友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

自分の全てを注ぎ込んで

2009年07月25日 00時22分25秒 | Weblog
 疲れ果てた。何でもそうなのだろうけれど、どんなに疲れるほどやっても、それが実を結ぶようなら疲れなど吹っ飛んでしまう。ところが逆に、ものすごく力を入れてやったことなのに、全く報われないとなると、疲れは2倍3倍となってしまう。

 今日は朝8時から用意にかかわり、8時15分には作業に取り掛かった。今年に入って同じ、お宅の庭で、3度目の挑戦である。13日から始め、20日には自前の削岩機ともいえる手作りの穴掘り器を使って、粘土の固くなった層を突き破るために悪戦苦闘した。4メートルほどまではあっという間に掘り進むことができるのに、それから先がどうしても掘ることができない。調べてみると粘土の固まった層があるように思う。

 そこで、自動車の動力を伝えるトランクの心臓部を用いて、穴掘り器に転用する道具を仲間の一人が考案した。この人はトヨタ系列の会社で設計担当の重役をしていた人である。確かに彼の考案した道具で穴を掘り進めることはできたけれど、一番の難関は石の駆除だった。始めに先週掘った場所では、これは私たちの感だけれど、水を用いて穴を掘り進めた場合は、どうしても細かい砂のようなものは持ち上げて流してしまうことができるが、大きなコブシ大の石となるとそういかない。これが問題であった。

 私たちが打ち込んだ塩ビ管は石にぶち当たれば、それ以上先に掘り進めることが出来ない。今日も初めに空けた穴は、4メートルちょっとのところから全く掘り進めなくなった。管の先が見えないので、間違っているかもしれないが、コブシ大かそれ以上大きな石があって、ただ石の表面を擦っているだけに過ぎないような事態が続いた。諦めて別の場所で再度挑戦してみるが、結果は同じだった。

 やはり4メートル半くらいの地点から全く進めない。粘土質の層は私たちが考案した道具で掘り進めることができる。けれども水の力では浮き上がってこない石をどうやって取り除くことができるだろう。ここに来て悲しいかな、お手上げである。昨年の秋に取り組んで、この家の庭で3箇所掘ってみたけれど、いずれも粘土質の岩盤にぶち当たり、なんとも無残な敗北を帰したところだ。

 だからこそ、今回は自分たちで考案した器具まで用意して挑んだのに、またしても跳ね返された。情けないというか悔しいというか、自然の力の前に何とまあ自分たちは無力なのかと思い知らされた。一生懸命で、持てる力の全てを注ぎ込んで臨んだのに、散々な結果しでしかないことに悲しいというよりも腹が立ってくる。あんなに用意周到に準備をしてきたのに、一体あれは何だったのか悔やまれるのだ。決して手を抜いたわけではないし、準備を怠ったわけでもない。

 愛してしまって、自分の全てを注ぎ込んだのに、全く予期せぬNOを突きつけられると、人は動揺を隠し切れないようだ。こんなにも愛していたのにという感情は逆に相手への怒りに変わり易い。千葉県の事件が本当はどういうことであったかは、わからないけれど、こんな風に個々の人間の問題までも踏み込んできたのかもしれない。それくらい、人間は分からない動物である。
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