深い自然にはなかなか入れない。山の仲間が、折にふれて行った山の写真を送ってくれる。それだけでも、山中の水の色や山の佇まいに癒される。人は自然のなかで、開放される。山中に独居した『徒然草』の兼好法師や良寛をすぐに思い浮かべるが、日本人だけではない。19世紀の半ば、アメリカのマサチューセッツ州の森のなか、ウォールデン湖の畔に手作りの家を建て、そこで人里を離れて、自然のなかで暮らしたソーローという作家もいる。
「シャツだけになって石の多い池の岸を歩いていると、すべての風物が常とかわって親しみ深い。蟇は鳴きたてて夜を招き入れ、ヨタカの歌は水の上にさざなみ風にのってつたわる。風にさわぐハンノキやポプラの葉に共感してほとんど私の息はつまるようだ。しかし湖面のようにわたしの清澄な心はさざなみは立つがみだれはしない。」ソーローは都会での人間関係を離れて、自然の音だけを相手に、自分の生きることを見つめ、生きることの意味を探すために、ここで暮らし、手記を書いた。
夜もすがら草のいほりに我をれば杉の葉しぬぎ霰ふるなり 良寛
こうした古い時代の偉人が、自然と向き合って、自分の存在の意味を思索した様子は色々な書物に見ることはできるが、自分のような市井の庶民にも、自然は何歳になっても憧れである。言って見れば、自然は地上に住む全ての人にとっての故郷のようなものである。
行き場を失った人には自然があると説くのは、『生きがいについて』の著者神谷美恵子である。
「自然こそひとを生み出した母胎であり、いついかなる時でも傷ついたひとを迎え、慰め、いやすのであった。それをいわば本能的に知っているからこそ、昔から悩む人、孤独なひと、はじきだされたひとはみな自然のふところに帰っていった。」