これは二人だけの秘密・・・・・。貴方ならどうしますか?
6月に入りました。梅雨ですね。この映画は5月2日に鑑賞したのですが・・・。レビューせず、ほったらかしにしていました。もう1ヶ月経ってしまったのですが。かなり印象深い作品でしたね。
ルーマニアの映画です。ルーマニアというと、東欧ですね。共産主義国というイメージくらいしか思いつかないのですが。そして地味な感じもします。
舞台は1987年のチャウシェスクによる独裁政権下のルーマニア。この時代、労働力を確保する目的で、4人子供を産んでいない女性は、中絶することが法律で禁止されていた。そんな状況下、望まない妊娠をしてしまった若い女性ガビツァ、彼女を必死に助けようとする友人のオティリア、そしてガビツァの中絶を極秘に引き受ける医者の男ベベ…この3人を中心に、映画が展開していく。
主人公のオティリアは大学生、彼女は大学の寮のルームメイト、ガビツァが妊娠したため、自分のことのように、助けようとする。ある意味人が良すぎるのでは?なんて思うくらいである。対してその助けを請うガビツァは甘ったれでいい加減ときている。観ている私もなんてやつと腹立たしい。人がいいのか?オティリアはそんな彼女のために、あらゆるミスの尻拭いをさせられるわけで・・・・どんどんどつぼにはまっていくことに
堕胎手術のためにと、ガビツァがホテルを予約したのはいいが、オティリアが行くと予約されているはずのホテルはされていないことがわかる代わりのホテルを予約するオティリア、そして手術を受けるヤミの医者と面会することに。男は予約ミスに信頼できないと憤慨その上お金も足りず、結局オティリアが後始末させられることに。本来何もかもガビツァ本人がやらなきゃならないのに・・・・・。ホテルでの3人のやり取りの末、男が提示した条件は、後始末=オティリアが体を提供するという凄い話だタダでさえ、中絶ということが非合法になっているこの国で、細心の注意が必要なのに、男の提示する条件を受けるオティリアの心情は一体どうなのか?理解できない。堕胎手術を目の前に見て、明日はわが身だとは思わないのだろうか?
手術は成功する。しかしその胎児の遺体をどう処理するのかも、オティリアまかせ。彼女は夜の街を徘徊しながら、遺体を何処に始末しょうかそんな彼女の焦りや恐怖がじわじわと伝わってくる。
何とか始末を終え、ホテルに戻ったオティリア。そんな彼女の心労をよそに、何の危機感も感じないガビツァは、のん気にレストランでを取っていた。この光景をみて恐らくオティリアはしていたに違いない。でも言葉を呑み込む。
さてこの「4ヶ月、3週と2日」はガビツァの妊娠期間を意味している。多分この期間での中絶というのは、恐らく危険なのではないだろうか?そのことを恐れてなのか、ガビツァはオティリアに2ヶ月と告白していた。
重複しますが、もう少し詳しくあらすじ紹介。
困難に立ち向かう女性の苦悩を描き、2007年カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したルーマニア映画
1987年の冬のある日、チャウシェスク政権下のルーマニアで、大学生のオティリアは寮のルームメイトのガビツァとせわしくなく動き回っていた。寮を出たオティリアはホテルへ行くが、予約が入っていない事を知り、仕方なく別のホテルを取る。またガビツァの代わりにある男に会う事に。実はガビツァは妊娠しており、オティリアはその違法中絶の手助けをしていたのだ。しかし思うように事は進まず、オティリアの苛立ちはつのっていく。
チャウシェスク独裁政権末期のルーマニアでは中絶は非合法で、それを犯すと重罪が待っていた。しかし経済が破綻した状況下では、密かに中絶をするものが多かったという。タイトルの『4ヶ月、3週と2日』とは、カビツァが中絶する日までの妊娠期間の事。ただし作品のテーマは「中絶の是非」ではなく、ある状況に追い込まれた女性二人が、その時にどう行動するかだ。ほぼワンシーンワンショットで撮影された本作は、俳優の表情や行動を執拗に追う事で、セリフに表れない感情を見事に引き出している。性格も対照的な二人の女性が、助け合って生きていく厳しい現状がそこから見えてくる。2007年のカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞。(@映画生活より)
監督・脚本・製作:クリスティアン・ムンジウ
オティリア(女子大学生)/アナマリア・マリンカ
ガビツァ(女子大学生、オティリアのルームメイト)/ローラ・ヴァシリウ
ベベ(中絶を請け負う医師)/ヴラド・イヴァノフ
アディ(オティリアの恋人)/アレクサンドル・ポトチェアン
アディの母/ルミニツァ・ゲオルジウ
アディの父/アディ・カラウレアヌ
2007年・ルーマニア映画・113分
配給/コムストック・グループ 配給協力/ツイン、マジックアワー
何故?オティリアは、ガビツァのためにここまで、身をこなにして助けたのかと思う。全てを押し付けられて、その上自分を犠牲にしているのに。ガビツァの身勝手さが頭にくるのも当然だろうし。でも女性として、妊娠という追い詰められた問題に何とか立ち向かいたいという気持ちがオティリアの中にあったのかもしれないと感じた。この問題は女性ひとりが犠牲を払わなければならないという抑圧を何とか屈したいという気持ちの現われだろう。国の勝手な政策に対して何故?罪を課せられなければならないのかという憤りは彼女たちにあったのではないだろうか。最低3人は子どもを産まなければ、中絶してはならないという国の施策の異常性を考えれば、やはりこのような事態が仮に起こっても不思議はないだろう。