死刑の廃止については最近い関して言えばその方が良いかも知れ無いと思う様にはなった、しかしそれは決して死刑が野蛮だとか犯罪者にも人権をとか言う様な高尚な話では無い、
死刑判決の出る様な犯罪には筆舌に尽くし難い心情の被害者たちが居て思いを慮ると「命をもって償う」などと言う事ではなく「ぶち殺してやりたい」と言うのは他人の私でも烈しく思う、
それでも「死刑を廃止した方が良いのではないのか」と思うのには二つ理由が有る、
一つは「冤罪」の恐れである、最近になり再審が幾つか出ているが服役して20数年過ぎているのに次々と新事実が出る事、明らかに隠蔽、捏造と思われる事が発覚する、もし死刑が執行されていたら意図的に隠蔽や捏造をした者達は明らかにもう一つの「殺人事件」である、若しかしたらそう言う事件で死刑を実施されて居る事が在るのではないかと言う疑いが最近多く発覚してきたのだ、そしてそれは本当の犯人が別にいたら、内心ほくそ笑んで社会に生き続けているかと思うと時効の停止と同時に「再審の機会」を担保することは若しかしたら誤審の場合ほくそ笑んでいる真犯人に心理的に圧力をかけられると言う効果が有るのではないか、
無論本当に真犯人で有ったらそれは何の影響もないのだから問題はないだろう。 しかし捏造、隠蔽があきらかになった時なぜ当事者に罰がきせられないか、事項の問題ではない、検察機構と言うシステムは強権が必要なのはわかるがそれを恣意的に使われたら一般人は対抗の手段が無い、万一恣意的な運用が有ったら重責を負わせるのは当然な措置だと思う。
もう一つは死刑の持つ「犯罪抑止効果」が無いのではないかという事件が多くなった事にある、無差別殺人、通り魔殺人の犯行動機に「自殺する勇気が無かったから死刑にして欲しかった、相手は誰でも良かった」と言う犯行動機が報じられているがそれが事実なら「死刑」は無差別殺人の動機になりうると言う事になる、
神戸小学校大量殺人も「早く執行してくれ」と言っていたそうだし、死刑判決も薄ら笑いを浮かべていたという、被害者側からすればこんなに悔しいことはあるまい、自分にすれば「簡単に死なせて貯まるか!死ぬまで苦しめ」と言うくらいの心情だ、しかし死刑を根本的に廃止すれば犯罪者は別のところでやはりほくそ笑むかもしれない、何時か執行されるかもしれないという圧力は残したいのも有るがやはり生きている限り狭い独房で壁と空だけを見続けてそこから自分を見詰め、被害者を考えてこそ「刑」でありそこからが「罰」になる、
寂聴氏が言うような「殺したがる馬鹿」では無い、彼女の考え方がどういう所から出ているかわからないが少なくとも「仏道者」と言う印象は全く無い御仁だ、被害者の心情を慮る事が出来ないと言うのは「仏の心」とはかけ離れている、あの仏衣はパフォーマンスに過ぎないと言いたい
死刑判決の出る様な犯罪には筆舌に尽くし難い心情の被害者たちが居て思いを慮ると「命をもって償う」などと言う事ではなく「ぶち殺してやりたい」と言うのは他人の私でも烈しく思う、
それでも「死刑を廃止した方が良いのではないのか」と思うのには二つ理由が有る、
一つは「冤罪」の恐れである、最近になり再審が幾つか出ているが服役して20数年過ぎているのに次々と新事実が出る事、明らかに隠蔽、捏造と思われる事が発覚する、もし死刑が執行されていたら意図的に隠蔽や捏造をした者達は明らかにもう一つの「殺人事件」である、若しかしたらそう言う事件で死刑を実施されて居る事が在るのではないかと言う疑いが最近多く発覚してきたのだ、そしてそれは本当の犯人が別にいたら、内心ほくそ笑んで社会に生き続けているかと思うと時効の停止と同時に「再審の機会」を担保することは若しかしたら誤審の場合ほくそ笑んでいる真犯人に心理的に圧力をかけられると言う効果が有るのではないか、
無論本当に真犯人で有ったらそれは何の影響もないのだから問題はないだろう。 しかし捏造、隠蔽があきらかになった時なぜ当事者に罰がきせられないか、事項の問題ではない、検察機構と言うシステムは強権が必要なのはわかるがそれを恣意的に使われたら一般人は対抗の手段が無い、万一恣意的な運用が有ったら重責を負わせるのは当然な措置だと思う。
もう一つは死刑の持つ「犯罪抑止効果」が無いのではないかという事件が多くなった事にある、無差別殺人、通り魔殺人の犯行動機に「自殺する勇気が無かったから死刑にして欲しかった、相手は誰でも良かった」と言う犯行動機が報じられているがそれが事実なら「死刑」は無差別殺人の動機になりうると言う事になる、
神戸小学校大量殺人も「早く執行してくれ」と言っていたそうだし、死刑判決も薄ら笑いを浮かべていたという、被害者側からすればこんなに悔しいことはあるまい、自分にすれば「簡単に死なせて貯まるか!死ぬまで苦しめ」と言うくらいの心情だ、しかし死刑を根本的に廃止すれば犯罪者は別のところでやはりほくそ笑むかもしれない、何時か執行されるかもしれないという圧力は残したいのも有るがやはり生きている限り狭い独房で壁と空だけを見続けてそこから自分を見詰め、被害者を考えてこそ「刑」でありそこからが「罰」になる、
寂聴氏が言うような「殺したがる馬鹿」では無い、彼女の考え方がどういう所から出ているかわからないが少なくとも「仏道者」と言う印象は全く無い御仁だ、被害者の心情を慮る事が出来ないと言うのは「仏の心」とはかけ離れている、あの仏衣はパフォーマンスに過ぎないと言いたい