価値観の違いは大きい。
たとえ肉親でも、一生、分かち合えないこともあるだろう。
死ぬまで分かり合えないことも、死んでからも分からないこともあるだろう。
もし、夫婦だったら、離婚する場合もあるし、離婚しない場合もある。
わたしの場合、結婚する相手の必須条件は、共通言語を話すこと、だった。
自分の話していることの意味が相手に通じ、相手の話していることが、わかる。
つまり、コミュニケーションがとれるか、どうか、だった。
(言葉の意味が、言語的に、国語能力としてわかっても、
伝えたいことが理解してもらえないこともある、ということは、後々にわかったが)
それと、ベーシックなところの価値観。
価値観が違うと、美点や長所も、欠点、短所と捉えられ、ずぶずぶと泥沼に落ち、這い上がれない。
美点を、全面否定され、さらに伸ばすどころか、卑屈な思いで、おし隠さなければいけないとしたら、悲劇だ。
長所を長所と捉え、短所を短所と捉えてくれる、共通の価値観、土台が不可欠だと感じた。
その価値観は、親の教育や、環境の影響が大きいと考えた。
なので、本人はとりあえず置いておいて(あとで、じっくりチェックすることにして)
親を見た。
若いときは、見かけにとらわれ、本質を見極める時に、判断を誤ることがある。
数十年後の親を見れば、比較的、カンタンに、本人の中身を知ることができる。
目の前に、将来の姿が示されている。
本人のシュミレーションをするには、じつに手っ取り早い。
どんな親か。
どんな親に育てられているのか、これは、価値観を探るのには、格好の材料だと判断した。
で、観察しても、よく、わからないので、とりあえず、自分と似たような環境の人が、いいのではないかと、
大雑把な基準にした。
大枠さえ決めたら、あとは、小さい部分は、軌道修正が可能だが、
根本的な部分が違うと、無理だろうと、大変だろうと、できるだけ省エネ・コースをチョイスした。
で、後にしようと、後回しにした本人については・・・
ありゃりゃ・・・だった。
結婚生活を送ってみて、腹立たしいこと、理解できないこと、などなどは、
わたしのような不出来な嫁に、よくしてくださる、全力で尽くしてくださる義両親に免じて、目をつぶった。
そして、決してデキがいいとはいえない自分のことを省みると、人のことは言えないと思った。
(自分に甘く、人に甘い)
それが、後々、考えると、よくなかった。
直接、本人に改善点を提議すべきだった。
本人が、本人の欠点をカバーすべきところを、親が息子をフォローしているだけだ。
いつまでも親の庇護下にいるオコチャマで、独立した成人としての自覚が芽生えず、自立できていない。
まあ、それよりも、わたしが、自分自身、デキが悪いってことが、一番のネックだったけれど。
(同じような環境だったことが、原因かと思われる)
ああ、「割れ鍋」に「綴じ蓋」・・・いつも呪文のように念じていた。
だが、周りの反応は、夫はとても良い人。
若干、甘い、という、夫の元上司?からの評価もあるが。
夫は、逆風にさらされたことがないので、それは、短所でもあるが、長所でもある。
逆風を自力で切り拓くコミュニケーション・折衝・交渉能力は、いたって低い。
否定されると、カタツムリに、塩。
しゅわーっと消滅する。
険しいジャングルはもちろん、凸凹の道は、歩かない。
(いま、息子は、同じような立ち位置で、もがき、自分の道を見つけようとしているように思う)
それに、部分的には、大大大大キライで、耐え難い、許し難い、認め難いところはあるが、
総合トータル点数で見れば、健康体であるし、仕事もサボらないし、まあ、悪くないかと。
大枠、大筋の価値観は、まあ、いいとして、
親から離れ、個人、単体で見た場合、いくつかある価値観の中に、
価値観が違う、どうしようもない決定的なものもある。
でも、まあ、自分が選んだ道だ。
失敗であろうが、成功であろうが、ファジーであろうが、どっちにしても、無駄はないと思っている。
人間は、クローンでもない限り、
隅から隅まで、自分とぴったり同じ価値観、嗜好の人なんて、この世に存在しない。
相手が自分に合わせることも、自分が相手に合わせることも、できない。
平行線。
なので、少しでも、部分的に接点があれば、よい。
別の、別個の個体が、接点のある部分で接していれば、いい。
別のものであるという認識があれば、相手に自分流を押し付け、強制することもないだろう。
一時的な感情で、結果を焦るのもよくない。
少しずつ時間をかけて、努力し続けると、長い長い間に、少し変わることもある。
自分が変わる場合も、相手が変わることも、時代や状況が変わることも。
人生には課題は、つきもの。
良いことも悪いことも、両方あるから、味がある。