鎌倉時代の陶器について、述べます。
平安末期になると、須恵器の顧客であった、貴族や、寺社などの、上流社会が衰退し、焼き物も、
新たな需要先が、必要になります。そこで、地主や、一般庶民向けに、作品を造ります。
「山茶碗」は、行基焼きと呼ばれ、庶民の日用雑器として作られます。
当然、安価で、多量に作る必要が有り、手を抜いた、粗雑な造りでした。
1) 鎌倉時代の焼き物
① 尾張(瀬戸)、三河、美濃、丹波、越前、信楽、備前などでは、平安の時代から、須恵器が
焼かれていましたが、更に増産される様に成り、品質は粗雑化していきます。
② 瀬戸の焼き物
尾張の瀬戸では、良質の土が、大量に産出される事から、平安須恵器が、大量に作られて
いました。平安末期に、淡黄緑の灰釉を掛けた、焼き物が生産されています。
) 鎌倉時代になると、日本初とも言える、本格的な陶器が、瀬戸で造られます。
) 瀬戸焼の開祖、藤四郎
宋に渡った、道元禅師に随行した、山城国の加藤四郎左衛門景正は、六年の滞在中に、
中国福建省の建窯で、製陶技術を学び、帰国(1242年)後に、瀬戸の祖母懐(うばがふところ)で、
本格的な、陶器を作る事に、成功します。
a) 瀬戸の土は、色も白く、細工もし易く、高温にも耐える、粘土でしたので、窯の改良と共に、
従来より、200℃程高い、1200℃以上で焼成されました。
b) 木の灰を主原料とした、灰釉(かいゆ)を掛け、酸化焔で焼くと、含まれる鉄分により、
飴色から、黒褐色(天目釉)になり、還元焔で、黄緑色に成ります。
c) この頃の、瀬戸の焼き物を、古瀬戸と呼びます。
古瀬戸は、宋の青磁、青白磁、天目釉などを、手本にしたと、思われます。
d) この種の焼き物は、室町時代まで、続きますが、瀬戸、美濃付近に限られ、全国的には、
普及されませんでした。
③ 備前の焼き物
備前では、古代から、焼き物が、作られていましたが、鎌倉時代に入ると、日用雑器である、
壷、甕(かめ)、鉢などが、大量に作られます。
この地方の土は、硬質に焼け締まる土で、信楽の紫香楽宮の、屋根瓦にも使われています。
京に近い関係で、焼き物産地として、発達していきます。
④ 六古窯について
) 常滑、越前織田、丹波立杭、備前伊部、信楽、瀬戸は、六古窯と呼ばれ、無釉の焼き締め、
即ち、「せっ器」の、代表的な産地です。
焼き締めは、釉を使わず、焼成温度を、高くする事で、硬くて丈夫で、水を透し難い作品に、
仕上げます。この焼き物は、日用雑器として、全国各地に、供給されています。
) 常滑焼は、東は関東、東北地方まで、西は、中国地方まで運ばれました。
備前焼は、西日本一体で、広く使われていました。瀬戸は、関東、関西を中心に、流通します。
即ち、この頃には、日本全国で、一般的に、使われて居た事に成ります。
以下次回(室町時代の陶器)に続きます。
鎌倉時代の陶器
平安末期になると、須恵器の顧客であった、貴族や、寺社などの、上流社会が衰退し、焼き物も、
新たな需要先が、必要になります。そこで、地主や、一般庶民向けに、作品を造ります。
「山茶碗」は、行基焼きと呼ばれ、庶民の日用雑器として作られます。
当然、安価で、多量に作る必要が有り、手を抜いた、粗雑な造りでした。
1) 鎌倉時代の焼き物
① 尾張(瀬戸)、三河、美濃、丹波、越前、信楽、備前などでは、平安の時代から、須恵器が
焼かれていましたが、更に増産される様に成り、品質は粗雑化していきます。
② 瀬戸の焼き物
尾張の瀬戸では、良質の土が、大量に産出される事から、平安須恵器が、大量に作られて
いました。平安末期に、淡黄緑の灰釉を掛けた、焼き物が生産されています。
) 鎌倉時代になると、日本初とも言える、本格的な陶器が、瀬戸で造られます。
) 瀬戸焼の開祖、藤四郎
宋に渡った、道元禅師に随行した、山城国の加藤四郎左衛門景正は、六年の滞在中に、
中国福建省の建窯で、製陶技術を学び、帰国(1242年)後に、瀬戸の祖母懐(うばがふところ)で、
本格的な、陶器を作る事に、成功します。
a) 瀬戸の土は、色も白く、細工もし易く、高温にも耐える、粘土でしたので、窯の改良と共に、
従来より、200℃程高い、1200℃以上で焼成されました。
b) 木の灰を主原料とした、灰釉(かいゆ)を掛け、酸化焔で焼くと、含まれる鉄分により、
飴色から、黒褐色(天目釉)になり、還元焔で、黄緑色に成ります。
c) この頃の、瀬戸の焼き物を、古瀬戸と呼びます。
古瀬戸は、宋の青磁、青白磁、天目釉などを、手本にしたと、思われます。
d) この種の焼き物は、室町時代まで、続きますが、瀬戸、美濃付近に限られ、全国的には、
普及されませんでした。
③ 備前の焼き物
備前では、古代から、焼き物が、作られていましたが、鎌倉時代に入ると、日用雑器である、
壷、甕(かめ)、鉢などが、大量に作られます。
この地方の土は、硬質に焼け締まる土で、信楽の紫香楽宮の、屋根瓦にも使われています。
京に近い関係で、焼き物産地として、発達していきます。
④ 六古窯について
) 常滑、越前織田、丹波立杭、備前伊部、信楽、瀬戸は、六古窯と呼ばれ、無釉の焼き締め、
即ち、「せっ器」の、代表的な産地です。
焼き締めは、釉を使わず、焼成温度を、高くする事で、硬くて丈夫で、水を透し難い作品に、
仕上げます。この焼き物は、日用雑器として、全国各地に、供給されています。
) 常滑焼は、東は関東、東北地方まで、西は、中国地方まで運ばれました。
備前焼は、西日本一体で、広く使われていました。瀬戸は、関東、関西を中心に、流通します。
即ち、この頃には、日本全国で、一般的に、使われて居た事に成ります。
以下次回(室町時代の陶器)に続きます。
鎌倉時代の陶器
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