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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログは、虚飾の世界か? たんなる日記か?

2012-09-19 | ブログ

ちょっと、書き足りなかった分をしつこく追加します。

脚色、演出、は、ウソになるのでしょうか?
ピカソの描いた、ありえない顔は、ウソになるのでしょうか?

よくわかりませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「わたしは、今まで一度もウソをついたことがない」
という人がもし、いると、そんな人は、大嘘つきのコンコンチキだと確信している。

犯罪者が、「わたしは、殺そうと思ってやったわけではありません」
と申し開きをしても、結果的に相手が死んでいたら、これは殺人なわけで。
動機や状況を考慮すると、罪の重さや刑期は違ってくると思うけれど。

「わたしは、盗もうと思ってやったわけではありません。いえ、やっていません。
気が付くと、わたしのバッグの中に、商品が入っていたんです」
そういう人は、盗人になるんだろうか?
結果的には、ドロボーである。
誰かの陰謀、悪意で、こそっとバッグにねじ込まれた可能性もないわけではないかも。

なにが言いたいかというと、
自分ではどう思おうが、結果や、客観的事実が多くを物語るということ。
(冤罪は深刻な社会問題だけれど)


今も昔も、苦手で、大嫌いな勉強。
小学校の高学年の頃、個人面談で、母が担任の先生に
「スローは、勉強しとらん。お母さん、スローが、もっと勉強するように、家庭でもバックアップしてください」
みたいなことを、言われたそうだ。
だからといって、その日から、母がわたしにハッパをかけたかというと、
母は、なんと、
「あんたの学校に行くのは嫌だ。先生に、お小言を言われるから」
と、逃げの一手。
こんな母親、ある?
そういいつつ、無言のプレッシャーが、常々、わたしのまわりには渦巻いていた。

で、当時、「サボっている、成績が悪い」と先生から責め苦を受け続けていた。
でも、(学校で指導されていること以外には)、特別にわたしは、これといったことはしなかった。
ある日のこと、先生に突然、言われた。
「スローさん、頑張ったね。ようやく一生懸命勉強したことが実ったようで、よかったね」

は? 
先生って、なにをいったい見ているんだろう? なにを基準に生徒の行動を評価するんだろう?
小学生のわたしは、とても不思議だった。
行動はまったく同じなのに、叱られたり、誉められたり。
大人って、いったい、なんだろう?
それが、わたしの大人不信、先生不信の始まりだった。

先生は、結果だけを見て判断しているということだ。
プロセスは、まったく見ずに、知らずに、成績の結果だけを見て、評価する。
わたしは、子供なりに思った。
なあんだ、結果が全てなのね、と。

でも、身に覚えのない結果に振り回され、わたしは、困惑した。
おそらく、今、想像すると、当時、わたしは、踊り場現象で、スランプ、停滞していたのかも知れない。
結果が、即、出るタイプではなく、ちょっと遅れて出るタイプだったのかも知れない。
自分で取った行動を意識していないので、結果をつきつけられても、なんのことか、わからず、
はあ?と、なったのだろう。

無意識の行動でも、客観的に結果が出れば、他人は、それで判断する。
そういうことだ。

ちょっと、回り道くねくね、遠回りしすぎた感があるが、
自分ではどう思おうが、他人は、他人の目で見るってことだ。

自分=主観的 他人=客観的

なので、「わたしは、ブログにウソは書きません」と、鼻を膨らませて必死で言ったとしても、
自分の主観的な世界でのお話なのだろう。
他人は、ウソであろうが、本当であろうが、リアルなわたしを知らない人には、どっちみち、わからないんだし、
リアルな人から見れば、あれれ?となる。

例えば、わたしが、もし、仮に現役の東大の教授だったとしたら、
「勉強が嫌いで苦手だ」と言っていることは、これは、ウソではないにしても、
誤解を与える書き方であり、客観的事実を歪曲しすぎている。
(まあ、東大の教授じゃないので、いいけれど)
ノーベル賞を受賞している人のなかには、「得意科目以外は、大嫌いで苦手」、ということもありえそうだが。

と、また脱線して、本線が何だったか、わからなくなってきた。


ブログというものは、読んでくださる方の目を明らかに意識したものであるが、
わたしは、書いているうちに、自分の世界に入り込んでしまい、まわりの目はどうでもよくなってくる。

が、自分の書いたものは、最後の最後まで責任を持つべき、という意味は、よくわかる。
あの日の、あの記事、あれ、あの出来事、一生忘れません、と、
誰かが、わたしのブログ記事を読んで、思い続けていたりすると、
それが、読後の感想として、マイナスの憎しみの感情であれば、そんなこと、わたしは、責任を取る気はない。
記事の内容に関しては責任は取るとしても、感想の責任までは負いかねる。
(ニュースや人名、出来事など、思い違いや、間違ってたりしたら、すみません。
→たぶん、本人は気づいていないだけで、多くあるだろう)

不特定多数の他人の目を意識して書くとすると、気が重くて、一字だって書けない。
第一、哀しいかな、そんな、多くの人が集まる、影響のあるブログではない。

なので、
いつものように、お気楽に、マイペースで、お気に入りの自分の世界で戯れていると、
時が経つのを忘れる。

といいつつ、いつも出かける真際ぎりぎりまで、時計とにらめっこ、時間に追いかけられながら、
ブログ更新に取り掛かっている。

やはり、人間は、矛盾する生き物だ・・・
などと、話がバラバラになると、またまた、安易に言ってみる・・・。

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明と暗・ぶーたれまくり

2012-09-18 | 日々のこと

せっかくわたしの文章の先生に、素直になって幸せそうでよかったね、と誉めていただき、
「嬉しいです」と、顔を赤くして言ったばかりなのに、
その舌の根も乾かないうちに、また、なんなんですが・・・。
(と書くと、また、べつの人には、「こら! なんなん?!」と、お叱りを受けそうですが)

娘夫婦が無事、東京に帰り、快い疲労感?に身を任せていたところ、
昨夜、ゴルフから帰ってきた夫、早速、エアコンをがんがん、
テレビをがんがん(しかも大っ嫌いな番組)、音量すごい、
食べる時の音、べちゃぺちゃ、犬よりすごい、・・・ああ・・・もう・・・だめ・・・

ほのぼの、うっとり・・・も現実なら、がんがん、ぺちゃぺちゃも現実。
昨夜ばかりは、本当に、キーンと鳴るアタマを抱えて、夕食の後片付け後は、早めに二階の自室に退散した。
(そう書くと、「ほんとうに、キーンと鳴ったのか? そうなら、一刻もはやく受診せよ」と助言されそうだが。
→この、いちいち注釈・展開、そろそろ、やめようと思っている・・・)

ご近所ブロガーさんのご主人さんも、同じようにエアコン依存症のようす。
うちだけじゃ、なかったんだ。
そのブロガーさんは、ご主人の身体のどこかがおかしいのでは?とおっしゃっている。
なるほど、それも考えられる。

今朝も、汗を噴出し、暑い暑いと言っていた夫。
「ヒマラヤ生まれと、ハワイ生まれの、違いやねえ」、と、肌寒いわたしは言ったのだが。
お互い、自分が正しくて、相手がおかしい、と思い込んで、相手を責めている、相手を理解しない。
別のなんらかの原因で、暑いと感じるのであれば、仕方のないことだ。
なら、相手も、「俺は、病気だから、人より暑がるんだ」と自覚すればいいものを、
「おまえが、おかしいんだ」と、自己肯定オンリーに回るのは、いかがなるものか。

テレビも、そう。

父の晩年、かつて、ボリュームを大きくしてテレビを観ていた時期があった。
老化により、聴力が低下しているためだったということは、今はよくわかる。
当時、そんなことはわからない、若いわたしが、実家に帰ったときに、「テレビの音が大きい」と言うと、
なんの文句も言わず、音量を下げていた父。
今、思えば気の毒なことをした。

夫も老化か?
いや、違う。お酒を飲んで、酔っ払うと、聞こえにくくなるのだと思う。
しかも、今より若い、ずっと以前から、ボリュームは大きい。
「老化で耳が聞こえにくい」と自分で正当性を主張し、聞く耳を持たず言い切る。
「老化」ではなく、「酔っ払って」だろう。
あくる朝に連ドラを観ようとテレビをつけると、いきなり大音量で、
32ぐらいまで音量が上がっているのを、慌てて、わたしは20ぐらいに下げて、テレビを観る。

そして、テレビ番組の好みがまったく違う。
昨夜は、特に、昔の時代劇の再放映で、女性蔑視、甚だしいシーンが続き、むかむか、オエオエきていた。
延々、そんなシーンを大音量で見せられ、エアコンはガンガン、とどめは、あの食事中のぺチャぺチャ犬音。
わたしは、「ムンクの叫び」そのままの顔、手ぶり。
しっかりアタマに、ムンクのあの絵画がはっきり見えた。
(さっきも書いたのに、何度も繰り返し書いている。
これまた、文章の達人に指摘されそうだ)

少し前までの、楽しい時間が、吹っ飛ぶ、というよりは、否定され、消滅。
この現実なくしては、わたしにとって幸せな楽しい気分を味わうことはできないんだ、という、絶望感を
いまさらながら味わった。


生きるとは、
毒と薬が同時に作用するかのごとく、
好ましいことと、好ましくないことが、同時進行する。
それらは、一体化していて、霜降り肉の肉と脂が分離しにくいように、ぴたっと張り付いていて、離すことができない。

嫌なことだけを、自分の人生からは隔離させることは出来ない。
良いこととセットになっている。
世の中の出来事もそう。
裏と表、明と暗、光と影、陰と陽、必ずセットになっている。
急激な発展の裏には、取り残された陰の暗部がある。
栄光の歴史の陰には、悲惨な事実が隠されている。
発展した超大国は、侵略行為なくして語れない。

なので、日常の、やれ、テレビだの、エアコンだの、ぺチャぺチャ音だのは、
じつに、かわいいものなのである。
(と、自分に言い聞かせる・・・)

自分が大事にしていること、重きを置いていること、本筋はなにか。
枝葉に気をとられて、くだらない、つまらないことから離れられないのは、時間の浪費だ。

小さなことには目をつぶり、大きな目標に向かって、邁進しよう。
大きな目標って、いったい、なんだ?
それは、つつがなく、毎日を送れること・・・そのためには、多少嫌なこともガマンすること、
そして、できれば、ちょっぴり、目標を立てて、それに向かって着々と努力し続けること。

そのためには、基本的には、まずは感謝のこころ。
そして、ぶーたれる。(→注釈:ぶつくさ文句をいう)

そうすると、ひとしきり、ぶーたれても、赦(ゆる)されるような気がするのは、自分に都合が良すぎる解釈?

 
ということで、さて、今日も、楽しい一日が過ごせ、
未来にほんの少しでも希望が持てることを祈って。

 

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ほのぼのパーティ

2012-09-17 | 日々のこと

以下は、昨夜、床に入ってからケータイで入力したもの。



今日は、なんと晴れがましい日。
パソコンには近寄らず、電源もつけず。
あんなに悩んでいた、オサンドン、
なんと、みんな(上娘夫婦と下娘)といっしょに、スーパーに買い物に行き、各自、両手にいっぱい買い物。
一週間もしないうちに我が家に訪れてくる、おっちゃん軍団の夕食の買い物も、ついでにした。

手分けして、それぞれ、料理を受け持った。
下娘は、本格的ドライカレーを受け持ち、わたしは、海鮮サラダ、
婿は、チジミみたいなポテトフライのようなもの、
上娘は、婿の作った料理の、最後の一枚を焼いた。(一番、楽)


---------------------------


ここらあたりで、入力は力尽きていた。目が覚めると朝。
↓ここからは、今朝、入力。


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お誕生日パーティのように、盛り上がった。
なんだか久しぶりに、楽しかった。


海外の映画やドキュメンタリーで見た、老後、ご近所さんのお年寄りさんたちと集う図か、
子供ファミリーたちと、週末、家に集まってパーティをしている図を想像した。


各自、一品ずつ担当パーティ、悪くない。


キッチンは、いつもは、ごちゃごちゃ、いろんなものを置いて手狭だが、
同時に3人は、楽々入れることが判明した。


無国籍料理4皿、そしてワイングラスには、各自、自分の好きな飲み物を入れて、乾杯!!
ステキな夜だった。


不得意な料理も、自分ひとりで、背負うのではなく、みんなでシェアーすると、こころが軽くなった。
それ以上の喜びが味わえた。
力むことなく、肩の力が抜け、見栄を張ることなく、ほのぼの、こころあたたまる、ひと時を過ごした。



トップ画像は、下娘が同僚の結婚式に参列して、もらってきたお花。
(なんと、同僚の参列者の中で、親戚を省くと、彼女は紅一点。
男性が、ほとんどを占める職場だ)


 


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ビミョーなブログ・ラグ

2012-09-15 | 暮らし

ごっつん、がっつんと、あっち、こっちを打ちながら、どうにか生活している。
そういうと、また、真に受け、心配してくださる方が現れて、
「すぐに、医者に行きなさい、打撲や傷の治療を受けなさい」なんて、言われそうだが。

わたしの文章のスタイルは、多少、クセがある。
お気づきの方は、お気づきかも知れないが、誇張、演出、効果ねらいの要素が盛り込まれている。
勝手に本人より先に、筆がどんどん進んでしまい、
自分では、えへへ、、、あらら・・・ここにも入ってしまっている・・・なんて、苦笑いしているが、
お読みになる方は、どれが本気で、本当で、どれが、演出で・・・なんて、わからないかも知れない。
少なくとも、わたしは、アリエッティそのままではないし、あれは、架空の作り話のお話なのだから。

なので、掃除をしなくても死なん、と、わたしは書いているが、
ほんとうに、そんなに汚い部屋ではない。
キレイ好きな人や完璧主義の人の目から見ると、汚い、だらしない部屋、家だろう。

娘の友だちで、ホコリの混じった空気を吸うと、咳が出る子がいた。
わたしは、彼女が来ると、戦々恐々。

こほん・・・こほん・・・コホン、、コホン、、、

彼女は、ウチに二回ぐらい来たことがあるが、二回とも咳をしていた。
あの子は、リトマス試験紙のようで、うちの汚さを測るバロメーターのごとく。

かくいう、わたしは、第三子を産んだすぐ後、喘息を発症した。
長期入院して隔離検査をした結果、ハウスダストが原因だったようだ。
そのとき、病気がある程度安定するまで、夫の実家に身を寄せたのだが、
義母は、ものすごく神経質になって、家中を消毒し、病気の原因であるホコリを消滅させようと、必死だった。
精密機械工場や、医療機関の滅菌室じゃあるまいし、一般家庭で、そこまで殺菌するのは、無理。
でも、彼女は、とても頑張っていた。
(お世話になった。いま、思い出しただけでも、感謝、感謝・・・)

ハウスダストといっても、極端なものではなく、通常の生活空間に混在しているものだ。
たまたま、連続の出産と、転勤、引越しが、毎年、続いたので、身体を壊したのではないかと憶測する。

まあ、それはともかく、わたしは、ハウスダストが天敵なのだが・・・
長い月日を費やし、病気も落ち着き、今では、ハウスダストと共存共栄する家で、ご機嫌よろしく暮らしてる。
(仲良く共存共栄しすぎか・・・)

 

と、掃除も無事、済ませ、ここで、余裕があるので、
しつこく、書き続けます・・・・。

 

なんやかんや言っても、わたしは、どうにか、やっていっている。
少々、難はあるかも知れないが、わたしなりに、自分の好きなテイストの空間を創りあげている。
ダイニングから遠く向こうに見えるウインドウ・ピクチャーは、けっこう、気に入っている。
緑は、こころを和ませる、癒し効果がある。

わたしは、自分のことを開けっぴろげに書かない、と、ある方からご指摘を受けた。
そう、なんです。
わたしは、自分を開示する分野を決めている。
開示するのは、マイナス部分。
プラスの部分は、言わない、開示しない、公言しない。
言っても、自分が楽しくなるわけじゃなし、というか、むしろ、気分がよくない。

ああ、わたしって、ダメなひと・・・
そういう陶酔感のほうが、わたしには、快感なのだ。
良いと自負している部分は、ひとが聞くと、「何て、嫌なヤツなの・・・」と感じられると確信している。

懺悔の逆だ。
自分の良いと思うところは、思い上がりすぎて、公開できない。
(ところどころ、抑えきれずに噴出してしまっているそうだが)

嫌な部分は、本当の自分ではあるが、いくらかデフォルメされて表現されているので、
いつの間にか、本当の自分を離れ、一人歩きしている。
一人歩きした、へんな自分と遊んでいると、とても楽しい。
その、へんな自分と遊んでいるところ(ブログ)を、不特定多数の人に、見られても、なんの支障も差し障りもない。

心象風景は、実際の風景とどうリンクするか。
ブログで、もう一人の自分と戯れているだけなので、リアルライフを一緒くたにしてしまわれると、
多少の不具合が生じる。
その部分、リアルとブログに多少のズレがあること、ブログ・ラグを強調すると、
リアルなわたしを知らない、ブログでしか、わたしをご存じない方に、
不信感を抱かれる。
なあんだ、虚偽の世界も混じっているのか・・・と。

虚偽ではないのだが、ぴたっと、まるまるリアル世界の話でもない部分もある。
どう言えばいいのか、難しい。
リアルな世界を、わたし=スロー、という表現者が書くと、ピカソの絵みたいになるのだ。
そのピカソの絵を見て、目の位置がおかしい、身体がへんだ、と言う人は、それはそれで、正しい。
襟を立てて、シャツを着ている人に、「あなた、襟が立っていますよ」と注意するようなもの?
おんぼろファッションで、穴あきジーンズを着ている人に、「あなた、穴が開いていますよ」と指摘するようなもの?自分で造語を作って用いた時に、「そんな言葉は、日本語にはありませんよ」と、お叱りを受けるようなもの?


ブログネタと、一口に言ってしまえば、それまでだが。
たかが、ブログではあるが、わたしは、このブログで、自分を救済している。
救われている。
だって、楽しいから。
特定の人を誹謗中傷したりするのはよくないが、そんなことは、一切、する気もないし、
したところで、楽しいどころか、マイナス効果しかない。


ひとしきり、ぶつくさ書いた。

さて、・・・今から、オサンドンの材料を買いに、スーパーに買出しに行ってこようかな。
ごく普通のことも、ふつーに、やってます。わたし。
(わざわざ、食品だけを、買い物のためだけに買いに行くのは、久しぶりだが)

と思ったら、どえらい突然の雷雨。
娘夫婦に出す食事・・・おもてなしどころか、あり合わせのものに、なってしまう可能性が出てきた。

アリエッティの母だから・・・しかたないかあ・・・

 

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サボリ病との対峙

2012-09-13 | 日々のこと

昨日の記事、姫母をお持ちのブロガーさんご自身から、コメントをいただいた。
わたしの妄想癖に、ちょっとへきへきされたように感じた。
ごめんなさい。

わたしのアタマの中は、いつも、移動動物園か、万華鏡。
一歩先の、一秒でも早く対処しないといけないことを控え、ぎりぎりまで遊んでいる。
というか、いつも、遅刻している。
今も、明日、上娘夫婦が東京から連泊で、やって来るというのに、
今日の、今しか、在宅で掃除する時間がない、というのに、こんなブログに、カチャカチャと入力している。

掃除は、明日の夜、彼らが家に到着する直前の、1時間前からスタートする予定だ。
この予定は、必ず、遅れが出る。
余裕をもって、前倒しで行動するのが、通常、正しい。
しかも、掃除は、本来、明るいうちにするものだ。(「夜に掃除すると病気になる」と、昔の言い伝えにもある)
が、身体が硬直して動かない。なのに、キーを打つ指は、すいすい動く。
これは、一種の病気だ。
サボリ病が巣食って久しい。

掃除なんぞしなくても、死なん。
前にお盆後に、彼らが来たときは、目一杯、フルパワーで頑張り、非常に点数の厳しい長女に、
「キレイにしているやん」
と、高得点をゲットし、奇跡的に誉められた。
それで、一気に力が抜けて、サボリ病が再発症した。

おそらく、今回は、彼らを落胆させるだろう。
わたしの、ギリギリになっても動かない身体は、ますます重症化し、
本人たちは、明日の夜、到着することになっているが、
(夜は、一日仕事をこなした後でもあり、東京からの長距離移動の疲れもあり、また、暗いので、
あんまり部屋の中は見えないだろう、と、迎える時、掃除してなくてもいいか~と無理やり、こじつけて考えて)
「次の日の朝、ゆっくり遅くまで寝てなさいね」、と優しく言って、
寝ている間に、掃除をしよう・・・と企んでいる・・・が、おそらく、無理。

ほんのちょっとのことなのに、なぜ、こうも、身体が動かないのだろう。
それは、根底には、「掃除ぐらいしなくっても、死なん」という気持ちがあるからだ。
そして、気持ちが、たるんでいる。身体も、たるんでいる。
(たんなる、掃除ギライという見方もできる)

娘だけなら、まったく、どんなに部屋が散らかろうが、汚かろうが、なにを言われても気にならないし、
(いや、じつは、少し気になるので、少し、キレイにする)
帰省してくることをこころから喜んで、待ち遠しく感じるのだが、
婿がいっしょ、ということを聞き、その直後に、とたんにうなだれてしまった、わたし。
ああ、なんで・・・??
彼は、この上なく、いい婿さんだ。
世界中を探しても、これ以上、娘にマッチした婿さんは、いない。
なのに、家に連泊となると、漬物石をどかっ~んとアタマに載せられたようになるのは、なぜだろう?
あわわ、落ち着かない・・・
(わたしは、なぜか、「アリエッティの母」と、婿さんに言われている。いまだ、意味不明)

きっと、そのうち慣れる。あんな、いい子だもの。
(彼が、うちの汚さに慣れる? 
わたしが、彼がいても気を使わずに、サボリ病を温存し、汚いままの部屋にしておくことに慣れる?
それとも、わたしが、がんばって掃除をすることに慣れる?)
子供が生まれたら、今の状態が懐かしいぐらいになるだろう。

と、掃除をしたくない、というサボリ病は、婿さんとの葛藤でもあった。
(婿さんは、サボリ病のダシに使われているだけのような気もするが・・・)
したくないが、しなければいけない、でも、めちゃくちゃ強い強迫観念でもない、
だから、プッシュするパワーが足りず、モチベーションが背中を押さず、
このように、パワーがたまるまで、ブログタイム、その他で、パワー・チャージしている。
が、スケジュールからいくと、今、掃除をしないと、もう、する時間はない。

さて、こんな短時間では、チャージできない。
ケータイの電池残量が少ないまま、出かけるようなものか。

持ち時間、2時間のうち、1時間をブログに使ってしまった。
さあ、出発するまでの、残りのもう1時間、これを掃除に使えるか?

今日、帰宅後か?(絶対、無理)
明日の朝か?(おそらく、無理。が、チャージ次第で、ありえないこともない)
明日の夜、直前か?(たぶん、その線。だけど、時間切れが見え見え。前倒しの可能性あり)
明日の夜中か?(ひょっとしたら、非常識に、体内時計が狂って、ありえる? いや、ない)
明後日の朝か?(もう、知らん)

ぐだぐだ言ってる間に、掃除はできる。(はず)

パワー・チャージに手間隙かかる、わたしのサボリ病、日増しに重症になっていく。

というか、それ以後の滞在中の、オサンドンの準備、まったくしてない・・・。
どうする?

 

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 トップ画像は、「借りぐらしのアリエッティ」より。


ほどなく開場、地獄の恐怖劇場、入場待ち列

2012-09-12 | 暮らし

文章を書くのが上手な人は、なにを書いても面白い。
自分にはあまり関心のないコトも、関わりのないコトも、惹き込まれるように読んでしまう。
ご近所ブログをひと回りして、そう感じた。

そのひとつの原因として、描写が上手い。
リアルに、目の前に繰り広げられているかのごとく、ありありと迫るものがある。
オデコにTVカメラを固定して、突撃取材に行くかのごとく。
大手海外メディアと提携し、大自然の営みを映像でダイナミックに追うかのごとく。

わたしの記事は、どちらかというと、胃カメラサイズかも。
はい、鼻の穴ですよ~。喉を通ります、食道ですね~。胃はキレイですよ~。
はい、引き返しますね~。

チマチマしていて、超個人的。

まあ、それはそれで、個性ということで、雑に片付けて・・・


お姫様を母親に持つ、ブロガーさんが、わがままいっぱいのお姫母の在宅介護で悪戦苦闘されている。
日々、その様子、心理葛藤がブログに記されている。

それを読むと、大変だなあ・・・と、つくづく、しみじみ、思う。

わたしなら・・・どうなるんだろう?
シュミレーションしてみる。
我が母なら、義姉、姉、わたし、の3人で手分けということになる。
「あんたの家、あんたの介護、世話は、3人の中では一番悪い」と母に言われたと、仮定する。
「あんたのとこが、一番いい」とは、仮定する必要がない。ありえないから。

在宅ケアは日にちを三等分している(「たらい回し」とも言う)だろうから、
わたしのところだけ、早く切り上げるわけにもいかず、ノルマは果たさなければならない。
母一人だけのために振り回されるのは、かなわないので、義母や孫たち(生まれて間もないと仮定する)と
いっしょに、同時に面倒を見る。
託児所 兼 在宅ケア施設。
老人たちが、ぎゃーぎゃー騒ぐ、わめくとする。
知りあいの先生が、「そういうときは、お手伝いしますよ、おとなしくさせてあげますから」と言ってくださるが、
お手伝いしていただくようなことになっては、たいへんだ。
わたしは、先生のいう「お手伝い」の内容を知っている。
廃人になるスピードを速めるだけだもの。

孫たちが、ぎゃーぎゃー、暴れまくって、いたずらしまくって、走り回るとする。
ケガをさせてはいけないので、それだけは注意するが、あとは、動物園の檻が、家屋全体のようなもの。
好きに遊ばせてあげたい。
これに関しては、おとなしくさせてもらう手助けは必要としない。
多少のマンパワー・サポートは必要ではあるだろうが。


もっと、真面目にシュミレーションすると、
わたしの母なら・・・
在宅ケアで、ヘルパーさんや、母が自分で雇った、お気に入りの人を混ぜて、世話を頼むだろう。
いよいよ、とことん自立できなくなるとすると、
どんなに文句を言っても、病気の場合は病院に入院か、病気でなければ、ケア施設に入所ということになるだろう。
その費用を、3人で(話し合いの結果、折り合った割合で)、持つということになるだろう。
「とことん自立できない」、と、「少し自立できない」、の、境目がいちばん、ややこしい。
まだらボケも、そう。

ご主人のまだらボケのせいで、暴力をふるわれている、おばあさんがいる。
紫の大きなアザをつくって、息子夫婦の家に逃げ込んだり、
逃げ回る途中なのか、義母の家の玄関に靴の片方を落としていったり、
修羅場の毎日を送っておられる。
お二人とも、夫の実家のご近所の方で、30年ぐらい前から、わたしは存じている。
こんなことになろとうとは。。。。痛ましく、お気の毒である。

義母の場合は、どうだろう。
いよいよ自立できなくなったとき、どういう状態なのか・・・・
おそらく、義母は、自分の道を自分で決めると思う。
その道をわたしが、承諾するかどうか、だ。
(夫は、どんな道であれ、無条件で承諾するに決まっている)
入所や入院なら、当然、OK.
在宅ケアの場合、多くのヘルパーさんに支えられ、お世話することになるだろう。
その頃は、義母は、身もこころも、とことん弱っていることが予想される。
認知症を発症し、まったく別人格になって、皆を困らせることも考えられる。
そのときは、前述の知り合いの先生に、相談しよう。


けっこう、いい加減な、わたしの性格。
楽天的だということでは、済まされないとは思っている。
最悪の事態を予測し、それを回避するためには、どうすればいいか、
あらかじめ、回避策を検討し、準備しておかなくてはならない。
それは、よくよくわかっているのだが・・・
なるように、なる。
その兆候が見えてから、考えよう。
と、崖っぷちの場所で、つま先立ちしながら、小指を立てて、カップを持って、お茶してるような、かんじ。
揺れで、お茶が、ちゃっぽんと、顔にかかるかも知れない。

時折、風が吹いたり、自分の身体が傾いたり、揺れたり、アンバランス状態になりつつ、
おーっとっと・・・今のは、ヤバかった・・・とか、言いながら、
ゆらゆら、つま先で立っている。
まだまだ本格的に大変な時期が先にあるのに、序章にも来ていないのに、
地獄恐怖劇場の入り口で、不安顔で順番待ちしているようなかんじ。

劇場からは、憔悴し、疲れきった表情の人や、晴れ晴れしたような、すっきりしたような人、顔色のない人、
いろんな人が、ぞろぞろ出てくる。
そんな人を見ながら、どんどん順番は近づいてくる。
順番を待ちながら、おしゃべりしてたり、持参の水筒のお茶を飲んだり、
代理人に順番を取ってもらって、ちょこっと抜け出したり。
(抜け出したまんま、順番がきて、開場、開演になっても、なかなか帰ってこず、
回りをハラハラさせたり、苛立たせたり・・・)

自分の親、義親、そして自分、それぞれの人生、どうなるんだろう。
恐怖劇場への順番を待っていると、子供や孫が、「おばあちゃん、がんばって」と、差し入れをしてくれたり。


苦労性というのがあって、そういう性分の人は、ずっと苦労が付きまとうそうだ。 
苦労のネタを考えれば考えるほど、また、新たな苦労を呼び寄せる。
逆に、幸せな人は、幸せを引き起こすらしい。
不幸な人は、不幸な人と自然に寄り集まり、幸せな人は幸せな人と集う。
不幸のスパイラルと、幸せのスパイラル。

そう言い切ってしまうと、不幸な人を切り捨てたようなことになりかねない。
でも、何が不幸で、何が幸せか、各自の価値観によるところも大きい。
(が、震災のような、誰が見てもお気の毒としかいいようのない出来事に巻き込まれた人には
安易な言葉は許されない)


一日、一日を大切に、感謝して過ごすこと、明日もこの平穏無事が続きますように、
それを願うしかない。

 

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時代遅れケータイを持つ人間は、時代遅れ?

2012-09-11 | 暮らし

時代の流れについて行けないのは、年がいった証拠だ。

「わたしのケータイ、スマートフォンじゃないから恥ずかしいわ」
電車内で、そうおっしゃる女性がいた。

わたしも、ぱかっと折りたたみ式のケータイだ。
でも、わたしは、自分のケータイに、愛情と、愛着と、誇りと、自信を持っている。
(そこまで、確信を持つ必要も根拠も、ないにしても・・・だ)
自分自身にも、それぐらいの確固たる自信が必要だが、残念ながら、・・・イマイチだ。。。

なんてったって、わたしの、ぱかっと折りたためるケータイは、写真がキレイ。
カメラをいちいち携帯しなくても、どうにか、どこでも、なんでも、写真は撮れる。
デジカメに比べると、そりゃあ画素数もだんぜん少ないが、まあ、わたしとしては、気に入っている。
購入時に掛けたまんま、いまだに、落としたり壊れたりした時の保険を毎月300円、掛け捨てで掛けている。
(それもどうかと。もう、そろそろ見直しが必要かも)

「動画サイトで、競技ダンスやデモも見ることができるから、見るていると、おもしろいですよね」
と、ダンス仲間の人に言うと、
機械ものはキライ、という理由で、パソコンは一切さわらないと、おっしゃる。

えっ・・・と息をのんだ。
(わたしとそう年齢は、変わらないようにお見受けする)
わたしの世代なら、パソコンはスタンダードだと思っていた。
というか、ほんの少しだけ年齢が上がると、パソコンに触れない生活を送ることができるのだ。
それのほうが、驚いた。
(娘によると、「世の中、お母さんのような人ばかりではない」、とのことだが)

居酒屋で注文するのも、端末機をタッチして入力し、お会計や、ワリカンにした金額まで出してくれる。
そのタッチパネルに、「わたし、そういうの、苦手だから」と、手を出さない人がいる。
そうなんや~・・・けっこう、新鮮な驚き。

スーパーでは、レジの人員削減のため、
自分で、バーコードで商品を読み取り、専用のカードで支払うシステムを導入している店がある。
病院での支払いも、モニターにタッチし、その機械で、その場で精算し、支払うことができるようになっている。
機械が代わりにできる内容の仕事は、どんどん機械化されている。

もたもたしていても、スタッフがやってくれる窓口も、併設されて残っているので、機械が苦手な人も、OK。
スタッフが笑顔で(かどうかは、知らないが)、やってくれるので、安心だ。

わたしの年代は、まだコンピューターが苦手、という人もいるようだ。
我々は、ファミコン世代ではないことは、明らか。
娘たちの世代なら、物心ついた頃から、パソコンが日常の1シーンに組み込まれ、溶け込んでいるので、
なんの抵抗もないだろう。

飛行機のチケットも、旅館の予約も、映画の予約も、なんでもかんでも、自宅やオフィスからパソコンで出来る。
ネットで、世界中のモノ、人をつなぐと、新しい物流や交流、ビジネスが生まれる。
田舎には仕事がない、という発想は、もはや時代遅れ。

そう考えると、自分のこれからの道、あれこれ、模索範囲がまた広がってくる。
ちょっとワクワクするような、ちょっと、めんどくさいような、ちょっとリスキーで不安なような、・・・
でも、切り拓いていかなければ、時代の流れだ・・・と、あきらめ、
ただただ指をくわえて、時代の波に押しつぶされてしまうのは、不甲斐ない。

そう思うと、何かしら、やる気のような、エネルギーのようなものが湧き出て、
背中から、目に見えないものに、ぐぐっと押されている気がする。

 

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武者修行 雑記

2012-09-10 | 趣味

ダンス・パーティで、多くの老若男女が入り混じって踊る中で・・・
いえ、「若」は、いませんが。
もとい、・・・
大量の中高年男女が、踊るのを見ていると・・・

なにが、どう、目につくか。
これは、あくまでも、わたし独自の視線である。

自分が踊って気づくことと、踊らずに気づくこと、これは、目線が違う。

踊る順番を待つために並んでいる女性たちを見て・・・・
見ていて気づくのは、美しい女性と、美しいというカテゴリーでは収まりきらない女性。

美しい女性は、顔がキレイ。
お化粧も、ばっちり。ヘアスタイルも、ドレスも、そして、スタイルも良い。
こういう人は、けっこういる。

ふつうの人も、けっこういる。

見る人のそれぞれ持つ、美に対する感性の違いがあり、
なにが美しく見えて、なにが美しく見えないのかは、非常にビミョー。
多分、美しくないわけではないと、思うのだが、
(奥歯にモノが挟まった言い方を延々としていて、多少、疲労感ありの、わたし)
おやと目を引くのは、
おもしろい不思議ドレス(色やデザインの組み合わせや、体型をものともしない勇気)
かなりのお年に相応するお顔、その顔とのバランスをあまり顧みないメーク、
加齢による、体型の著しい変化が明確にわかる方。

ほかには・・・
つんとお澄まししていて、いかにも、わたしは美人なのよ、と思っていそうな、歌手の天童よしみ似の方。
背が低く、イメージが似ている。
いつも小指をぴんと立てて、踊っておられるが、どうも、わたしは、あの方が苦手。
話したこともない、縁もゆかりもない、被害を被ったわけでもない人なのだが。
つんとした表情と、顔が、どうも一致しない。
天童よしみをちょっとキレイにして、細くしたようなかんじで、天童よしみそのままの、本人ほど、あそこまで天童よしみではないのだが。
わたしだって、こころのなかで、いろんなこと、他人さまに思われていると思うが、
思ってしまう感性、こころは、止められないので困りものだ。

書き足りないので、ついでに一気に書いてしまおう。
「ブ○」「デ○」「チ○」なんだけど、キレイにメークしていてドレスもちゃんとしていて、トドメとしては、
つんつんつんと澄ました表情、あれが効いている。
せめて愛嬌があるとか、愛くるしさが欲しいところだが、逆の作用をもたらす表情をされる。
というか、無表情のときの表情が、あんな表情なのかも知れないのに、
なんで、意識的に表情を作らないといけない?と、ご本人に反発されそうだ。

(わたしも、前に、表情がイキイキしていない、嫌そうな顔をしている、もっとイイ表情をしろと、
何度もアドバイスされたことがある)

本人には、そんな気持ちは、まったく、さらさらないのだろうけれど、
わたしの、実にけしからん感性が、むくむくアタマをもたげ、こころの中で、ばたばた暴れて、言うことをきかない。
感性以前の問題で、ちゃんとした大人として、思ってはいけないことだ。
その、つんつんを見るたびに、(見る気はないのだが、怖いもの見たさか、なにか知らないが、つい目に入ってしまう)
こころに、つんつんが入ってきて、わさびが効くように、つんつん鼻をついてしまう。
「ブ」「デ」「チ」でも、なんでもいいから、まるみ、まろやかさが、欲しい。あるのは、つんつんばかり。

わたしの、目と、こころが腐っているからに他ならない。
あの人は、わたしに、そんな失礼なことを思われる筋合いも、根拠も、まったくない。
しかし、これでは、一歩も前に進めないので、
まあ、単なる見た目の好き嫌い、ということで、大雑把に片付けよう。


それと・・・
顔は美人で、背も低くなく、体型も悪くなく、凝ったドレスもとっかえ、ひっかえ、
いつも決まった人と組んで踊っているのだが、しかめっ面していることが多く、いかにも不満げに見える女性。
ペア解消、間近か?

あとは・・・
最近、あまりお見かけしないが、
ラテン系の方で、ハーフかなにかだろうけれど、個性的な姿勢で踊る、個性的な衣装の方。
色が黒くて、目鼻立ちがはっきり、くっきり大造りで、黒い眉や髪が、印象的。
申し訳ないのだが、わたしの個人的感性、好みからすると、この人は、あまりステキではない。
なぜだろう?
表情のせい?
かつて、外国の街角で見た、わたしが、ちょっと嫌な目に遭わされた女性に似た雰囲気をお持ちだ。
あまり、いま、幸せな境遇ではないのかも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

↓ここらあたりからは、ダンスの内容についての話になるので、飛ばしていただくとよろしいかと・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

女性が踊っている姿を見て思うのは、いかにも身長差がある人と、もたもた踊っている人、
ペアである二人ともが、あまりちゃんと踊ってない(踊れていない)人、
そういう人は、お上手ではないと感じる。

顔見知りの男性と踊っている女性(どんな踊りをするのか、見ているが、
男性の踊りはよく見ているが、女性のほうは、ちっとも印象に残らない)、

どの女性も、踊りとしては、可もなく不可もなく。

決まった相手・ペアと踊っているところを見ると、踊りの上手、ヘタがわかるけれど、
不特定多数の人と踊ると、相手の踊り方にも左右されるし、見た目には、上手ヘタはなんとも言い難い。

以上は、見て気づいたこと。

 

やっぱり、ダンスは、見るより踊るほうが、だんぜん、いい。
しかし、競技選手のように踊るには、会場が混みすぎているので、無難な踊りになる。
パーティには、運動と気晴らしのために来ている人が多いようで、あまりお上手な人は、来てないようだ。
来ていても、手を抜いて踊っているように思う。

 

さて次に、

女性同士は踊れないから、見るだけだが、男性と踊って気づくのは、相手(男性)の踊り方。
見た目がどうであれ、(あまりひどいのは、論外)、踊りやすいかどうか、気持ちよく躍らせてくれるかどうか。
口臭や体臭、汗でベトベトの服、・・・そういう要素は、抜きにして。(あまり、ひどい人はいない)

ぱっと見と、踊ったかんじとでは、違う。
どんなに見かけがよくても、がくっと気が抜けるほどど、ヘタな人もいるし、
見かけによらず、意外なほど上手な人もいる。
自分の技量がたいしたことのない人は、相手の非を口にする人が多い。

先週、けっこうお年なのに、ものすごくスピードのある、お上手な方と踊って、びっくり。
同じタイム内で、他の人の2~3倍は、ホールをぐるぐる回っただろう。
ついていけたわたしも、なかなか良かったと満足していたが、踊った直後は、息が、はーはー。
まるでスポーツ感覚なところが、とても爽快で気持ちよかった。

逆に、ずいぶん、ご高齢で、へにゃへにゃ踊りの、
これは、踊りなのか? 周囲の空気は、動いているのか?
というような、オジイチャンと当たったりすると、力が一気に抜けて、へなへなになる。

 

さて、まとめです。

 

パーティ修業を半年してみて、わかったこと・・・

はじめは、右も左もわからず、壁のシミだったことも多く、踊ってもらえるだけで喜んでいたが、
だんだん、上手な人とだけ踊りたいと思うようになった。
そんなわけには、当然、いかず、
そして、壁のシミになる時も今でも、まだまだ充分あるし、自分も上手でなければ、片手落ちだ。
上手な人は、たいがいペアがいる。
男性も女性も、一人で来ている人は、限られている。
なので、相手にあれこれ、要望だの、希望だの、いちゃもんをつけられる立場、状況ではない。


わたしのような若手は、パーティで、へろへろ遊んでいるのは、まだ5~10年早い、ということ。
あれは、ご隠居さんたちの、お遊びだ。
ダンスの第一線を退いて、あとは、余力で、ダンス力・維持のために、社交を兼ねて踊っておられるように思える。
もっと若手は、当然、パーティになんぞ来ず、競技で上を目指すか、技術の向上を図るため、日々、練習、鍛錬。
わたしの年齢は、競技挑戦の最終年齢かも知れない。
あるいは、パーティには出ず、デモ専門の人もいる。

デモに出る直前の人と、一昨日、初参加した団体レッスンがご一緒だったが、
彼女は、デモに出る前で、キンピカのドレスを試着していた。
しかし、団体レッスンで見た、彼女の踊りは、たいしたことがなかった。
ちょっとしたこと、基本に、気を付けたら、うんときれいに踊れるのに、デモ直前でもあの踊り、ということは、
デモって、そんなにダンスとしての完成度が高くないということだ。
煌びやかなステージ、ドレス、メーク、観客、そういう類の喜び、楽しみのようだ。
デモで、いかに、美しく見せるか、なのだろう。
(でも、肝心の技術的な基礎が、抜け落ちている。
あの団体レッスン、今後、続けるための次の手続きをしなくて正解だった)


団体レッスン、個人レッスン、パーティ、・・・これらを同時進行してきたが、
このあとの展開は、デモか、競技への方向性を固めること。
あるいは、デモにも競技にも進まず、ぐずぐず、だらだら今のままの延長という可能性もある。

あれこれ、わたしのダンス武者修行は、まだまだ続く・・・

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おんなの、おんなに対する目

2012-09-09 | お出かけ

行ってきました。
橋下さんが、経費削減の槍玉にあげている、国立文楽劇場。

↑舞台裏。

日舞は、たいへんだ。
お金のかかり方が、半端ではない。
家、一軒ぐらい買えるほど、つぎ込む。
(叔母さんや、周りの人々が、そう言っていた)
和楽器の演奏者や長唄の唄い手は、生演奏、生唄で、しかも東京から呼んでいるとか。
これぞ、ほんとうに、道楽。

だが、当事者は、道楽を通り越して、そんな生易しいものではなさそう。
苦しそうだ。
芸の道は、険しい、厳しい。終わりがない。

それに比べたら、わたしの社交ダンスなんて、じつに、かわいいものだ。
運動にはなるし、きれいなドレスも着れるし、アタマは使うし、ほんとうに、ボケ防止にぴったりだ。

土曜日は、けっきょく、パーティには参加しなかった。
その代わり、団体レッスン(50分)を受けた。
そして、帰りに、ダンス・ウエアを見に、あちこちの店をのぞいた。

なかなかイイものがなく、やっと気に入ったものに出会っても、着てみると、お肉が、ぶにゅっ。
下着のラインが、キレイにクリアーに、はっきり、くっきり。
そして、お腹が、ぼこっ。

お店の人は、「へーき、へーき。こんなの、ぜんぜん、ですよ」
と、ハッパをかける。
なんとまあ、無責任な。
わたしが、あざけ笑われても、蔑まれても、失笑を買っても、ドレスが売れたら、それでいいんでしょ。

「これぐらいは、ぜひ着てください」
と、2番目に、お肉ぶにょドレスを強く薦められた。
わたしは、最初のドレスも、2番目のドレスも、肉のはみだしぶりが、嫌いで、
3番目のあまり身体にフィットしないドレスを選ぼうとした。

すると、店員さんが「これは、お客様の雰囲気ではありません」と、きっぱりNG出し。
「ぜんぜん、違うと思います」と、やたら、強い。
そうかなあ・・・まあ、そういえば、70歳を超えても、80歳を超えても、着れそうではあるが。

結局、イチオシの、下着が着れないドレスを買った。
(着てもいいけれど、下着のラインと、
そのラインの上下に分断され、盛り上がった肉を無視する勇気と、ド厚かましさが必要)

V字の胸の開きも、とても大きい。
日本人は、あんまり胸の開いた服を着ないから、着るほうも、見るほうも、目が慣れない。
家に帰ってきて、胸のところを糸でつまんだ。
新品のドレスなのに、つまんだ糸のところの生地が強く引っ張られ、布に、その痕が残った。
まあ、しかたない。

モチベーション・アップのため、とかなんとかいって、
結局、買った。

女性は、どうして、こんなに服が好きなんだろう。
断捨離なんて、どこ吹く風。
それより、あんなドレス、着れるんだろうか???
いささかの、不安と、いささかの期待が入り混じり、ドレスを探し彷徨い、足は棒になったが、
大阪界隈のダンス・ウエア店をちょろちょろとひと回りした結果、
(超お高い有名ブランドメーカー専門店~中ぐらいの、繁華街の店~お安い卸問屋街)

ちょっぴり、嬉しくもあり、自信なさげでもある、ドレスを買った。
さあ、人前で、うつむくことなく、ちゃんと堂々と着ることが出来るだろうか?


ちなみに、いつものお定まり、蛇足ですが・・・

超お安いお店で、いつもパーティで、ステキなドレスを着ている女性を見かけた。
なあんだ~、こんな安い店で買ってたのぉ?
パーティ会場で見かける時は、きらきら光輝いているように見える美人さんなのだが、
女性同士で店に来るその姿、顔を見ると、いつものあの光は、どこへ?
まさに、ヒカリ、輝きが、すっかり失せた、電球の球が切れたような、ふつうのオバサンが、いた。
男性の目がないと、どうでもよくなって、くすむのだろうか。
「めかし込む」という行為を一切しない。
こういう人、とても多い。なんでだろ?

パーティ会場の一種、独特の雰囲気のせい?
メークもばっちり、優雅でもあるが、派手派手でもあるドレスに身を包み
にっこり微笑む姿とは、えらい格段の違いを感じてしまった。

おんなは、おんなに厳しい?
見る目が、すごい、シビアーだ。
己の姿を顧みないで、人の、あら探しをしているだけ?

 

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もたもた、準備悪し・・・また今朝も冷や汗。

2012-09-08 | 日々のこと

叔母が日舞の発表会に出演するということで、「楽屋見舞い」を用意した。
もう、何回目にもなるのだが、今さらながら復習を。

知らないことが、いっぱいで、ネットで調べていたら、ものすごく時間をとってしまい、
ブログ更新の時間がなくなってしまった。
(梅ちゃんも、まともに見れない・・・)

震える手で、毛筆、ゆるゆる、ぶるぶると「楽屋見舞い」という文字を書いた。
金封は、蝶結び。
そんな、ちょうどいい金封、家にないので、ぺらんぺらんの、どこかにあった、いい加減なものに、書く。

何に包む? 小さい風呂敷、あの名前は・・・? つづれ織りのふくさ? 
ああ、不祝儀用しか、持ってない。
タンスの引き出しをごそごそ。
なにやら大層な、名前入りのものがあったが、
発表会を観た後は、
ランチの余裕もなく、そそくさと、ダンスの個人レッスンに行って、パーティに参加する予定なので、
そんなややこしいものは、あんまり持っていきたくない。
手ごろなものを日頃、用意しておかないといけないなあ・・・と実感。

ああ、あれこれ調べる時間がないので、ほったらかして、あたふた出かけます。

 

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