。基地で迷惑を受けていることや、県民所得が低いため、国から手厚い地域振興策を受けている。「アメリカは沖縄から出て行け!」と叫ぶけれど、実際に出て行ったら困る人々が何万といる。そう情報通は言うけれど、多分間違ってはいないだろうと思う。

 それでも、名護市民は「移設を受け入れ、地域振興策で雇用の拡大を」と主張した現職ではなく、「移設反対」を掲げた新人候補の稲嶺さんに投票した。私は、鳩山さんは相当したたかな人だなっと思った。アメリカとの対等な外交を唱え、普天間基地問題では一向に解決の糸口が無いように見えていたけれど、グズグズと先延ばしにすることで、名護市民に「反対」の意思を表すことができる機会を与えた。それが昨日の市長選挙だった。これまで、移設もやむ得ないと思っていた人を反対の側に回らせ、逆転させた。

 これでいっそう普天間問題は難しくなったと言う人もいるけれど、私は、鳩山さんはこの結果を待っていたのだと思う。これまでの市長は移設を容認してきたのだから、地元が受け入れを認めていては、アメリカにダメだと言いにくい。アメリカとの対等な交渉のためにはどうしても地元が「移設反対」でなければならなかったのだろう。鳩山さんがどう考えているのか知らないが、私は日米同盟がギクシャクしても構わないと思っている。日米同盟のような軍事同盟はもう必要ないだろう。中国の軍事力が増大していることを心配するけれど、軍事力は駆け引きの道具に過ぎない。

 それに、国家が他の国家に攻め入ることなどあり得ない。アメリカは今、中国のそしてインドの市場への進出が最大の関心事だが、植民地化することではないし、中国もアメリカや手っ取り早い東南アジアへの市場進出が最大の課題だ。戦争などしていたならば商品の輸出は出来ない。世界中が大きな資本主義経済で包まれることになり、売り手ばかりで買い手がいない社会では経済は成り立たない。物を造り、物を売り、そして物を消費する、このバランスが結局は収まるところに収まるのではないのだろうか。

 沖縄は県民所得が低いと言われている。所得が低くてもそれで安定した生活ができればいい。資本主義社会でなかった頃、みんな貧しかったけれど、それでも何とか生活できていた。いや、天候不順や病気の蔓延で、生活できない時期もあった。働いても働いても楽には成れなかった。資本主義社会は人間に大きな富をもたらした。それは同時に格差を生んだ。今、その修正にかかっているのだと私は思っている。
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選挙に金はかけない

2010年01月24日 19時17分13秒 | Weblog
 民主党の幹事長、小沢一郎氏がようやく地検特捜部の事情聴取に応じた。4時間半の聴取の後、記者会見を行い、「一切関与していない」と身の潔白を主張した。テレビでの報道を見るつもりでいたのにすっかり忘れていた。忘れてしまうということは、それほど強い関心が無かったことなのだと思う。小沢さんは金の出所は個人のもので、「なんらやましい金ではない」と言い、水谷建設などからの金については、「不正な金は一切もらっていない。秘書を含めて事務所の者たちは一切不正な金は受け取っていないと確信している」と言う。

 これまでに小沢さんが言ってきたことを再び確認することになるのだろう。そう思っていたから、テレビ報道を見落としたのだろう。今朝の新聞を読むと、予想通りだったが、これ以外に言葉は無いということなのだろう。私は検察が正義とは思っていないけれど、検察がここで引き込んでしまったなら、いったい何だったのかということになり、権力闘争に嫌気が増すばかりだ。ひょっとしたら、嫌気を起こすために仕組まれているのだろうかとさえ、勘繰ってしまう。

 それにしても、またも「金」の問題である。小沢さんが選挙でやってきたことが新聞に出ていたことがあったけれど、まさしく自民党の選挙の手法であった。選挙でお金が要ることは事実だけれど、多額なお金をかけないと当選できない選挙のやり方に問題がある。小沢さんは気に入った候補者にはどんどん資金を与え、気に入らない候補者には出し惜しんだという。そう差別することで、候補者は選挙運動に必死に取り組むし、小沢さんへの感謝と忠誠心も生まれる。

 テコ入れする候補者には、小沢事務所から人が送られ、選挙のイロハから教えるそうだ。もちろん、私たち「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」も始めて選挙に取り組む候補者には一緒について支援する。演説の場所や仕方やチラシの作り方などのイロハを教える。そうした目に見える「選挙」が基本的に大事であることは間違いないけれど、私たちは選挙ではお金はかけない。いやむしろ、お金をかけない選挙を目的としている。選挙にお金をかけなくても当選できるようになれば、政治は「汚れたもの」でなくなるはずだ。

 先日も選挙に出たいという人がやってきて、「選挙の金はいくら要るんですか。正直、どれくらいかけるものですか?」と言う。「あなたがどういう選挙をしたいかですよ。従来型の地元から推薦してもらう選挙をするのか、自分の主張を呼びかけ、その支持・共感をいただいて選挙をするのか、どういう選挙をするかで決まってきます。私が知っている人は4百万円かけたと言っていました」「何につかうの?」「さあー、飲み食いでしょうね。お願いするのにタダはないだろうと言われて、湯水のように出ていったと嘆いていましたよ」。

 地方議員の選挙でこんな具合だ。国政選挙では金をつかう選挙をする候補者はさらに多くの金が要るのだろう。しかし、金をつかう選挙をすればかならず政治は腐敗する。これだけは間違いない。
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眠り記述法

2010年01月23日 19時19分27秒 | Weblog
 昨夜はかなりハイテンションになっていたらしい。「何か良いことでもあったの?」と言われる程だった。昨日は友人とカミさんがゴルフに朝早くから出かけていった。4時半頃に戻ってきて、「5時半から中華料理屋さんで反省会を開くので行って」と言う。もちろん反省会とは飲み会のことだ。ブログを書き始めていたが、途中で時間が来たので残りは後からやろうと出かけて行った。

 エレベーターの前でいつも誕生日会を行なっている友人に出会ったから、「これから反省会だから一緒にどう」と誘う。それならと、いつもゴルフに行く誕生日会の友だちにも電話するが、「明日は仕事だから今日はやめておく」と言う。それで結局6人となった。初めに生ビールで乾杯、それから焼酎を飲んだ。どういうわけか、よく笑い、きっとお店の中国人も「今日はにぎやかですね」と思ったことだろう。8時半までの間に焼酎も2本空けてしまった。

 さて、今日は早めに終わったから、これで帰ってブログの続きをしようと思っていたら、エレベーターの前で出会った友人が、「続きはウチでやらない」と言う。彼女も久しぶりに皆さんに会って、気分が良かったのだろう。彼女の家にあがりこんで、お正月の残りだという金粉入りの日本酒をいただく。家に焼酎があったことを思い出して取りに帰ると、「焼酎ではなくワインを持ってきて」と電話が入る。ワインとつまみを抱えて、彼女の家へと引き返す。

 またまた、バカ話でワイワイとやっていた。11時過ぎに「今日はこれでお暇しましょう」と帰ってきた。さて、そこからが記憶に無い。私はもちろん、再びパソコンの前に座った。キーを打ち始めたが、気がつくと12時を回っていた。あれ、あと少しで目標にしている千字になるはずだったから、とっくに出来上がっていなくてはならないのに、文章を読むとチンプンカンプンだ。何じゃーこれは、何が起きたのか。私はパソコンの前に1時間ほど座っていたのに何をやっていたんだろう。

 今、思うと眠ってしまっていたのだ。眠りながらパソコンのキーを打っていたのだろう。支離滅裂な文章がそれを物語っている。そんなわけで、気が付いた時から手直しを行い、ブログを完成させて眠ったつもりだった。先ほど、見てみるとまだおかしなところがある。その1行を削除したけれど、後はもう記念と思ってそのままにしておいた。今朝、まだ酒臭さが残っているようだったから、深酒はしないようにと思っている。

 それにしても、昨晩のあの眠って書いた文章は何だったのだろう。シュールリアリストが自動記述法という手法で詩を書いたけれど、それは眠りながら書いたものではない。眠りながら書いた詩なり文章なりが人の心を動かすようなものなら、私は天才作家になれるのだろうけれど、ただの支離滅裂な文章ではどうしようもない。それでも、風邪を引かなかったことに感謝しよう。おっと、今日はここまででいいかな?文章でおかしなところはないかな?
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約束が守られていない

2010年01月23日 00時59分13秒 | Weblog
今朝の国会中継で、自民党議員から鳩山イジメの質問を行なっていた。自民党議員は「基礎的なことですが」と前置きして、「確定申告は何日から何日までですか?国民年金の金額は?」と質され、お金持ちのお坊ちゃまは困っていた。こんなことも知らないのか!ということなのだろうけれど、実際は誰も正確に答えられないのではないだろうか。さらに「朝三暮四の意味はご存知ですか?」ときた。入学試験でもあるまいし、こういう質問をすること事態が失礼なことだと私は思う。

「終わりよければ全てよしを英語で言ってください」と質問されて、スラスラ答えられる大臣がどれくらいいるだろう。鳩山さんや麻生さんは英語が得意だからよいかも知れないが、不得手の人もいるはずだ。語彙の意味を聞きたいわけではないはずだから、そんな失礼な聞き方はすべきではない。鳩山さんは発言がコロコロ変わると批判されていると思っているから、「朝三暮四」と「朝令暮改」とを混ぜたような答えをしてしまっていた。

「約束が全然守られていない」と自民党議員は鳩山さんを批判する。これもおかしなことだと思う。自民党は「約束」の内容がダメだと言ってきたのではなかったのか。守られていないと非難することは、約束が正しいということになる。約束が実行されていないのは結構なことだが、その約束の中身が間違っているという展開でなければ、野党としての自民党の質問にはなっていかないと思う。

 約束を守るということは、きっと人間が生まれて以来の難問かもしれない。最初の人間であるアダムとイヴも神との約束を破って「禁断のりんご」を食べてしまった。そんな馬鹿なこと、ではなくこの話は、人間は誕生した時から「約束を守れない」存在だったことを意味していないだろうか。だから、キリスト教では「原罪」という考え方をする。「人は誰もが生まれた時から罪人なのだ。罪を認めることで、無心になれる。神を認める心になれる」。

 釈迦も孔子も人間は弱いもので、だからこそ人は他人を信じ、人としての道を歩まなくてはならないと説いた。キリスト教では、自然に対して人は無力であることを認め、あれ!気がついたら12時を回っていた。じゃー失敬するとばかりに席をはずしたけれど、しかし、こんな風の分かれ方でいいのだろうかと思えてきた。どんなにお金持ちであろうとも、どんな収支の報告であろうと、これは確かめるほかにはないと思っていた。けれども、‥‥

 酔っ払ってパソコンに向かっているうちにとっくに時間は午前1時になろうとしている。私が眠っていたのか、パソコンが勝手に動いていたのか、不思議な世界がここにある。
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カタログ雑誌

2010年01月21日 19時29分41秒 | Weblog
 雑誌『通販生活』が1年で540円、2年通しなら960円の広告を見て、伊達公子さんの「パラティスレッスン」DVDが無料で付いてくるからと、カミさんは購読を申し込んだ。ダンベル体操のテープもあるが、実行しなければ同じことのように思うのは、私が怠け者だからかもしれない。その『通販生活』が届いた。丁度、娘が取り寄せている千趣会の『ベルメゾン』も一緒に届いたので、どんなものなのかと見比べてみた。

 情報量だけなら、分厚い『ベルメゾン』の方が多いだろう。中身を見ると、ターゲットは30代の女性かなと思うけれど、「こういうファッションなら40代の人でもいいんじゃないの。今はもう年齢に関係ないから、自分がよければ60代でも70代でも着るわよ」とカミさんは言う。そうだろうけれど、やっぱり40代までの若い人向けじゃーないのかなと私は思ってしまう。それでもきっと、着てみたならば以外に年齢に関係なく似合うのかもしれない。

 しかし、洋服のように着てみなければ似合うか否か、あるいはサイズだけでなく着心地だってあるのではないだろうか。実際に物を手にしてみないと私は買うことができないけれど、若い人たちはこういうカタログだけで買うことに慣れているのかもしれない。そういえば、80歳の姉も若い頃、千趣会でいろいろな食器を集めていた。食器くらいなら通販でもいいけれど、着るものを買うことはちょっと抵抗がある。

 『通販生活』2010春号を見ていたら、こちらは販売カタログではあるけれど、中身の違いには驚いた。商品の紹介ばかりでなく、雨の日や夕方の交通事故から子どもを守るグッズの紹介の次のページに、「アフガニスタンの子どもたちを助けないと‥」のタイトルの記事が掲載され、1口2000円のカンパが呼びかけられている。次のページでは「『徴農制』の導入に賛成ですか?反対ですか?」の投票を呼びかけている。随分変わったことをしているなあーと見ていくと、落合恵子さんと西田敏行さんの対談が載っていて、「憲法9条は絶対に守るべきだと思います。いかに理屈をつけても、条文を帰れば、また現実を変えることになりますから」と西田さんが言い、「いま、とても自然に西田さんの口から憲法9条は守るべきという言葉が出て、驚いたというか、ホッとしたというか」と落合さんが笑って「そこが、また素晴らしい」と話している。

 この『通販生活』は単なるカタログ雑誌ではないようだ。記事の取り上げ方も内容も面白く読ませる編集をしている。昨年の総選挙で、石原伸晃候補に敗れた社民党の前衆議院議員の保坂展人さんを取り上げたり、「民主党の政策で、日本の子どもの貧困は本当になくなるのだろうか?」をテーマにした座談会を載せたりと、硬い記事が多い。特集記事だけを見れば、週刊『金曜日』並みのレベルの雑誌だと思う。毎日、ぼぅーとしているだけの私の興味を引いてくれそうだ。だから2年で960円は確かに安い。
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