友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「今日、一日だけはがんばろう」

2014年01月31日 18時03分27秒 | Weblog

 「今日、一日だけはがんばろう」。そう思って続けて来たと小保方晴子さんは言う。細胞に刺激を与えることで、様々な種類の細胞に変化できる能力を持たせる新しい万能細胞(STAP)を開発した30歳の女性科学者の言葉だ。凄い人がいる。ノーベル賞も間違いないだろうとか、現代科学の進歩は想像を超えているとか、驚くことはいっぱいあるけれど、私はこの発言に一番衝撃を受けた。

 「今日できることを明日に延ばすな」と、ベンジャミン・フランクリンは言った。聖書にもそんな言葉があったように思う。それくらい人間は、今日やらなければならないのに、「明日やればいい」とサボる。頑張ることよりも怠ける方を選んでしまう。私はその典型的な類だが、やっぱり凄い人は違う。「今日、一日だけはがんばろう。もし、失敗だったら止めればいいのだから、今日はがんばる」。そんな風になかなか考えられない。

 進んで苦しい道を行く人がいる。わざわざそんな茨の道を選ぶことはないのにと思うけれど、本人には、苦しいとか茨の道とかではないのだ。むしろ、楽しくてワクワクするようなことなのだ。充実していて、楽しくって、ワクワクしてしまうから、日曜日だろうと深夜になろうと気が付かないくらい夢中になってしまうのだ。恋愛に似ているなと思う。彼女の夢が上手に叶いますようにと祈りたくなる。

 これが自分の天性とか、これが自分の一生の仕事とか、言い切れる人は少ないだろう。今の職業も、「たまたま」の出逢いからに過ぎないだろう。もちろん世の中には小さな時からなりたいものがあり、それに向かって努力して、そのとおりになった人もいる。しかし、多くの人はいろんな事情から、「たまたま」出遭ったものを一生の仕事にしている。何が幸せなのか、何が不幸なのか、死んでみなくては分からないし、死んでも分からないかも知れない。

 生きている今を、精一杯に生きるしかない。今日、一日だけはがんばろう、そう思って。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きているって何?

2014年01月30日 19時03分07秒 | Weblog

 久し振りに孫娘とデートできた。彼女は女優の井上真央さんのファンで、真央さんが出演している映画『永遠のゼロ』を観たいから一緒に行こうというのだ。零戦乗りの映画だけれど、彼は常に「生きて帰りたい」と言っていたので、「腰抜け」「卑怯者」と呼ばれていた。そんな男が最後に、特攻隊員となって死んでいく。涙が流れて、流れてばかりいた。人の一生の物語としては誠に短く空しい。

 昨夜は名演の1月例会で、音楽劇『わが町』を観た。20世紀初頭のアメリカ、東海岸の小さな街に住む、2家族の子どもたちが結婚し、子どもを授かり、そして亡くなっていく、ただ、それだけの普通の、しかし短い人生の物語である。全編、セリフを歌って聞かせてくれるので、単調で盛り上がりに欠けていた。俳優たちや音楽劇を作った人たちは、それぞれに力のある人なのだろうけれど、物語が単調であるからなのか、今ひとつピンとくるものがなかった。

 途中から席を立つ人もいたし、コックリ眠りをむさぼる人もいた。私は、この芝居が何を伝えたいのかと気になって、最期まで緊張して聞き入った。私の解釈では、「人生とは何か」を問うているようだ。医者の息子と地方新聞の編集長の娘は、高校を卒業するとすぐに結婚する。それが当時の習慣だった。「素晴しい結婚式だった」と周りの人たちは祝福するが、実は直前になって、ふたりは結婚に対する不安から止めたくなっていた。

 結婚したふたりは農場経営に一生懸命で取り組み、成績を上げていく。ところが突然悲劇が起きる。ふたり目の子の出産の時、妻は死んでしまう。死んだ妻が現世に戻りたいと願って、自分の12歳の誕生日を見るけれど、人は忙しく生きているばかりだ。人はなぜ、先のことも考えずこんなにも忙しく生きているのかと彼女は嘆くけれど、結局、これが人生なのだと悟る。朝が来ればいつか夜になるし、春が来ればまた、暑い夏そして寒い冬へと変わっていく。小さな町、そこで生きている人々にそれぞれの人生があり、そのひとつ1つは尊く、夜空の星のように輝いている。けれど、生きているって何?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんな社会っておかしいよ

2014年01月29日 22時31分21秒 | Weblog

 小学校の若い先生が、勤務先の学校に「爆発物を仕掛けた」という文書を送ったり、職員室に火をつけたりした事件があった。以前にも若い先生が、勤務先の学校の窓ガラスを割ったりした事件があった。大学を卒業して先生になったばかりの、毎日が楽しく夢中で過ごしているはず時期に、どうしてこんなことを起こしたのだろう。ベテランの先生から「今、先生になる人は学校の成績がよくて優秀な人が多い。勉強ができる人はできない人の気持ちが分からないから困る」といった話を聞いたことがある。

 そういえば、私が懇意にしている医師に、「患者の顔も見ないし、身体に触れもしないで、パソコンの画面だけ見て、『はい、いいですよ』はないですよね」と、定期健診の時のことを話すと、彼は「今の医者は社会経験がないのです。勉強ばかりしてきて、病院の中では王様で、患者が何を思って病院に来ているか、考えたこともないんですよ。ぜひ、投書してやってください」と物騒なことを言う。大学進学が難しくなるほど、勉強には強いけれど、人を思いやる心を忘れてしまうのだろうか。

 そう思っていたら、冷凍食品から農薬が見つかった事件の容疑者が逮捕された。49歳の契約社員だった。妻子があるというのに、働いて受け取る手取りは20万円を切るという。テレビで「若い女性の貧困」が取り上げられていた。学校を出ても正規社員になれる女性は少ない。女性の6割から7割近くがパート労働だそうだ。朝から夜中まで、3つの職場を掛け持ちして働いても10万円にならないとあった。「将来の夢?考えられないです」とその子は言っていた。若いシングルマザーを雇う風俗業者の話もあった。

 いつでも自分の好きな時間に働けると、小泉純一郎首相は専門職に限っていたパート労働を拡大した。その結果、企業は賃金を抑えるためにパート労働を増やし、利益を確保してきた。役所も職員を減らしてパート労働に切り替えた。これから有望企業といわれる介護事業は、パート労働なくして利益は出ない。学業の優秀な人は奇行に走り、正規社員になれない多くの人は生活にも困っている。こんな社会っておかしいよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人はどうして権威に弱いのだろう

2014年01月28日 18時26分42秒 | Weblog

 人は自分たちが作り上げたものに縛られる。たとえばグループをつくり、リーダーを選べば、その人は権限を持つ。リーダーがダメだと言えば、よほど不服でない限り従うだろう。リーダー以外は皆平等なはずだが、「リーダーがいいと言っている」と虎の威を借りる人もいる。いちいちみんなで話し合うより、リーダーに任せておいた方が手っ取り早いためか、人はこういう仕組みをつくってきた。先日の掲示板の利用についても、町内会長が許可すれば掲載できるが、掲示板係りという役目の人がいて、会長に代わって掲示するので、許可の権限がその係りの人に移る。すると、会長から文句を言われないために、勝手に制限してしまう。

 どこの市にも文科系クラブの集まる文化協会があり、体育系クラブが集まる体育協会がある。文化協会に加入していれば、文化ホールや公民館などの公共施設で練習ができる。体育協会に加入していれば優先的に学校のグランドなど、公共施設が利用できる。協会に加入しているクラブには市から補助金も出る。町内会の私的な掲示板なのに、市の協会に加入しているクラブのお知らせは掲示するが、加入していないクラブは掲示しない。そのため不満が出るが、「公のものが優先ですから」と係りは言う。

 独自に練習場を持っていたコーラスクラブは文化協会に入らなかった。そのため、発表会のような大きな行事で文化ホールが使いたい時は、空いている日を待たないといけない。ゴルフクラブのように市の公共施設を使わないクラブも、「協会から抜けると2流クラブになってしまう」と言う人がいて協会に留まっている。人は人を見ずにその後にある権威を見ているのだ。市のクラブであろうと、私的なクラブであろうと、やっていることは変わらないのだから区別をつける理由はないように思う。

 むしろ、市の文化協会とか体育協会といった組織をなくした方がいいのではないだろうか。それにしても人はなぜ権威に弱いのだろう。「長」がつく人に敬意を払うことはあるだろうけれど、ひれ伏すような態度をとる必要はないはずだ。何か能力を持っているから、たまたま「長」の座にいるというだけのことだ。それでも人は権威を恐れ、権威に従うだろう。そういう仕組みを作ってきたのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報われない人

2014年01月27日 18時30分58秒 | Weblog

 本人は一生懸命なのに、それがなかなか報われない人がいる。市議選挙に立候補した友だちもそのひとりだ。友だちと言ってしまったが、会って話したのは5回しかない。歳も私より若いから、友だちと呼ぶのは失礼かも知れない。私は応援演説で「愚直なほどまっすぐな人」と評したが、おそらく間違いないだろう。他人のために骨を折ることは惜しまない。世話好きで、困っている人を見れば、助けずにいられない。

 こんな男が「市議になって行政を変えたい」と言うのだから、力になりたかった。愚直で正義感が強く、他人の辛さを自分のことのように考え、労力を惜しまない。議員としての基礎は充分にある。現状を把握し、解決策を導き出す能力は議員を務めていくうちに学ぶだろう。選挙で必要なのは、何をどうしたいのか、それをハッキリと伝えることだ。思いばかりが先走っても、伝わらなければ有権者は投票してくれない。

 個人演説会で彼はいきなり、「みなさんに謝らなくてはなりません。相談もせずに勝手に立候補し、みなさんを巻き込んで、本当に申し訳ありません」と言う。それでも立候補したのだから、決意と抱負を語り、ぜひとも議員にしてくださいと頼むしかない。当選したなら必ずこういう活動を行いますと約束すればいい。せっかく個人演説会に来てくださったのだから、選挙公報やポスターの中身を熱く語って欲しかった。

 自分が苦役することは構わないが、自分のために他人が苦労するのは辛い。そのため他人にお願いができない。しかし、他人は彼のためだけに応援しているわけではない。彼は「他人のために働く」ことを誉れと思っているけれど、それは同時に自分のためでもあるはずだ。議員になろうとするのは自分であり、その自分が人々のために働くのだ。何もかも自分で背負い込むのは、他人に自分を開けていない証拠だ。

 落選だった。残念だけど仕方ない。よい思い出になっただろう。家族のありがたさ、友だちのありがたさに気付いただろう。他人を世話していたつもりだったけれど、本当は自分が満足していたことも分かっただろう。頭でっかちで独りよがり、そんな性格が改まることはないけれど、でも貴重な経験だったことは確かなはず、これからの人生にきっと役に立つはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掲示板の利用について

2014年01月26日 18時37分59秒 | Weblog

 町内会の掲示板の利用について、意見が割れた。掲示するものは町内会の会長が許可したものという点ではみんなの意見は一致していたけれど、何を許し、何を許さないかということになると意見は様々だった。「町内の住民が持ってきたものなら貼るべきでしょう」と言えば、「何を持ってくるか分からないから、全てヨシではダメだ」「公共性があればいいのではないの」「いや、政治や宗教に関するものはダメだ」「物品の販売やいかがわしい会の案内もダメ」と続く。

 「市や町内会に関するものならいい」とひとつハッキリした。「それでは個人的な呼びかけのもの、たとえばコンサートがありますとか、読書会を開きますとかいった案内はダメと言うことですか?」。これまで一番多いのは市や町内からのお知らせよりも、個人的な催しものの案内だ。時々だけれど、ペットの犬や猫あるいはインコを探して欲しいという掲示もあった。公共のお知らせよりも個人的のものの方が、みんなの目を引くのだ。

 町内会の掲示板は、市が作ったものではなく、町内会費で立てたものだ。「住民のお金で作ったものなのだから、住民がもう少し自由に使えないのか」と言う意見もあったけれど、「それではトラブルのもとになるので、制限は必要だ」と言う人の方が多い。問題は個人的な掲示物をどう扱うかということに絞られた。「この際だから、市や町内会に関するものだけにした方が簡単だ」という極論もあったが、「制限を多くすればトラブルはないかも知れないが、広くみなさんに利用してもらうために作った趣旨から遠くなる」と常識論でまとまった。

 どうしてこんな些細なことでも揉めてしまうのだろう。利用したい人が利用しやすくする方がよいのに、トラブルが起きることばかりを心配する。誰だって火の粉は被りたくないから、制限という安全を選んだ方が楽だ。しかしそうすれば、互いが互いをけん制していくことになる。なぜ、政治や宗教はダメなのか、もっとおおらかにはなれないのだろうか。相手を信頼することはできないのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイボークの定期点検

2014年01月25日 18時13分55秒 | Weblog

 ペースメーカーを埋め込んだので、サイボーク人間になった気分だ。そのペースメーカーが順調に機能しているかの検査が半年に1回ある。始めに心電図の検査を受けるが、これは人間の時と同じだ。ベッドに仰向けになると、看護婦さんが「ちょっと冷たいですよ」と言いながら、左の乳の周りに吸盤をくっつけていく。冷たくてピクッとする。人間らしい感覚だと思っていると、「はい、終りました」と言う。10秒くらいだろうか、こんなに短くて異常は見つかるの?と思うけれど、「ありがとうございました」としか言葉は出てこない。

 次が診察である。長い時間待たされる。私の隣に、3歳くらいの女の子を連れたまだ20代かと思う若い夫婦が診察を終えて座った。ダンナが「車の運転はダメだって」と言う。カミさんは「ヨシ坊の運転でドライブに行きたかったのに」と答える。「今の仕事、向いてないな。何か新しい仕事探さなきゃーな」とダンナはしょげ返る。「ねえー、どうするの?どうやって暮らしていくの?心配していた通りじゃない」とカミさんはダンナに迫る。3歳の女の子は「ジュースが欲しい」と駄々をこねる。

 20代でペースメーカーを入れているのかと驚いた。運転できないとはどういうことなのかと気になった。これまでよりも長い人生をこれから生きていかなくてはならない。夫婦にとっても、女の子にとっても、大変な事態だ。そんなことを思いながら、目は手元の本の活字を追っていると、私の名前が呼ばれた。診察室に入ると、看護婦さんが「ベッドに横になってください」と言う。左胸のペースメーカーの上に聴診器のようなものを載せ、数字を読み上げていく。担当の医師はずっと目の前のパソコンの画面を見たままだ。

 「じゃーいいですよ」と看護婦さん。私は立ち上がって医師の方を見るが、医師は相変わらずパソコンを見ている。私は看護婦さんに「出て行ってもいいの?」と目で合図すると、看護婦さんはうなずく。私はここでも「ありがとうございました」と言って診察室を出た。医師はまだ画面を見ている。結局、担当の医師は私の身体に触れもせず、顔を見ることも、「何か不安はありませんか?」と声をかけることもなかった。サイボークの検査だから仕方ないかと思うけれど、それなら待たせずに機械的に検査する方法はないのかとも思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこまで必死になれるか

2014年01月24日 22時55分27秒 | Weblog

 友だちが市会議員選挙に立候補した。「応援に来て欲しい」と言うので、告示の前日までは2回ほど出かけた。地バン、カンバン、カバンはがないが、どうしても出たいと言う。聞けば、町内の自治会長を20年もやっている。町内の人々が全て投票してくれることはないけれど、地バンとしてはそれで充分だろう。政党や団体の支援がないが、もしあるようなら私は応援しない。知名度もないが、大方の候補は知名度がないから同じことだ。子どもではないから、選挙を戦うくらいのお金は持っているだろう。

 『ノーモア 立川明日香』を書いた週刊誌の記者がこの著書で、「市議会議員選挙というのは、きちんと選挙運動をすれば、誰でも当選できるんですよ」と、選挙コンサルタントの言葉を引用しているが、その通りだろう。地域で生まれ育った人なら、地域の人や同窓生が応援するし、年齢が若ければ若い人の票が入る。けれども、立候補者が「普通に頑張っている」ことがなければ、同窓生も若い人たちも投票してくれない。昔のように、地域で推薦したから、労組で推薦したから、投票してくれるような有権者は少なくなった。

 市の行事でバッタリと街のボスに出会った。その人は現市長の強力な応援者で、「市長にさせてやった」と豪語している。その人が「次の市長選挙に立候補しないのか?」と聞くので、「しません」と答えると、「アンタのように、辻々で演説していく選挙にしにゃーあかんな」と言う。私に対するおべっかだが、地縁・血縁に頼る選挙の限界を感じていることも確かだろう。4月が選挙だけれど、既に市長は座を利用して盛んに政策を話している。現職が強いのは、日常の行動が政治活動だからだ。

 友だちは「立ち遅れた」とか、「応援してくれる人がいない」とか、今更言ってもどうしようもないことを言うので、「過ぎた時間は取り戻せない。今、何ができるかですよ。やれることはただひとつ、あなたの思いをマイクで伝えるしかないでしょう。とにかく、死ぬ気でしゃべってください。必死さが伝われば当選できます」と叱咤激励する。現職議員の友人が応援に出かけてくれた。投票日まであと一日しかない。彼がどこまで必死になれるかである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幸い」と「辛い」

2014年01月23日 17時25分33秒 | Weblog

 中日新聞のコラム『中日春秋』に、詩人の吉野弘さんの詩があった。「幸い」と「辛い」の漢字は横棒があるか否かで、意味が全く違うことに注目した詩だった。「幸いの中に人知れぬ辛さ そして時に 辛さを忘れてもいる幸い 何が満たされて幸いになり 何が足りなくて辛いのか」。幸せも辛さも横棒1本のこと、ただの紙一重ではないか、そう言っているようだ。

 幸いも辛いも象形文字で、幸いは手枷の形がもとになっている。辛いは罪人に刑罰を加えるための鋭い刃物の形がもとになっている。旺文社の『漢字典』を調べるとそう書いてあった。全く意味が違うと思っていたが、幸いも辛いも刑罰にかかわって生まれた漢字なのだ。幸いは、手枷の刑から逃れられてよかったという意味となり、辛いは罰せられる苦しみからつらい、からいとなったとある。

 いつだったか、子育ての話の時、友だちが「生きるって辛いことね」と言った。彼女は子どもが生まれ一生懸命で育てた。キャリアウーマンだったから、夜寝る時は、母親らしく絵本を読み聞かせた。勉強についても口喧しく急き立てた。その娘さんは今、母となり、母親を反面教師にして子育てをしているという。孫娘は自分から絵本を読み、進んで勉強したいと塾へも通っているそうだ。

 とても活発でいい娘さんに育ったのだから、決して彼女の子育てが間違ったわけではない。子どもは親の思い通りにいかなかっただけだ。娘さんも結婚し子どもを持って、母親が何を子どもに求めたのかを理解できたのだろう。親は子どもにあれもこれもと多く期待する。でも結局、健康で思いやりがあれば他はどうでもいいのだ。それが分かるのは子どもたちが成人し、子育てが終った時である。

 子どもは親の期待や心配をウルサク思う。けれど、大人同士になった今は、親の期待や心配がよく分かる。親はいつまでも親を務めたいし、子どもは親の限界を認めながらも、「甘え」を拒否する子どもに戻ってしまう。私は高校生で両親を亡くしたから、もう少し親に「甘え」たいと思う時がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝くじとギャンブル

2014年01月22日 18時11分28秒 | Weblog

 みんなでお酒を飲みながらする話は、当たり障りがなくて、笑えるようものがいい。友だちにロト6を毎回買っている人がいる。実際に6億円当たったらどうするかが話題になった。彼は、「最近姿を見ないと思ったら、カリブにいると思ってくれ。カリブの海に沈む夕陽を眺めながら、高級酒をチビチビ飲んでいるから」と言う。すると口の悪い友だちが、「カリブじゃなくて、市民病院で青息吐息だったりして」と言うと、「ああ、その可能性も高い。くじは確率の問題だから」と笑う。

 巨額な金額が当たったりすると、「人生が狂ってしまうそうだ」。「その点で私は、そんなに長生きしないから、カリブで余生を楽しむよ」と友だちは言う。すると、「6億円もどうやって使うの?余生が短い人は使い切れないよ」と突っ込まれ、「ここにいるみんなに1千万円ずつあげても1億円しか使えない。5億円も残ってしまうよ」と追い討ちをかけられる。「大丈夫。1億円くらいなら使えるだろうから、まず5億円をみんなに分けてしまえばいいのよ。そうすると10人で分けてひとり5千万円。ウン、これなら私も夢が持てそう」と勝手に他人の宝くじを分配する人までいた。

 くじは確率とばかりに、「いろんな組み合わせを考え、計算して購入する」と友だちは言う。「それなら、確率を研究している大学教授がいるから、ふたりで組めば間違いないのでは」と提案するが、その教授のカミさんは「ウチのも宝くじは買うのよ。それで神棚に祭っているんだけれど、そのためかえって忘れてしまい、支払期限が過ぎてしまうのよ」と笑う。確率の研究者でも神頼みなんだから、ふたりで当選番号を見つけることは無理のようだ。そんな馬鹿馬鹿しいお話の結論は、「買わなければ、夢は実現しない」ということだった。

 宝くじを買う人は、当たらないだろう‥と思って買う。けれど、ギャンブルを行なう人は一儲けしようとするので、人によっては全財産をつぎ込んでしまう。ギャンブルは家庭崩壊につながる。それなのに、前東京都知事の石原慎太郎さんは東京都にガジノ特区をつくる提案をしていた。東京オリンピックに向けて、またカジノ構想が浮上してきているそうだ。夢はせいぜい宝くじ程度にしておいた方がいい。そういえば、私も宝くじ買ったはずだが、どこに隠したのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする