毎年1~2回の個展で、独創的な作品と新しいスタイル(技術)で常に周囲の度肝を抜き、出品された
作品も即日完売になるほど人気を博し、スケールの大きい現代の最も有能な陶芸家でしたが、惜しくも
49歳の若さで亡くなった人に、益子の加守田章二(かもたしょうじ)がいます。
加守田章二 : 1933年(昭和8年) ~ 1983年(昭和58年)
① 経歴
) 大阪府岸和田市に加守田貞臣の長男として生まれます。
) 1952年 岸和田高等学校卒業後、京都市立美術大学、工芸科陶磁器専攻に入学します。
富本憲吉教授、近藤悠三助教授、岩淵重哉助手らの指導を受けます。
) 1956年 上記陶磁器専攻を卒業、茨城県日立市の大甕陶苑技術員となり、作陶に従事します。
) 1958年 大甕陶苑の勤務から、栃木県益子の塚本製陶所の研究生となり、作陶に専念します。
翌年 塚本製陶所を辞し、益子町道祖土に部屋と登窯を借りて独立します。
) 1960年 日立商工会館にて、初の個展を開催します。
) 1961年「第8回日本伝統工芸展」に「鉄釉花瓶」を出品し、入選を果します。(以降連続入選)
益子に住居と窯場を完成させます。
) 1964年 五島美術館主催の「第7回陶磁の新世代展」に「広口灰色花器」招待出品。
朝日新聞社共済「現代国際陶芸展」に「黄土掛け灰釉花瓶」出品。日本工芸会正会員となる。
国立近代美術館京都分館開催の「現代日本の工芸展」に「灰色の花器」招待出品。
) 1966年 日本陶磁協会賞受賞。 日本橋高島屋にて「加守田章二作陶展」開催。
「第13回日本伝統工芸展」出品の「灰釉鉢」が文化庁買い上げ、後に東京国立近代美術館所蔵
となります。
) 1967年 京都国立近代美術館が「灰釉大鉢」を購入。高村光太郎賞受賞(陶磁器界では初)。
以降、「現代陶芸の新世代展」(京都国立近代美術館開催)、「加守田章二展」(日本橋高島屋)
第1、2回「江崎一生・加守田章二・森 陶岳三人展」(ギャラリー手)など多くの作品を
発表し続けます。
) 1969年 岩手県遠野市青笹町に築窯し、仕事場と住居を作ります。
② 加守田章二の陶芸
) 初期の作品は、古瀬戸風な飴釉を手がけています。
) 1960年代には、紐状の撚り土による、手捻りの技法も多いです。
「手で作れば空間のできゆく確かな手応えがある」と語っています。
a) 釉の起源とも言われる灰釉の研究に進みます。 穴窯での還元焼成による、須恵器風の灰陶の
灰白色や灰黒色の陶器で、素朴で重厚な作品ながら、鋭い造詣感覚が現れている作品です。
「灰釉どら鉢」(1966年、東京国立近代美術館蔵)、「灰釉鉢」(1967年)
b) 次に須恵器風の作品から、土の素材感を生かした、土器風の作品へ変化し、器形も面取りに
よる、平面構成に変化して行きます。又、赤土の釉、銀彩などの彩色による形態を明確に
区分する方法をとります。「赤彩色面壷」(1968年)、「銀陶六角鉢」(1968年、京都国立
近代美術館蔵)、「器(せっき)面筒」(1969年)などの作品です。
・ 銀陶は、素地の表面全体に赤土の釉を塗り高火度焼成し、更に銀を水と「ふのり液」で
溶いて赤土に上塗りし、700~800℃で焼成する方法で行います。
この事により、一層古拙的に成り窯変が出て趣が増します。
c) 1970年代に入ると、平面的構成より曲面的構成へと移行し、更に独創的作品を作り上げます。
「曲線彫文壷」(1970年)がその先駆的作品です。化粧された土器風の器面に、箆(へら)で
波状文が平行に浮彫され、砂漠の風紋の様な趣に成っています。
以下次回に続きます。
参考資料: 「現代日本の陶芸」第四巻 現代陶芸の旗手 (講談社)
作品も即日完売になるほど人気を博し、スケールの大きい現代の最も有能な陶芸家でしたが、惜しくも
49歳の若さで亡くなった人に、益子の加守田章二(かもたしょうじ)がいます。
加守田章二 : 1933年(昭和8年) ~ 1983年(昭和58年)
① 経歴
) 大阪府岸和田市に加守田貞臣の長男として生まれます。
) 1952年 岸和田高等学校卒業後、京都市立美術大学、工芸科陶磁器専攻に入学します。
富本憲吉教授、近藤悠三助教授、岩淵重哉助手らの指導を受けます。
) 1956年 上記陶磁器専攻を卒業、茨城県日立市の大甕陶苑技術員となり、作陶に従事します。
) 1958年 大甕陶苑の勤務から、栃木県益子の塚本製陶所の研究生となり、作陶に専念します。
翌年 塚本製陶所を辞し、益子町道祖土に部屋と登窯を借りて独立します。
) 1960年 日立商工会館にて、初の個展を開催します。
) 1961年「第8回日本伝統工芸展」に「鉄釉花瓶」を出品し、入選を果します。(以降連続入選)
益子に住居と窯場を完成させます。
) 1964年 五島美術館主催の「第7回陶磁の新世代展」に「広口灰色花器」招待出品。
朝日新聞社共済「現代国際陶芸展」に「黄土掛け灰釉花瓶」出品。日本工芸会正会員となる。
国立近代美術館京都分館開催の「現代日本の工芸展」に「灰色の花器」招待出品。
) 1966年 日本陶磁協会賞受賞。 日本橋高島屋にて「加守田章二作陶展」開催。
「第13回日本伝統工芸展」出品の「灰釉鉢」が文化庁買い上げ、後に東京国立近代美術館所蔵
となります。
) 1967年 京都国立近代美術館が「灰釉大鉢」を購入。高村光太郎賞受賞(陶磁器界では初)。
以降、「現代陶芸の新世代展」(京都国立近代美術館開催)、「加守田章二展」(日本橋高島屋)
第1、2回「江崎一生・加守田章二・森 陶岳三人展」(ギャラリー手)など多くの作品を
発表し続けます。
) 1969年 岩手県遠野市青笹町に築窯し、仕事場と住居を作ります。
② 加守田章二の陶芸
) 初期の作品は、古瀬戸風な飴釉を手がけています。
) 1960年代には、紐状の撚り土による、手捻りの技法も多いです。
「手で作れば空間のできゆく確かな手応えがある」と語っています。
a) 釉の起源とも言われる灰釉の研究に進みます。 穴窯での還元焼成による、須恵器風の灰陶の
灰白色や灰黒色の陶器で、素朴で重厚な作品ながら、鋭い造詣感覚が現れている作品です。
「灰釉どら鉢」(1966年、東京国立近代美術館蔵)、「灰釉鉢」(1967年)
b) 次に須恵器風の作品から、土の素材感を生かした、土器風の作品へ変化し、器形も面取りに
よる、平面構成に変化して行きます。又、赤土の釉、銀彩などの彩色による形態を明確に
区分する方法をとります。「赤彩色面壷」(1968年)、「銀陶六角鉢」(1968年、京都国立
近代美術館蔵)、「器(せっき)面筒」(1969年)などの作品です。
・ 銀陶は、素地の表面全体に赤土の釉を塗り高火度焼成し、更に銀を水と「ふのり液」で
溶いて赤土に上塗りし、700~800℃で焼成する方法で行います。
この事により、一層古拙的に成り窯変が出て趣が増します。
c) 1970年代に入ると、平面的構成より曲面的構成へと移行し、更に独創的作品を作り上げます。
「曲線彫文壷」(1970年)がその先駆的作品です。化粧された土器風の器面に、箆(へら)で
波状文が平行に浮彫され、砂漠の風紋の様な趣に成っています。
以下次回に続きます。
参考資料: 「現代日本の陶芸」第四巻 現代陶芸の旗手 (講談社)