狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

スポーツの長が頻繁に傷害を願う悪 私が園児のころにスイミングスクールで溺れかけた件の再構築

2024-06-21 06:03:10 | Weblog

思い出したのか思い作ったのか。 事件が起きる直前の私の心理を後年の私から再構築したものが割としっくり来た件。

事件はスイミングスクールの、その日の練習時間の終わりごろ、巨大ビート板が出され、園児たちがそれにひっつく形となったと。 私はその下に入り込む形となったが、園児たちは私を水中に閉じ込めるべく動いた。 私は大きく横に泳ぎだし事なきを得た。
再構築したのは「何故そうなったのか」の私の心理、動機的なもの。
① 横並びひしめき合うのを不快とした
② 水の中の光景を見たかった
③ 板の下に入り込んだら周りの人間は喜ぶのではという期待

こんなものがある。 ①は身勝手さ、②は猫が死ぬ好奇心、③はお調子者の性質。 周囲の園児たちの反応は私の③によって出来たもの、と見なす事も可能。

「雑霊」園児たちの他に三つくらいの「神の意志」を見る。
1 私を罰そうとした場の長の意思
2 私を助けるべきだとした次の意思
3 「長を私の敵としよう」とする意思

私の中に再構築された当時の状況から、問を二つ見る。
一 私の行いは罰されるべきものだったか
二 スポーツの神の罪はどのようなものか

まず一だが、それには道理はあったとする。 方法への問はあるが、彼視点で安全が確保されていたのなら妥当だったとする。
次に二の、スポーツの神の罪。 これはこの世のスポーツ指導者らの虐待が彼に端を発している点にある。 彼は一対一ならば妥当だが、範としては不適格、となる。 彼は、彼のあり方を真似るものたちを悪としなければならなかった。 それを善としたので虐待を看過、推奨する者となってしまっていた。

最後に、「敵としよう」のあれだが。 まああれだわな。

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