最近除夜の鐘を年越し時からずらすと言う話題があるらしい、一つは寺院が建て替えられて場所が替わったら近隣から「除夜の鐘がうるさい」と言う意見が出たと言う、もう一つは「深夜は寒いから未だそれほど冷え込まないうちに除夜の鐘を鳴らそう」と言う事らしい、
先の「突然隣に寺が来たかが除夜の鐘は迷惑だ」と言うのは解らないでもない、しかし「初詣が寒いから年が変わる前に鐘を鳴らそう」と言うのはあまりにおかしいだろう、百八つの煩悩を浄めて新しい年の迎えると言う本来の「除夜」が全くないではないか、年の終わりに本年の諸々な穢れを浄化すると言うのに寒いから早めに済ませようなどとはとてもじゃないが浄化される訳は無い、寒いのが嫌なら炬燵にでも潜り込んで「ゆく年くる年」でも見てれば良い、
手前の横着を棚に上げて除夜の鐘を前倒しにしろなんぞは新年を祝う価値もない、がどうもこれは寺が言い出したらしい、こんなことを言ってるから「寺は葬儀屋だ」とか「日本には宗教が無い」とか言われる、
そういえばテレビで「能」を外国の人が新しい形で紹介すると言う企画をしているらしい、川を浄化したら水の神が喜んだと言う内容らしいが本来「静」の芸能の「能」が子供が被り物をして仕手の周りを跳び回ると言う演出で呆れたのだが、
彼はそれだけではなく普通の演を翻訳する仕事もしていて、「成仏」と言う言葉が翻訳できないと言っていた、結局「魂が救われる」と訳したそうだが絶対一神教の中で生まれ育った人に「成仏」を理解させるのは難しい、仏教の言う「成仏」は文字通り「仏になる」のである、まあ宗派によって若干違うが基本的に大乗仏教では人は現生は仮の姿で本来「仏」になり現生の行いによって来世は六道の何処かに生を受けるがおこないの良い魂は仏になる為の修業に入ると言うのが根っこにある、
現世の名前は仮の名前でこれから仏の修業を始める名前が戒名と言う訳だがその現世のよごれを歳毎に浄めると言う「除夜の鐘」を前倒しとは呆れた坊主である、
鎌倉鶴岡八幡では大晦日には大祓を行いそれから新年を迎える初詣になる、まあ神社なんで除夜の鐘は無いが日本人ならもう少し日本の文化を大事にして貰いたいものだ、
自殺する勇気がないから死刑になるため誰でもいいから殺すとか、自ら腹を痛めた子供を苛め殺すとか、「苛めは娯楽だからなくならない」とか
日本はこれからどうなってしまうんだろう、政治の暴走を止めるのも焦眉の問題だが、だんだん腐りかけている日本人と社会を何とかしなければならないだろうな
先の「突然隣に寺が来たかが除夜の鐘は迷惑だ」と言うのは解らないでもない、しかし「初詣が寒いから年が変わる前に鐘を鳴らそう」と言うのはあまりにおかしいだろう、百八つの煩悩を浄めて新しい年の迎えると言う本来の「除夜」が全くないではないか、年の終わりに本年の諸々な穢れを浄化すると言うのに寒いから早めに済ませようなどとはとてもじゃないが浄化される訳は無い、寒いのが嫌なら炬燵にでも潜り込んで「ゆく年くる年」でも見てれば良い、
手前の横着を棚に上げて除夜の鐘を前倒しにしろなんぞは新年を祝う価値もない、がどうもこれは寺が言い出したらしい、こんなことを言ってるから「寺は葬儀屋だ」とか「日本には宗教が無い」とか言われる、
そういえばテレビで「能」を外国の人が新しい形で紹介すると言う企画をしているらしい、川を浄化したら水の神が喜んだと言う内容らしいが本来「静」の芸能の「能」が子供が被り物をして仕手の周りを跳び回ると言う演出で呆れたのだが、
彼はそれだけではなく普通の演を翻訳する仕事もしていて、「成仏」と言う言葉が翻訳できないと言っていた、結局「魂が救われる」と訳したそうだが絶対一神教の中で生まれ育った人に「成仏」を理解させるのは難しい、仏教の言う「成仏」は文字通り「仏になる」のである、まあ宗派によって若干違うが基本的に大乗仏教では人は現生は仮の姿で本来「仏」になり現生の行いによって来世は六道の何処かに生を受けるがおこないの良い魂は仏になる為の修業に入ると言うのが根っこにある、
現世の名前は仮の名前でこれから仏の修業を始める名前が戒名と言う訳だがその現世のよごれを歳毎に浄めると言う「除夜の鐘」を前倒しとは呆れた坊主である、
鎌倉鶴岡八幡では大晦日には大祓を行いそれから新年を迎える初詣になる、まあ神社なんで除夜の鐘は無いが日本人ならもう少し日本の文化を大事にして貰いたいものだ、
自殺する勇気がないから死刑になるため誰でもいいから殺すとか、自ら腹を痛めた子供を苛め殺すとか、「苛めは娯楽だからなくならない」とか
日本はこれからどうなってしまうんだろう、政治の暴走を止めるのも焦眉の問題だが、だんだん腐りかけている日本人と社会を何とかしなければならないだろうな