ものすごくカンジ悪いことを書く。
キレイにうわべを整えて書いてもいいのだが、わたしの腹の中が、黒く、カンジ悪いので、
そのまま書く。
たんに、今日は、そんな気分だ。
自分のカンジ悪さ、汚さ、醜さと向かう、そんな気分のときもある、
たんなる気分屋なのだが。
おんな同士の争いが、いかに醜くて、意味がなくて、内容が浅はかで、つまらないか。
これは、客観の立場で、傍観者として見ている分には、どおってことは、ないが、
いざ、自分が巻き込まれると、自己嫌悪に陥る。
何年か前にも蝶ブログに書いた、ある女性。
ご近所に越してこられた、このお方。
わたしの娘と同じ年の娘さんがおられ、彼女はとても優秀だそうで、それがご自慢のタネ。
英語検定の何級だかに合格されたとか、鼻高々におっしゃっていた。
大学も、どこだったか(聞いたけれど忘れた)、どこやらに内定(推薦入学)が決まっている、
と、これまた、ピノキオの鼻。
さらに、「パパが、パパが・・・」と、鼻の奥から甘~い声を出して、パパ自慢、ラブラブ自慢。
さらに、時には、夜の都会のバーに単身、出向き、ひとりグラスを傾けるとかで、
自立した、いいおんななんだそうだ。(これは、ご近所の、別のある方、談。また聞きです)
さらに、ご自分で匂わせるには、お金持ちらしい。
それはそれで、いいことだ。
娘が優秀、家庭が円満、家がリッチ、自立した、いいおんな、
いいことだらけである。
鼻につく、という点を除けば。
鼻につくのは、なぜか?
やはり、ご本人の説明の仕方に、問題がある。
説明しなくても、勝手に、匂ってくるのなら、まあよい。
わざわざ自分で強調するから、鼻につくのである。
しかも、歴然と、あっぱれ、こんな身近なところに、そんな人もいるのか・・・
というぐらいの、客観的要素なら、圧巻である。
が、・・・あきらかに、人に自慢するような内容、レベルではない。
しかしながら、
「それが、どうしたの?」
と、言う人は、まわりにはいない。
へえ~、よかったね、と、いたって、クール。
自分の品位を保ちたいから、いい人でいたいから、人の悪口とか、本音とか、言わない。
人がどう思っているのか、などというのは、単なる憶測の世界であって、
ご近所の輪にも、後からながらも飛び込んできて、積極的な明るい方だった。
何年かして、彼女は引越して、出て行った。
家も売りに出されたとか。
離婚したらしい。
へ~、と、わたしは、とても意外なような、
それでいて、そうだろうなあ・・・と、へんに納得するような、
こんな日が来るだろうと想像していたような、複雑な気持ちになった。
虚栄心を満たそうとすると、無理が生じ、いずれ破綻をきたす。
自然な、あるがままの姿でいいのに、それより良く見せようとするのは、虚栄心の表れだ。
虚栄心は、向上心とは、違う。
向上心は、自分が上がって行こうとして努力すること。
努力内容も見直し、方法を試行錯誤する。
虚栄心は、いつまでたっても努力が追いつかず、現実に不満があり、努力を放棄した末の境地。
実際の自分、現状に客観的に向き合わない、奢りがある。謙虚な姿勢の反対。
向かおうとするのは、現実より上であるが、努力をする方向性が間違っている。
あるいは、努力の内容が、ずれている。
うまくいかないなら、原因を探求し、原因をひとつひとつ修正し、消していく努力をすべき。
虚飾の世界にあこがれているだろう。
もっと地に足つけるべき。
自分の実力をちゃんと見据えて、自分のできることを模索すべき。
実力がアップする想定で、次の計画、目標を立てても、実力が想定以下にしかアップしない場合は、
微調整、見直しが必要だ。
その作業をする時間が待てない、即、輝かしい自分でありたい、と感じるのだろう。
ましてや、自分本人のことではない、子供の学力や、夫の経済力は、妻が、誇らしげに見せびらかしたとすると、
その瞬間、周りから見ると、色あせて見える。
財力や肩書きなども、リタイアしたり、社会制度が変わったりすると、力が及ばなくなったり、減少、もしくは、なくなる。
そんなものに、しがみついている人は、哀れだ。
別の確固たる芯を自分の中に、築くべきだろう。
「定年後のサラリーマンの生き方」のような本を読むと、あれこれ、お偉い方々が、いっぱい書いておられる。
その芯を、試行錯誤で、築き、磨き上げ、完全に完成させることは、
一生かかってもできないことだと、わたしは思っている。
未完の人生。
完成しても、しなくても、待っているのは、「死」だけだ。
「死」イコール、いかに、生きるか、だけど。