ちょっと、書き足りなかった分をしつこく追加します。
脚色、演出、は、ウソになるのでしょうか?
ピカソの描いた、ありえない顔は、ウソになるのでしょうか?
よくわかりませんね。
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「わたしは、今まで一度もウソをついたことがない」
という人がもし、いると、そんな人は、大嘘つきのコンコンチキだと確信している。
犯罪者が、「わたしは、殺そうと思ってやったわけではありません」
と申し開きをしても、結果的に相手が死んでいたら、これは殺人なわけで。
動機や状況を考慮すると、罪の重さや刑期は違ってくると思うけれど。
「わたしは、盗もうと思ってやったわけではありません。いえ、やっていません。
気が付くと、わたしのバッグの中に、商品が入っていたんです」
そういう人は、盗人になるんだろうか?
結果的には、ドロボーである。
誰かの陰謀、悪意で、こそっとバッグにねじ込まれた可能性もないわけではないかも。
なにが言いたいかというと、
自分ではどう思おうが、結果や、客観的事実が多くを物語るということ。
(冤罪は深刻な社会問題だけれど)
今も昔も、苦手で、大嫌いな勉強。
小学校の高学年の頃、個人面談で、母が担任の先生に
「スローは、勉強しとらん。お母さん、スローが、もっと勉強するように、家庭でもバックアップしてください」
みたいなことを、言われたそうだ。
だからといって、その日から、母がわたしにハッパをかけたかというと、
母は、なんと、
「あんたの学校に行くのは嫌だ。先生に、お小言を言われるから」
と、逃げの一手。
こんな母親、ある?
そういいつつ、無言のプレッシャーが、常々、わたしのまわりには渦巻いていた。
で、当時、「サボっている、成績が悪い」と先生から責め苦を受け続けていた。
でも、(学校で指導されていること以外には)、特別にわたしは、これといったことはしなかった。
ある日のこと、先生に突然、言われた。
「スローさん、頑張ったね。ようやく一生懸命勉強したことが実ったようで、よかったね」
は?
先生って、なにをいったい見ているんだろう? なにを基準に生徒の行動を評価するんだろう?
小学生のわたしは、とても不思議だった。
行動はまったく同じなのに、叱られたり、誉められたり。
大人って、いったい、なんだろう?
それが、わたしの大人不信、先生不信の始まりだった。
先生は、結果だけを見て判断しているということだ。
プロセスは、まったく見ずに、知らずに、成績の結果だけを見て、評価する。
わたしは、子供なりに思った。
なあんだ、結果が全てなのね、と。
でも、身に覚えのない結果に振り回され、わたしは、困惑した。
おそらく、今、想像すると、当時、わたしは、踊り場現象で、スランプ、停滞していたのかも知れない。
結果が、即、出るタイプではなく、ちょっと遅れて出るタイプだったのかも知れない。
自分で取った行動を意識していないので、結果をつきつけられても、なんのことか、わからず、
はあ?と、なったのだろう。
無意識の行動でも、客観的に結果が出れば、他人は、それで判断する。
そういうことだ。
ちょっと、回り道くねくね、遠回りしすぎた感があるが、
自分ではどう思おうが、他人は、他人の目で見るってことだ。
自分=主観的 他人=客観的
なので、「わたしは、ブログにウソは書きません」と、鼻を膨らませて必死で言ったとしても、
自分の主観的な世界でのお話なのだろう。
他人は、ウソであろうが、本当であろうが、リアルなわたしを知らない人には、どっちみち、わからないんだし、
リアルな人から見れば、あれれ?となる。
例えば、わたしが、もし、仮に現役の東大の教授だったとしたら、
「勉強が嫌いで苦手だ」と言っていることは、これは、ウソではないにしても、
誤解を与える書き方であり、客観的事実を歪曲しすぎている。
(まあ、東大の教授じゃないので、いいけれど)
ノーベル賞を受賞している人のなかには、「得意科目以外は、大嫌いで苦手」、ということもありえそうだが。
と、また脱線して、本線が何だったか、わからなくなってきた。
ブログというものは、読んでくださる方の目を明らかに意識したものであるが、
わたしは、書いているうちに、自分の世界に入り込んでしまい、まわりの目はどうでもよくなってくる。
が、自分の書いたものは、最後の最後まで責任を持つべき、という意味は、よくわかる。
あの日の、あの記事、あれ、あの出来事、一生忘れません、と、
誰かが、わたしのブログ記事を読んで、思い続けていたりすると、
それが、読後の感想として、マイナスの憎しみの感情であれば、そんなこと、わたしは、責任を取る気はない。
記事の内容に関しては責任は取るとしても、感想の責任までは負いかねる。
(ニュースや人名、出来事など、思い違いや、間違ってたりしたら、すみません。
→たぶん、本人は気づいていないだけで、多くあるだろう)
不特定多数の他人の目を意識して書くとすると、気が重くて、一字だって書けない。
第一、哀しいかな、そんな、多くの人が集まる、影響のあるブログではない。
なので、
いつものように、お気楽に、マイペースで、お気に入りの自分の世界で戯れていると、
時が経つのを忘れる。
といいつつ、いつも出かける真際ぎりぎりまで、時計とにらめっこ、時間に追いかけられながら、
ブログ更新に取り掛かっている。
やはり、人間は、矛盾する生き物だ・・・
などと、話がバラバラになると、またまた、安易に言ってみる・・・。