ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

桜のお墓

2008-04-25 | Weblog
桜というと思い出す場所がある。
京都、哲学の道の南端、若王子神社の前をもっと南に下って、細い道を迷いながら登っていったあたりだったと思う。急に開けた丘のような所に出て、そこに何十本もの桜の木が植わっていた。木はみんなまだ若く細かった。季節がいつだったのかも定かではない。花の季節でも紅葉の季節でもなく、夏か冬だったような気がする。一本一本の桜に、名札がかかっていた。名札にはそれぞれ名前と享年。数ヶ月、3歳、5歳…。
名札をたどりながら、そこは、幼くしてなくなった子供たちのお墓なのだということに気がついた。成長を見届けられなかった親たちが、祈りと願いをこめて植えたのだろうか。ただ、あまりにも陽のあたらない暗い場所だった。この桜たちはここでちゃんと成長していくのだろうかと心配になった。
人影もなかった。何十本もの桜だけが、ただ静かにすっくりと立っていた。私は冷気を感じてそそくさとその場を離れた。たった一度、たった数分の滞在。でも、桜というと私はなぜかいつもその場所のことを思い出す。
哲学の道辺りに行くとあの時迷い込んだ道を探すが、わからない。地図を調べてみたこともあったが、わからないままだ。
花の季節になると、あの場所は死者たちや生者たちでにぎやかになるのだろうか。親たちは子供の木の下で酒を飲み交わしたりするのだろうか。
「願わくば花の下にて春死なん」と歌ったのは西行だった。満開の桜の下にいると死にそうな気がしてくる。桜の下には死体が埋まっている。坂口安吾も梶井基次郎も書いていた。桜と死者は似合っている。桜はやはり妖木だ。