中学3年の担任の息子さんからお礼の手紙をいただいたので、「もし、こちらに帰られる時はお知らせください。3年3組のクラス会にご招待します。」と手紙を書いた。先生が鉄筆で書き上げ、印刷・製本してくださった「クラス誌」の復刻版を親戚の方に送り、息子さんに「渡して欲しい」とお願いしてあったものが届いたということだろう。九州で大学に勤めているとあった。
私が高校1年の時に息子さんは生まれているから、今年で58歳になると思う。可愛い顔をしたはにかみやさんだった。私は教師になると、生徒を家に呼んで食事していたから、先生と同じことをしていた。短気でよく怒ったが、教師として尊敬していたのだと思う。体育大会の短距離では体育の先生に負けないくらい速かった。
先生が生活指導を担当した頃は学校が荒れていた時代で、「夜遅くまで問題の生徒がいそうな盛り場を見て回っている」と言っていた。熱心過ぎて、家庭のことは放りっぱなしだっただろう。思い込むと一直線で、周りが見えていないところがあった。名古屋での会議の後で会った時、「先生、ご自分の身体を大事にしないと」と少し茶化して言うと、「自分のことなど構ってはいられんよ。それくらい、今の中学校は大変なんだ」と真剣な表情だった。
私は先生に期待されていたのに、高校の教師になって10年経た時、内ゲバに巻き込まれて死にそうになり、教師を辞めた。職を転々としながら8年後の41歳の時、地域新聞の発行に辿り着いた。そして10年後に首長選挙に立候補した。選挙事務所に先生とクラスの友だちがやって来て激励してくれた。結果は落選だったが、「頑張っているじゃーないか」と先生や友だちに思ってもらえればそれでよかった。
私たちの担任が亡くなられたのは何歳だったのだろう。クラス会には必ず出席してくださった。酒は強い方ではなく、すぐに真っ赤になってさらに饒舌になった。なんでも一生懸命の先生で、マイクを握って『白いブランコ』を歌ってくれたが、音程の外れた酷い歌だった。それがいっそう先生への尊敬になった。