福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

牛乳(1) 懐かしい脱脂粉乳給食 搾りたての牛乳は美味だった 

2024年03月03日 06時08分19秒 | コラム、エッセイ
 私は1952年(昭和27年)に小学校に入学した。

 もうその頃は我が国の食料事情はかなり良くなってきていただろうが、昼食時にアメリカの脱脂粉乳が学校給食として振る舞われた。上下が金属で、側は厚いボール紙で出来た丈夫なドラム缶の中に白い粉乳が入っており、その一定量をブリキのバケツに入れ、ぬるま湯で溶かしたもので、アルミの器で配られた。
 週2~3回ほどあったような気がするが、私の記憶では短期間だけだった気がする。
 脱脂粉乳は「あまりおいしくない」といわれていたが、私は喜んで飲み、アメリカに思いを馳せた。
 上級生が給食係を担当してくれたが、時にバケツをひっくり返してその日の給食がパーになる事もあったが、いい思い出である。

 この脱脂粉乳はアメリカのキリスト教団体など13団体で組織された日本向け援助団体(LALA)によって、1946年~1952年までの間総額400億円の救援物資が届けられた、という。そのうち4分の3が脱脂粉乳などの食料品であったとされる。
 岩手の片田舎の小学校までよく届いたものだ、と感心する。

 粉末化された脱脂粉乳は長期保存が可能で、育ち盛りの子どもに必要なカルシウムやたんぱく質を補給でき、高い栄養価により、戦後の食糧難の中、児童の栄養状態を劇的に改善した、と言われている。

 これとは別に当時、我が家では週に3回ほど親戚の農家から搾りたての牛乳の提供を受けていた。朝7:00に空の4合瓶を持って牛乳をとりに行くのが小学生の私の役目であった。
 生の牛乳は殺菌しないで飲むのは危険とされており、母が毎日2合ずつ小鍋で沸騰させていた。
 牛乳は簡単に吹きこぼれる。炭火の七輪にかけた土鍋を、母は見つめて待っていた。熱くなった牛乳の表面にサワサワと薄膜が張ってくる。それを母は箸で上手に絡め取り小さな湯呑に移し、少量の牛乳を足して私にくれた。これが毎朝の楽しみの一つであった。思い切って火にかける前の牛乳を少量すくって飲んでみたことがあるがとても美味しかった。

 稀にヤギの乳も入手できた。同様に沸かして飲むのであるが、雑草ぽい匂いがして私は好きになれなかった。
 子ネコの代わりに母ネコの乳房から直接吸ってみた事もあるが、量は少なく、かなり塩っぱかった印象が残っている。
 

 



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