福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

東京五輪(2) 1964年東京大会の思い出 のちに記録映画で堪能

2019年07月29日 18時10分20秒 | スポーツ、相撲、芸能など
 1964年、私が高校を卒業し、仙台で浪人生活を送っていた。高校卒業後1年の浪人生活を加えた4年計画で医学部進学を目指しており、予定通り新潟大学、弘前大学を不合格となったからである。

 あの当時の五輪フィーバーは今回のそれに比較できないほどの盛り上がりを見せた。日本全体が五輪開催に期待し、五輪が終われば新しい時代が来るはず、と全国民が開催を祝福していたように思う。新幹線も五輪に合わせて開業した。

 私は仙台の連坊小路にある下宿先から予備校に通っていた。
 五輪期間中は、食事時にニュース映像を垣間見る程度であった。日本では当時カラーTVは5万台と、まだ一般家庭には普及していなかった。東京五輪を契機に受像機の生産が急激に伸び始めたが多くの家庭では白黒で観戦していた。当然、下宿のTVは白黒であった。

 私は当時は五輪どころではなく、家の経済状態から見てもう後がない、と過緊張状態でにあったが、ラジオを聴きながら、得意のながら勉強しながら、五輪の雰囲気を味わっていた。開会式のNHKアナウンサーの実況中継は素晴らしかった。

 3月、私は「まぐれ中のまぐれ現象」で新潟大学に合格、同時に大村崑監督の東京五輪記録映画も完成した。私はこの映画に五輪観戦をかけていた。映画自体は駄作、名作かで揉めたが、私にはそんなことはどうでもよかった。新潟の映画館で観たが、美しいカラー映像で、その日の感激は忘れられない。

 その後10年経ち、レーザーディスクで発売となり、早速購入、何度もなんども観た。やがてレーザーディスクの時代が終わり、再生装置も故障、観る機会を失ったが、つい数年前に映画として放映され、それをハードディスクに録画してある。いま頻回に見ることはないが、映像はかなり鮮明に改善されていた。

 その中の注目はやはり優勝した女子バレー、マラソンの金のアベベ、銅の円谷の姿は忘れられない。

 東京以降の五輪、開催地は名前だけはなんとか記憶にはあるが、注目した競技そのもの、ヒーロー、ヒロインなど上げることは一切できない。TV観戦等もほとんどしなかった様な気がする。本ブログは開設して20年だからこの間5回ほど五輪が開催されたことになるが、検索をかけてもほとんど出てこない。関心が乏しいからであろう。

 私の五輪は1964年の東京五輪で足踏みしている。
 2020年の東京五輪の招致が決まった時には私は腸閉塞や脳梗塞を発症した直後でもあり、まさかそこまでは生きられないと思っていたから、あと一年に迫った東京五輪について記述できるのは法外の喜びである。
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