名古屋市千種文化小劇場で演劇『12人の怒れる男』を観てきた。裁判員制度が始まり、その裁判や参加した人の感想や意見が報道されているから、そうした話題性もあってか満席だった。もっとも千種文化小劇場は客席が250席しかない。演劇は300人までの劇場が一番見やすいというのが私の持論だが、ここはピッタリの劇場だった。欲を言えば、足が曲がらない私には、もう少し前後の間隔が広いとありがたかった。
円形劇場は、四方に客席があるから、役者としてはやりにくいのではないだろうか。同じような円形劇場でひとり芝居を観たことがあるが、今回の芝居は12人いる。場面の交換は無く、休憩なしに2時間10分ほど続いた。昔、アメリカ映画で同名の映画を観たけれど、その演劇版であるわけだが、よく考えてみれば、初めから終わりまで、一部屋の中でのやり取りしかないから、映画よりも演劇に向いた脚本だったのかと観終わってそう思った。
審理が終わり、裁判長は陪審員に評決を出すように言う。12人が陪審員室に入ってくるところから演劇が始まる。ニューヨークのドヤ街で不良少年がヤクザで暴力的な父親をナイフで刺し殺したという、それだけ聞いただけでも誰もが絶対に少年が犯人だろうと思う。証言は全て、少年に不利なものだった。陪審員全員が有罪と評決してもおかしくなかった。ところがひとり、「有罪と言い切れるだろうか」と疑問を投げかける男がいた。
アメリカ映画の裁判では、弁護士も検事もよく陪審員に向かって自論を展開するが、陪審員が有罪あるいは無罪と評決すれば裁判長はそれに従い、有罪ならば量刑を言い渡すのだそうだ。もちろん、裁判長が陪審員の評決が間違いと思えば違う判決を言い渡すこともできるようだけれど、陪審員は素人でありながら人の生死を決められる、それくらい重い役割を担っている。だから、「有罪と言い切れるだろうか」と言った男は自分の疑問をみんなに問うていく。
その過程で、12人の様々な人柄や過去、差別意識や偏見、エゴが見えてくる。あの時の映画の場面と重なってくるが、映画よりもはるかに演劇は迫力があった。最初に疑問を投げかけた男は、映画ではヘンリー・フォンダがやっていたけれど、ヘンリーの印象が強く思い出された。検察が証拠としてあげたいくつかについて、「合理的疑い」があると、それぞれが次第に気付いていく。初めは11対1でしかなかったのに、10対2となり、検証すればするほど無罪と言う人が増え、6対6へと変わっていく。
最後は頭から「ああいう悪ガキは生かしておいたら、どんどん増えていく。今のうちに芽を摘む方がいいのだ」と決め付ける人や少年に父親を殴って出て行った息子を二重写しにしている人など、3人が残るだけになってしまう。そして最後には12人全員が「無罪」を、自分の責任で口にする。そう、なんとなくではなく、ケンカ腰の話し合いの末に、各自が自分でたどり着いた結論であることが大事と、この脚本が言いたかったことだと思う。
少年の父親殺しという設定になっていたけれど、それはむしろどうでもよいことで、人が人を裁けるのか、どうしても裁かなければならないのであれば、それなりの覚悟がいるし、誠意と努力がいる。裁判という特殊な世界だけでなく、日常の中にもそんなことがいくつもあるような気がする。
円形劇場は、四方に客席があるから、役者としてはやりにくいのではないだろうか。同じような円形劇場でひとり芝居を観たことがあるが、今回の芝居は12人いる。場面の交換は無く、休憩なしに2時間10分ほど続いた。昔、アメリカ映画で同名の映画を観たけれど、その演劇版であるわけだが、よく考えてみれば、初めから終わりまで、一部屋の中でのやり取りしかないから、映画よりも演劇に向いた脚本だったのかと観終わってそう思った。
審理が終わり、裁判長は陪審員に評決を出すように言う。12人が陪審員室に入ってくるところから演劇が始まる。ニューヨークのドヤ街で不良少年がヤクザで暴力的な父親をナイフで刺し殺したという、それだけ聞いただけでも誰もが絶対に少年が犯人だろうと思う。証言は全て、少年に不利なものだった。陪審員全員が有罪と評決してもおかしくなかった。ところがひとり、「有罪と言い切れるだろうか」と疑問を投げかける男がいた。
アメリカ映画の裁判では、弁護士も検事もよく陪審員に向かって自論を展開するが、陪審員が有罪あるいは無罪と評決すれば裁判長はそれに従い、有罪ならば量刑を言い渡すのだそうだ。もちろん、裁判長が陪審員の評決が間違いと思えば違う判決を言い渡すこともできるようだけれど、陪審員は素人でありながら人の生死を決められる、それくらい重い役割を担っている。だから、「有罪と言い切れるだろうか」と言った男は自分の疑問をみんなに問うていく。
その過程で、12人の様々な人柄や過去、差別意識や偏見、エゴが見えてくる。あの時の映画の場面と重なってくるが、映画よりもはるかに演劇は迫力があった。最初に疑問を投げかけた男は、映画ではヘンリー・フォンダがやっていたけれど、ヘンリーの印象が強く思い出された。検察が証拠としてあげたいくつかについて、「合理的疑い」があると、それぞれが次第に気付いていく。初めは11対1でしかなかったのに、10対2となり、検証すればするほど無罪と言う人が増え、6対6へと変わっていく。
最後は頭から「ああいう悪ガキは生かしておいたら、どんどん増えていく。今のうちに芽を摘む方がいいのだ」と決め付ける人や少年に父親を殴って出て行った息子を二重写しにしている人など、3人が残るだけになってしまう。そして最後には12人全員が「無罪」を、自分の責任で口にする。そう、なんとなくではなく、ケンカ腰の話し合いの末に、各自が自分でたどり着いた結論であることが大事と、この脚本が言いたかったことだと思う。
少年の父親殺しという設定になっていたけれど、それはむしろどうでもよいことで、人が人を裁けるのか、どうしても裁かなければならないのであれば、それなりの覚悟がいるし、誠意と努力がいる。裁判という特殊な世界だけでなく、日常の中にもそんなことがいくつもあるような気がする。