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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

偏屈親父と拾った恋の話

2025-01-16 17:42:29 | 昭和の頃
やっぱりあんたも おんなじ男
  あたしはあたしで 生きてゆく
  今更なにを 言っているのさ
  気まぐれ夜風に 誠なんかあるものか
  捨てちゃえ 捨てちゃえ
   どうせひろった 恋だもの
コロンビアローズの流行歌、昭和31年だった
ふっとこの歌が頭に浮かんだ、
私にはあまり親父の思い出が無い、取敢えず最後まで一緒に暮らした家族なんだが何方かと言えば小学校の時に癌で無くなったお袋の方が色々思い出す
しかし、この歌に親父が「どうせ拾った恋だもの、とは何て言い方だ」と怒っていたことを思い出した
今考えると随分純な考え方をする男だったんだな、大体恋なんぞはこんなもんだろう
恋に落ちると言うような歌詞もあるが大抵はどこぞで拾った様なもんだろう
理屈っぽくって殆ど笑わなかった偏屈親父が「拾った恋とはなんだ!」と怒っている状況は今考えても妙に違和感がある
大体最初に好きになった相手が最愛の相手なんぞ有る訳もない
失恋した痛手をハスに構えての歌詞なんだろうが其れを本気で怒っている親父を考えるとなんとなく笑えて来る

東宝食品と言う会社と昭和の話

2025-01-07 14:35:05 | 昭和の頃
昭和の40年代の話
日比谷通りを新橋から皇居に向かい、日比谷公園の前を右折する
右手前の角は帝国ホテル、向かい側は日生劇場で有る
当時の帝国ホテルは2代目のフランク・ロイド・ライトの設計による荘厳な建物で今では岐阜の明治村にある、その後たてられた本館も今又建て替えの様だ
左手の大きな建物は日生劇場で背中合わせに有るのが東京宝塚ビル、
この辺りは殆どが東宝の建物でこのみゆき通りからは入れない一方通行だが晴海通り側から入ると左側に日比谷劇場、少し曲がったあと真っすぐなる一方通行路の左が有楽座、
外次が千代田劇場、右側のビル地下から3階が東京宝塚で4階がスカラ座、その上が東宝演芸場である
千代田劇場は東宝映画の封切館、スカラ・有楽・日比谷劇場は洋画専門である
恐らく配給映画によって決まっていたのだろうが良く解らない
千代田劇場を過ぎてみゆき通りを左に折れるとすぐに有るのがみゆき座で基本的にフランスとイタリアの映画が掛かる、
このビルの3階は芸術座、森光子の「女の一生」の記録的ロングランが掛かったのもこの劇場である
芸術座の立ち稽古場が有ったのが日比谷劇場からガードに向かう狭い路地にあった「インドネシア・ラヤ」と言うエスニックレストランの3・4階ですれ違う事も難しい様な階段を上がった所にあった
仕事の関係で3階の隅にあるインドネシア・ラヤのストッカーにアイスクリームを運び入れる事が月に何度かあったがこの階段では何人かの女優と鉢合わせをする事が有った、
一人は当時芸術座で掛かっていた「三人姉妹」と言う舞台(だと記憶しているが)に出ていた岡田茉莉子さん、勢いよく曲がったら正面から鉢合わせをしてしまった、(小さいな、が印象的だった)「すみません!」と謝ったが凄い顔で睨んで黙って降りて行ってしまった、
もう一人は中山千夏さんだが何に出ていたのかは覚えていない
ガード前を左に曲がると渡邊プロの入ったビルが有ってその一階にある中華料理屋にその後大ブレークした「ブルーコメッツ」の井上大輔、ダイチャンが働いていた
曲がらないでガードをくぐり左に曲がると正面の細い隙間から晴海通りを超えた有楽町のガード下に改札が見える、右側を圧して見えるのは今では無くなってしまった日劇の丸い建物、
路地のガード下に「カレーの後楽」と言う店が有って毎日朝50食限定で50円カレーを売っていた、
此れが実にうまかった記憶がある、今と違ってポークとビーフだけだったが当然これはポークで量も大したことは無いが昼飯は別にとるのでまあ10時のおやつだ
日立の職工から飛び込んだいわば水商売、昼でも夜でも「おはようございます!」と言う世界が楽しい時代だった、先の事なんかこれっぽちも考えていない若さならぬ馬鹿さである

センブリとカイニンソウ

2024-10-26 11:28:09 | 昭和の頃
昭和30年代の小学校では検便と言うやつが定期的に有った
回虫検査とも言っていたが各自マッチ棒の先位の大便をマッチ箱に入れて学校に持って行く
検査の結果がどのくらいの期間で戻って来たか覚えていないが結果によって虫下しと言うやつを強制的に呑まされる
大抵飲む羽目になっていたので殆どの児童から回虫の卵が見つかるのだろう
この時処方される薬と言うの「カイニンソウ」と言う飲み薬で、ドロドロの煎じ薬だった
調べてみたら「海人草」と言う海草の一種らしいが当時はごく一般的なもので学校で施薬する位だったから厚生省認可薬だったのだろう
兎に角、臭い、不味い、飲みにくいと言う三拍子そろったやつだったが先生監視のもと湯飲みで大量に飲まされた
かなりの児童が排便時に白い回虫が出たと言っていたので効き目はあったのだろう(自分は出なかった記憶が有る)
当時のトイレはいわゆる日本橋(二本の板を肥え桶の上に渡しただけのスタイルである)だからよく観察できるのである
病院なんぞは町に出ても総合病院は掛川が市政になった後で出来た市立病院だけで個人病院は市内にすら内科が幾つかと歯医者が一軒しかない
薬局が有ったかどうか覚えていないが街から4里も離れた山奥にある訳もなく常備薬は置き薬だった、
俗にいう「富山の薬売り」的な置き薬屋が自転車の後ろに付けた柳行李に入れて年に何回かまわって来るのである
使っただけ追加してその分だけ支払うと言う方式で子供がいる家庭には紙風船を置いて行ったが其れが楽しみだった
風邪に「とんぷく」解熱剤は「みみず一風散」と「赤玉」と言う腹痛薬兼痛み止め、大抵こんなもんで何でも対処できた、と言うかするしかない
未だ置き薬が無い頃からの民間治療は「せんぶり」である
食欲不振とか虚弱体質の対応薬として特に女性が服用していたが調べるとちゃんとした漢方薬の様だ
これが苦い、筆舌に尽くしがたいと言う位苦い、それが効用だと日本薬学会に書いてあったがその部分は子供の罰として使われた記憶が有る、
まあ、我が家だけだったかもしれないが何しろ60年以上昔の話である、今更「あの頃はこういう事もあったよな」と記憶のすり合わせが出来る近しい人はほゞ鬼籍に入ってしまった
昭和は遠くなりにけり、令和生まれのZ世代なくとも自分が考えてもほぼ江戸時代と変わらない印象だ

親父の話の続き

2024-10-16 09:42:58 | 昭和の頃
その頃家には掛け時計が有った、
昭和頃のドラマや昭和民家館でよく見る奴である
8角形の文字盤廻りと振り子の見えるガラスのはまった茶色の奴でちょっとくすんだベージュの文字盤に中の抜けた長針と短針があった事は覚えているが秒針は無かった気がする、
発条は時計用と時報用の2つがあり、向かって右側が時計用、左側が時報用だったがどういう訳か右の発条は反時計廻りに、左の発条は時計廻りにまくようになっていた、
小学校に上がった頃から毎日発条をまくのが自分の仕事になっていたが嬉々としてやっていたのではないかと思う
親父は毎年一度時計を分解掃除をする、明るい縁先に新聞紙を敷いて針を外し、文字盤を取って中のユニットを出すとすべてのネジを外してバラバラになった部品をブラシを使って灯油で丹念に洗うと乾燥させて再度組み立てて機械油をさして文字盤と針を戻す、
当時油さしと言っていた物は今のプラスチックとは違いブリキ製で半球形をしていてそこの部分を押すとぽこぽっこと音のする奴だった、
今考えれば時計ユニットなんかは本当に単純な構造だからさして大した作業ではないのだが未就学児の自分には(お父さんは凄い!)と感心するには充分だった
真鍮の厚みのある振り子の下には調整ネジが着いていてそれを廻す事で時計の遅速を調整する、
「振り子の振幅時間は長さで決まっていてふり幅が変わっても一定」だと言う事を教えてくれたのも親父だった
田舎の家にはないノギスやマイクロメーターが道具箱に入っていて学校の工具より何かずっと高級な道具に見えたのも当時親父はすごかった
手先は器用で篠竹で竹笛をこさえてくれたり、破竹(当時村ではハチコウと言っていたが)で弓を作ってくれたり、樫の木で木刀を作ってくれた
しかし、声も顔も覚えていない、薄情な息子である、ただただ、生きるのに忙しかったのだと言うのは良い訳だろうな、
普通は覚えているんだろうがまるで古いフィルムを見ているように白黒の思いでしか残っていない
今になって思い起こすのは若しかしたら老人性痴呆症、逆行性健忘症か?毎日昨日喰ったものを日記に記録していると時々思い出せない事もある、
何とかしなきゃ拙いぞ!

親父の話をしてみよう

2024-10-15 14:44:41 | 昭和の頃
私は親父の事をあまりしらない、或いは解らない、“殆ど”と言っていい程だが人生で一番遅くまで一緒に生活したのは親父だった
一番遅くまで一緒に暮らしたと言っても一番長い時間を共にしていたと言う事ではない
物心の付くころからお袋が癌で入院するころまで度々出稼ぎをしていたので生活の中にあまりいなかった
親父も私の生まれ育った家で生まれたらしいがやはり赤貧だった様だ、親父とそういう話をしたことが無いので姉と兄から聞いた話の知識である
親父の兄弟は姉が一人と兄と弟がいたらしいが若しかしたら兄二人だったかもしれない、親父は親戚付き合いと言うのが嫌いだった、
市内に一人と桜木と言う所に一人の叔父さんが居たが殆ど行き来は無かった、伯母さんに関してはどこに嫁いでいたのかすら、まったっく知らない
親父が東京に就職した時期に前後してこの家は絶えた、
軍需工場の中島飛行機に就職して戦時下の事、そこそこの稼ぎをしていたらしいがそのせいで兄弟とは疎遠になったらしい、
敗戦で無一文になって親父は後添えだったお袋と二人の姉を伴って廃墟に掘立て小屋を建ててこの村に戻って来た、
叔父二人と会ったのはお袋の葬式時意外に記憶はない、伯母が来ていたかどうかも定かではない
気位の高い偏屈な親父だったのは後から姉二人から聞いた、思い出してみると確かにしょっちゅう村の人と衝突していた記憶もある
農村で田畑を持たない家は一段も二段も地位が低い、その親父が偉そうに理屈をこねる、
農家の親父は理屈では親父には勝てなかったがその分怒りや顰蹙は十分に残る、晩飯で親の怒りは子供の怒りとなって学校で子供に廻って来る
子供には遠慮会釈は無い、残酷である、
村の祭りは甘酒とお煮しめ、子供におひねりの僅かな菓子が配られる、しかし、祭りは村人の寄付で賄われている、煮炊きや甘酒の支度にはお袋も出ていたが生活保護家庭の我が家は免除されていたのだが同級生は私に向かって「寄付も出さんで菓子だけ喰うのか」と祭りに来た私を面罵した、
お袋は私から菓子を取り上げて役員に返した、村のかみさんたちは「そんな事を気にするな」と言ってくれたが私は手にすることは出来なかった
貧しいと言う事は絶対的な貧しさと相対的な貧しさがある、子供にとっての貧しさは自分の家の貧しさは友人より貧しいと言う事が自分の価値迄見下げられんだと言う事がとても悔しかった、
お袋は「お父ちゃんに言っちゃだめだよ、絶対に怒鳴り込むんだから」と言っていた、その事が更に立場を面倒にすることは更に私に戻って来る
中学1年生でお袋が死んで姉は家を出て行った、親父と共同生活の様な暮らしを2年して東京に出て来たが二人だけの二年間も含めて親父の顔が思い出せない
親父の顔はいつとったか解らないがモノクロも写真の顔だけである、
かみさんからみると私の家族関係に関する考え方と言うものが「かなりおかしい」らしいがこんな所にあるのかもしれない、
私の子供たちは女房と一緒になった時に私の子供になったが未だに時々思うのだ(子供たちは本当に俺を父親として認めてくれているんだろうか)と
しかしもしかしたらこんな事を考えていること自体子供達に対する裏切りなのかもしれない、