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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

カンナと夕立

2024-07-27 15:56:34 | 昭和の頃
公園や道端にカンナの花が毒々しい程鮮やかに咲いている
子供の頃、掛川城公園の前を流れる逆川にいっぱい咲いていた、
どうも一年中咲いているような気がするのだがどういう訳か自分には夏の花である
カンナと百日紅、そして夾竹桃の花を見ると(暑い!)と言う気持ちになる

   
特に夾竹桃は暑い上に埃っぽいと感じるのは樹勢のせいか、(夾竹桃は画にならないので画像がない)
暑さにも環境にも頑丈の様で高速道路の植え込みにはあちこちに植えられているがこの木は毒が有るらしい
バーベキューをした時に箸が足らなくてこの枝で代用をしたら中毒死したと言う話が有ったがどうやら都市伝説の一種らしい
昔車で営業をしていた頃住宅に大きく道に張り出した夾竹桃が有ってその下に車を止めて昼寝をしたことが有る
未だカークーラーなんぞは営業車にはついて居なく窓を全開にして昼寝をした
午後の陽射しは結構の速さで移動する、寝すぎる事のない丁度良い場所だったがあの頃は左程駐車違反にはうるさくなかった
江戸の夕立は馬の背を分けると言われたが遠州地方でも夏の夕立は本当にくっきりと降る、
くっきりと降ると言うのはおかしいがまるで円柱のような雨足がすごい勢いで走って来る
大急ぎで何処かの家先に駆け込んで通り過ごすとほんの数分で走り去って又元のカンカン照りの陽射しが戻って来る
昭和の田舎道は未だ未舗装で、炎天下で真っ白に乾いていたその上を夕立が通り過ぎると乾ききった道路は水溜まりは出来るがしみこむことはない
夕立が通り過ぎると巻き上がった土誇りの臭いがする、一時的に打ち水のような効果で涼しくなるがその後は蒸し暑さが戻って来る
そろそろ陽が落ちると言う時間なら夕方が楽になるのだろうが夕立と言う割には2時か3時頃の時間が多いのであまりその恩恵には授かる事は無かった
先日練馬で降った豪雨は今では「ゲリラ豪雨」と言う様だ、昔の夕立の比ではないのか川が氾濫した様だがもう一つはあまりに人工的になった街の地表のせいかもしれない
あの時練馬では1時間で一気に12℃も気温が下がった、大田区、品川区では遠く遠雷が聞こえ(ダブった)稲光が有ったがほとんど降らなかった
(こっちも下がってくれたら)と言うのは愚痴か、まあ~暑い!








蝉と夏休みと

2024-07-25 16:55:28 | 昭和の頃
朝コーヒーを淹れながら「今年は蝉の声が聞こえないな」と気が付いた
去年までは梅雨が明けるころ朝から結構うるさく泣いていたのだが陽が上がっても全く聞こえない
団地の中庭にある桜の木が減ったせいかと思ったが伐採をしたのは一昨年の秋だったから去年と木の数は変わっていない筈だ
(関東大震災の時、蝉が一斉に鳴き止んだ)と言う話を思い出して(もしかしたら・・)と考えたが暫くしたら細々と鳴き始めたがすぐ鳴き止んだ
去年か一昨年ブログに書いたのだが此処10年程でこの団地の蝉はアブラゼミからクマゼミに入れ替わってしまった、
引っ越した頃はアブラゼミだったが少ししたらクマゼミのシャンシャンと言う声が混ざって来たなと思ったら去年あたりからシャンシャンに占められてしまった
私の生まれ育ったのは遠州なので基本的にクマゼミである、真夏になると喧しいくらい大勢で鳴きわめく
障子をすべて外して濡れ縁間際に裸で寝転んで汗をかきながらこの声を聴きながら昼寝をした、
クーラーどころか扇風機もない時代の事である
夏休みは朝から川で泳ぎ、帰ってくると裏の沢水で冷やして置いた胡瓜を半分に切って種を掻き出し、船形にして塩を擦り込んで食べる
そして畳に仰向けになって昼寝である、当然宿題は夏休み最後の3日間で必死に片付ける、いや片付いた事は無かった
夏になると風呂は沸かさない、暑くて竈の前に座っていられない、子供の仕事だが親もそれは大目に見てくれて行水を使う
尤も子供たちは川で思い切り泳いでいたので使う事は無かった
考えると理科の教科書に載っていたゼミはアブラゼミだったな、「ミンミンゼミともいう」と書いてあった記憶が有るが紙の教科書だから声が聞こえるわけではない
イラストの蝉はアブラゼミと書いてあるがクマゼミとほぼ同じだからずっとシャンシャンと鳴くのはアブラゼミだと思っていた、東京に来てからあの「ミーン、ミン」と言う鳴き声を聞いた(なるほどミンミンゼミだ)と感心したのだが
ある時「ドクタースランプ」と言う漫画で作者の鳥山明が「漫画の中で夏のシーンを書くと蝉の声をシャンシャンと書いていたが東京では通じなかったのか」と書いていた、
確かに彼の漫画では入道雲にはシャンシャンと書いてあった、彼は名古屋から動かなかったのだ、
クマゼミが箱根を越したのはいつごろか?今では江戸を乗っ取っているみたいだが日比谷公園や皇居の蝉はなんて鳴いているのだろうか

荒城の月と城下町、

2024-07-23 10:57:00 | 昭和の頃
荒城の月と言う曲を思い出そうとするとどういう訳か「松風騒ぐ、丘の上」と言う歌詞を思い出してしまう
三橋美智也が歌って一世を風靡した(おおげさか)「古城」と言う曲の歌詞だった、「春 高楼の花の宴、廻る盃影さして」滝廉太郎と土井晩翠に失礼なはなしだが、
私の生まれた掛川と言う街も城下町で街の北外れに小高い城山があった、
当時は「掛川城公園」と呼ばれ、堀替わりの逆川と言う川を渡りセメントで補強された石段を上がると20m四方位の台上に火の見櫓と観音像が建っていた
いつ行っても殆ど人のいない公園だったが15㎞も山奥の村から一番近い都会に出てくると必ず登る城跡は私の中では街のシンボルだった
観音像は日露戦争勝利の時に記念に建てられて「戦勝観音」と言われていたのだが敗戦の後「平和観音」と改名した
「古城」の歌詞では朽ち果てかけた大手門や天守閣が有る様だが荒城の月は建物は無いようで恐らく跡地だけのような印象だったが
掛川公園も残っていたのは小さな「太鼓櫓」と言う建物と本丸跡に大書院が残っているだけで公園には城の面影はまったくなかった
天守閣が有ったと言う観音像の広場に立つと南に街並みが駅まで続くのが見え、東側に二の丸跡の寺院と高等学校の森がみる
北側には東海道を挟んで田園風景とその先はなだらかな山が続いている、
梶光男の「青春の城下町」の歌詞「流れる雲よ、城山に、登れば見える君の家」の方がぴったりくる景色だった
しかし現在は城山公園では無くその場所に昔のままの工法で復元された城が見事な雄姿を見せている
現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に日本初の「本格木造天守閣」として「東海の名城」と呼ばれた美しさをそのままに復元されたものです。
https://kakegawajo.com/movie/kakegawajo_60s.m4v
今ではこのお城が掛川のシンボルだが自分にとってはやはりあの誰も居ない、観音像の立っている砂利敷の場所がシンボルだった
故郷を離れた人間にはノスタルジーだがずっと住んでいる人にとってはリアルなんだからしかたないのだが甘酸っぱい思いは記憶の中しかないのは残念でもある

雨に咲く花と昭和歌謡曲

2024-07-15 10:18:48 | 昭和の頃
毎日天気がはっきりしない、全く梅雨にふさわしい天気模様だ
その前数日は梅雨入りを嘲笑うが如くの猛暑が続き、流石に7時台から30度を超えて朝の歩きを止めていたので
気温が下がったのに合わせて歩こうかと思ったが家を出ると雨が降って来る
体重がジワリと上がった、少し酒のつまみを減らさなきゃあと思うが飲み始めると止まらない
私は空酒と言うのがだめで何か摘みが要る、
それも色んなものを少しづつ並べて飲むのが好きで一つの抓みは大した量では無いが全体として多くなってしまう
梅雨時の花と言えば紫陽花が定番だが今年は梅雨に入った頃は見所を終えていた
梔子も白い花は茶色にしぼんでしまった
コンビニの植え込みに小さな花が咲いているので移してきた
ビオラ

姫檜扇水仙
相変わらずこぬか雨が降るともなく落ちていて葉も花もしっとりと濡れている
雨に咲く花か、たしか井上ひろしだったと思って確認したら色んな人が歌っている
ちあきなおみが有った、彼女の歌は好きなので聞いてみたがやはりオリジナルが良い、
井上ひろし、水原ひろし、守屋ひろしと3人ひろしと言われていたのも懐かしい
水原ひろしの「黒い花びら」はレコード大賞第一号だったと思う
守屋ひろしの「僕は泣いちっち」も随分流行ったっけ
「月のエレジー」も「長いおさげがみ」も島倉千代子とデュエットで歌った「星空に両手を」好きだった
聞きほれる、口遊むと言う類だったがいまでは乗れないと駄目の様だ、それも「たてのり」でなきゃあだめらしい
彼らは今ではアーティストだ、アートとは芸術だと思うが流行歌が芸術じゃあ口遊むのも恐れ多い
神も芸術も最近は庶民的になったもんだ

隔世の感あり

2024-06-18 17:13:31 | 昭和の頃
少子化に対応してイクメン、育児休暇と言うワードがとびかっている、
男も育児に参加しなければいけない、その為の休暇は父親にも当然与えるべきだと言う趣旨だろう
特に違和感もないし特に「時代が変わったな」などとも思わない、
思わないが昭和の農村で生まれ育った時代と思い返すとやはり隔世の感はある、
尤も育児と言う様な改まった考え方は無かったし大体三世代が当たり前だから比べる事も出来っこないのだが
農村では多くは祖父祖母(なんて言うもんじゃなくジジババとおとっちゃんおっかちゃん)が朝早く近くの農地に出て行って、昼には飯を食いに戻って来て
又出て行って暗くなったら帰って来ると言う生活だから子供も勝手に野原で駆け廻っていたり、親の手伝いをしたりだから子供を遊びにどこかに連れてゆく事自体が無い、
公園デビューどころか村に公園なんてもんは無い、第一必要が無い
オムツも紙おむつなんかは無く浴衣の端切れか手ぬぐいをリング状に縫い付けた布で、汚せば洗って使う
ミルクの時間なんかはある筈はないほとんど母乳だ、親父が手を貸せるわけはない、
足らないと貰い乳、後は重湯だったがそれでも結構育ったもんだ、
江戸時代は乳児死亡率が高かったと言うが戦後時代はそんな話は無かったな
飯の支度は確かにお袋か婆の仕事だがその為に先に引き上げるのは当たり前で全体の仕事に組み込まれていた
夕飯が終えた後の片付けは女手に決まっていたし、たしかにそれを言えば男どもは偉そうだった、偉そうだっただけで実際の実権は女たちが握っていて酔っぱらいを上手に煽てたり宥めたり、しかし実態はやはり爺も婆には頭が上がらないのが実情だった、
「親父と遊んでもらった記憶」なんかは恐らく当時の村の子供には皆無じゃないのかな、まあお袋に遊んでと言うのもほとんどないだろけど
当時の村には子供には子供の社会が有り、その子供はやがて若い衆になって青年団に入る、
上の子は下の子の面倒は責任をもって遊ぶのが当然で、中学を下りるとやがて青年団に入る、
青年団に入る前の1年は予行入団みたいな事もあって公民館か寺の本堂に一晩みんなで寝る、そこで酒も女の話も教わる
(女子青年団もあったが当然男の我々にはどういう世界か解らない、がまあ同じようなもんなんだろな)
大学まで行くのはほんの一握り、長男が家を継いで次男以下は家を建てて共同の農業をしたがこの頃になると殆ど就職していった
終戦後の「産めよ、増やせよ」の時代だったがどん底に落ちた経済はどうなってもこれ以上は落ちない、朝鮮戦争で景気は急激に上昇する
幾ら子供を産んでも(もっといい世の中になる)と安心して苦労が出来た時代だった、
子供を産んでもらうために政府がいろんな旗を振るが「きっとこれからもっと酷い世の中になる」としか思えないのでは育休でどうこうなる話じゃあないよな