文章を書くのが上手な人は、なにを書いても面白い。
自分にはあまり関心のないコトも、関わりのないコトも、惹き込まれるように読んでしまう。
ご近所ブログをひと回りして、そう感じた。
そのひとつの原因として、描写が上手い。
リアルに、目の前に繰り広げられているかのごとく、ありありと迫るものがある。
オデコにTVカメラを固定して、突撃取材に行くかのごとく。
大手海外メディアと提携し、大自然の営みを映像でダイナミックに追うかのごとく。
わたしの記事は、どちらかというと、胃カメラサイズかも。
はい、鼻の穴ですよ~。喉を通ります、食道ですね~。胃はキレイですよ~。
はい、引き返しますね~。
チマチマしていて、超個人的。
まあ、それはそれで、個性ということで、雑に片付けて・・・
お姫様を母親に持つ、ブロガーさんが、わがままいっぱいのお姫母の在宅介護で悪戦苦闘されている。
日々、その様子、心理葛藤がブログに記されている。
それを読むと、大変だなあ・・・と、つくづく、しみじみ、思う。
わたしなら・・・どうなるんだろう?
シュミレーションしてみる。
我が母なら、義姉、姉、わたし、の3人で手分けということになる。
「あんたの家、あんたの介護、世話は、3人の中では一番悪い」と母に言われたと、仮定する。
「あんたのとこが、一番いい」とは、仮定する必要がない。ありえないから。
在宅ケアは日にちを三等分している(「たらい回し」とも言う)だろうから、
わたしのところだけ、早く切り上げるわけにもいかず、ノルマは果たさなければならない。
母一人だけのために振り回されるのは、かなわないので、義母や孫たち(生まれて間もないと仮定する)と
いっしょに、同時に面倒を見る。
託児所 兼 在宅ケア施設。
老人たちが、ぎゃーぎゃー騒ぐ、わめくとする。
知りあいの先生が、「そういうときは、お手伝いしますよ、おとなしくさせてあげますから」と言ってくださるが、
お手伝いしていただくようなことになっては、たいへんだ。
わたしは、先生のいう「お手伝い」の内容を知っている。
廃人になるスピードを速めるだけだもの。
孫たちが、ぎゃーぎゃー、暴れまくって、いたずらしまくって、走り回るとする。
ケガをさせてはいけないので、それだけは注意するが、あとは、動物園の檻が、家屋全体のようなもの。
好きに遊ばせてあげたい。
これに関しては、おとなしくさせてもらう手助けは必要としない。
多少のマンパワー・サポートは必要ではあるだろうが。
もっと、真面目にシュミレーションすると、
わたしの母なら・・・
在宅ケアで、ヘルパーさんや、母が自分で雇った、お気に入りの人を混ぜて、世話を頼むだろう。
いよいよ、とことん自立できなくなるとすると、
どんなに文句を言っても、病気の場合は病院に入院か、病気でなければ、ケア施設に入所ということになるだろう。
その費用を、3人で(話し合いの結果、折り合った割合で)、持つということになるだろう。
「とことん自立できない」、と、「少し自立できない」、の、境目がいちばん、ややこしい。
まだらボケも、そう。
ご主人のまだらボケのせいで、暴力をふるわれている、おばあさんがいる。
紫の大きなアザをつくって、息子夫婦の家に逃げ込んだり、
逃げ回る途中なのか、義母の家の玄関に靴の片方を落としていったり、
修羅場の毎日を送っておられる。
お二人とも、夫の実家のご近所の方で、30年ぐらい前から、わたしは存じている。
こんなことになろとうとは。。。。痛ましく、お気の毒である。
義母の場合は、どうだろう。
いよいよ自立できなくなったとき、どういう状態なのか・・・・
おそらく、義母は、自分の道を自分で決めると思う。
その道をわたしが、承諾するかどうか、だ。
(夫は、どんな道であれ、無条件で承諾するに決まっている)
入所や入院なら、当然、OK.
在宅ケアの場合、多くのヘルパーさんに支えられ、お世話することになるだろう。
その頃は、義母は、身もこころも、とことん弱っていることが予想される。
認知症を発症し、まったく別人格になって、皆を困らせることも考えられる。
そのときは、前述の知り合いの先生に、相談しよう。
けっこう、いい加減な、わたしの性格。
楽天的だということでは、済まされないとは思っている。
最悪の事態を予測し、それを回避するためには、どうすればいいか、
あらかじめ、回避策を検討し、準備しておかなくてはならない。
それは、よくよくわかっているのだが・・・
なるように、なる。
その兆候が見えてから、考えよう。
と、崖っぷちの場所で、つま先立ちしながら、小指を立てて、カップを持って、お茶してるような、かんじ。
揺れで、お茶が、ちゃっぽんと、顔にかかるかも知れない。
時折、風が吹いたり、自分の身体が傾いたり、揺れたり、アンバランス状態になりつつ、
おーっとっと・・・今のは、ヤバかった・・・とか、言いながら、
ゆらゆら、つま先で立っている。
まだまだ本格的に大変な時期が先にあるのに、序章にも来ていないのに、
地獄恐怖劇場の入り口で、不安顔で順番待ちしているようなかんじ。
劇場からは、憔悴し、疲れきった表情の人や、晴れ晴れしたような、すっきりしたような人、顔色のない人、
いろんな人が、ぞろぞろ出てくる。
そんな人を見ながら、どんどん順番は近づいてくる。
順番を待ちながら、おしゃべりしてたり、持参の水筒のお茶を飲んだり、
代理人に順番を取ってもらって、ちょこっと抜け出したり。
(抜け出したまんま、順番がきて、開場、開演になっても、なかなか帰ってこず、
回りをハラハラさせたり、苛立たせたり・・・)
自分の親、義親、そして自分、それぞれの人生、どうなるんだろう。
恐怖劇場への順番を待っていると、子供や孫が、「おばあちゃん、がんばって」と、差し入れをしてくれたり。
苦労性というのがあって、そういう性分の人は、ずっと苦労が付きまとうそうだ。
苦労のネタを考えれば考えるほど、また、新たな苦労を呼び寄せる。
逆に、幸せな人は、幸せを引き起こすらしい。
不幸な人は、不幸な人と自然に寄り集まり、幸せな人は幸せな人と集う。
不幸のスパイラルと、幸せのスパイラル。
そう言い切ってしまうと、不幸な人を切り捨てたようなことになりかねない。
でも、何が不幸で、何が幸せか、各自の価値観によるところも大きい。
(が、震災のような、誰が見てもお気の毒としかいいようのない出来事に巻き込まれた人には
安易な言葉は許されない)
一日、一日を大切に、感謝して過ごすこと、明日もこの平穏無事が続きますように、
それを願うしかない。