今日のお話は、女性専科となりました。
男性の皆様は、すすす、ざざざーと、スクロールをおススメいたします。
結婚生活を送る、娘の友人たち。
自分の親と、義理の親との間で、悩んでいることも多いようだ。
子供ができると、親に、なにかとサポートしてもらうと、新米ママたちは助かる。
仕事をしながらだと、なおさらだ。
娘の友人Aさん。
5歳を頭に三人の子持ち。三人とも託児所、保育所に入れて、働いている。
今は実家の近くに、住んでいるが、
近々、ご主人の実家のスープの冷めない至近距離に、引っ越す流れになっているそうだ。
引越しを拒否する理由が見つからない、とのこと。
実家か、婚家か。
サポートしてもらいやすいのは、断然、実家だろう。
グランママたちも、息子の嫁や孫よりも、娘や、その孫のほうが、口を出しやすい。
「あなたの時は、こうだったのよ」
と気軽に言えるが、息子の嫁だと、嫁にしてみると、それがどうした?になってしまいそう。
実際、旦那さんの実家で、義母さんから、息子(=旦那さん)のことを溺愛している話を聞かされて、うんざりしたと、
お嫁さんの立場である、娘の友人が言っていたそうだ。
嫁も娘も分け隔てなく、可愛がり、尽くすなんて、なかなか、できにくいと思う。
(その点、力の限り、よくしてくださった姑には、アタマが上がらない)
インターネットでは情報が山のようにあるし、出産情報、育児情報も、てんこもり。
昔と今では、隔世の感があるほど、状況も違っていて、
それらを跳ね除け、否定し、こっちが絶対に正しい、と、昔の知識をもそもそ出す、
そんな押し切りをする勇気が、わたしには無い。
第一、わたしは、下調べなし、実践型なので、知識面は、疎い。
なので、聞かれても、よくわからないし、覚えていない。
ましてや、教えるなどとは、とんでもない世界だ。
わたしは、いつの間にか、姑に甘えている立場で、娘に甘やかされる立場になっている。
どっちにしても、甘いまんまだ。
よくよく考えると、娘と姑は、血がつながっているので、この二人は、似ているのではないかと、
ついつい最近、教官生活を送ってみて、感じた。
今までは、まったく気付かなかった。
なぜなら、活動分野がまるで違っていたので、比べようもなかった。
娘は、学業(部活もオマケ)と仕事、姑は、家父長の嫁生活。
力の発揮しどころが、まるで違っていた。
産休に入って仕事をしないで、家にいると、娘は、姑と同じタイプだった。
家事、家庭生活、完璧タイプだ。
箸の上げ下ろしから、食事、生活、運動を含む健康管理、家事全般、ここまでは、姑、娘は同じだが
(弊害としては、姑は、自分の息子を家庭生活能力ゼロ、人生進路・指示待ち、待ち受け専門に育て上げた)、
お金の管理、人生計画、その他、が、娘には加わる。(なんと年金後のプランまで!)
経済力があるかないかの違いが、ここで如実に出る。
お金を生み出す力、これは、発言力に直結する。
逆に考えると、姑がもし、外で仕事をしていたら、違う人生を歩んでいたことだろう。
さらに、違う人生を歩んでいたら、
(家父長信仰の特命のような)わたしたちへのサポートも、ここまで手厚いものにはなっていないだろう。
とすると、わたしだけの力では、娘たちは、いまのようには育っていなくて、経済力も生み出せなかったことだろう。
風が吹けば桶屋が儲かる方式で考えると、
この構図は、どうなっている???
姑のパワーは、あふれ出て、次世代へのサポートとして注がれ、
そのパワーを受けて、次世代は育ち、またパワーを発揮する。
そのパワーで、さらに次世代を育て、
ついでに、オツムの、か弱い母親(わたし)も逆流サポートし・・・(甘いか・・・)
総括すると、
姑の行いは、なかなか立派な、ありがたい、感謝すべきものだったということだ。
(が、先代の姑たちも、若き日の姑を非難することなく、大きな目で見てくれたそうだ)
わたしにも、実母はいる。
実家にも、もちろん、大変、お世話になったが、
実際に、手となり足となり、身近に労力として手助けしてくれたのは、姑だった。
それは、婚家に身を寄せた(嫁いだ)からであり、
次男や三男、四男、五男、・・・その他だったら、また、違っていたことだろう。
結婚意識が、わたしは、昔と随分、違ってきている。
時代の流れでもあるし、居住地によって、風土・習慣が違うからだろう。
わたしは、田舎の旧い慣習に、身動き取れないほどだったが、今では、そんなに重苦しくとらえていない。
家制度、崩壊というものの、意識は、まだしっかり人々には残っているようだ。
家制度というような大層なものでなくても、
肉親との関わり、「親と子」「長男の嫁、次男の嫁」「夫の親、嫁の親」のような・・・。
なので、娘たちのような若い世代が、婚家と実家の間で、揺れ、苦しむのを見ると、不思議なような複雑な心境になる。
真面目に取り組んでいる姿に、感動したりもする。
わたしは、ね。
もう、結婚生活をピリオドにしたって、いい。
なにも、べつに、びくびくと、気を使うようなことはない。
皆には、とてもお世話になったけれど、お返しはまだしていないけれど、
次世代が、ちゃんと育ってくれたら、それでいいのだ。
年寄りたちの役目は、そこで終わっていて、
あとは、いかに若いものたちのペースを乱さず、余生を送るか、だ。
つまり、目に見えない、自分を束縛するものに囚われなくなったということだろうか。
ただし、感謝は忘れずに。
あ、まだ、わたし、若いんですけれどね。
余生を送る側の立場でもあり、余生を送る人をサポートする立場でもあり、若い世代をサポートする立場でもある。
ついでに、自分を満喫する、活動火山中でもある。
(次世代が、さらに次々世代を育てるまでのサポート役割、は、まだ未完了。これからが、山。
上の世代が余生を終了するサポートも、まだ未完了。これまた、これからが、山。
サポートされる側は完了したものの、サポートする側は、未完了だらけ、でもある)
時代の流れ、移り変わりで変わるものもあれば、変わらないものある。
脈々と受け継がれるものは、延々と受け継がれ、わたしは、その、ほんの一部分に過ぎない。