今まで取り上げた多くの工芸家達は、板谷波山や川喜田半泥子、石黒宗麿などを除き、殆どの方が、
焼き物の窯元や、陶器に関係する家に生まれています。これは当然の事で、焼き物の家に生まれなくて
工芸家に成るのは、余程の(生家が)資産家で無ければ、焼き物に手を染める事が不可能でした。
加藤唐九郎も、父親が焼き物と関係するをしています。
(祖母は瀬戸焼きの名家、加藤家の窯屋の総本家です。)
陶芸の世界では、その地(窯場)の伝統技術の継承と、場合によっては、その最盛期の優れた作品の
復元が、作家にとっての目標に成る事が多いです。ある期間この時期が必要なもので、これを乗り
越える事(土台にして)により、新たな発展に向かう工芸家もいます。唐九郎もこの様な経過を辿り
ます。
1) 加藤唐九郎(かとうとうくろう): 1898(明治31)年~19838(昭和60)年
① 経歴
) 愛知県東春日井郡水野村(現、瀬戸市水野村)に、半農半陶の窯屋の加納桑治郎の
長男として生まれます。幼名は庄九郎といいます。
) 1906年、台風によって父の陶器工場が大破しますが、2年後工場を再建し、製陶一本の家業に
成ります。この頃から、祖母「たき」の庇護の下、名人職人に成るべく育てられます。
) 1914年、16歳の時、父の丸窯の権利を譲り受け、本格的に製陶業を始めます。
名前も庄九郎から唐九郎に改名します。その後、経営の失敗し、会社役員にも成りますが、
これもうまく行きませんでした。 1918年結婚を期に、瀬戸系の古窯の研究調査を始めます。
又、加藤姓になります。その後も製陶業を営みますが、1927年の金融恐慌で、経営者としての
製陶業をあきらめ、陶芸の個人作家を目指します。
) 1929年、それまで瀬戸の窯跡調査や収集品を、整理陳列する目的で、官民一体の「瀬戸古窯
保存会」が結成され、常任理事になります。大日本窯業新聞に「瀬戸古窯誌」を連載します。
又、仕事場(窯)を瀬戸市窯神町より、瀬戸市祖母懐へ移します。
) 1930年、益田鈍翁の銘になる志野茶碗「氷柱」を作ります。又、美術愛知社展に入選します。
この年、柳宗悦、濱田庄司、河井寛治郎等が、来訪しています。
) 1931年、第十二回帝展で「黄瀬戸魚紋花瓶」が初入選します。又、日蓮六百五十年記念祭に
三島の鉢六百五十個を、大石寺に奉納しています。
) 1932年、法隆寺に茶碗を納入しています。更にこの年は、瀬戸古窯の調査、京都裏千家などの
講演会や座談会、雑誌への投稿等で活躍します。特に唐九郎が手掛けた「瀬戸物祭り」は
今に続く催し物に成っています。
) 1933年以降も唐九郎の活躍が目立ちます。即ち著作には「黄瀬戸」(宝雲舎)、「陶器大辞典」
全六巻(宝雲舎)、「新撰陶器辞典」(日本工業図書出版)、創元社の全集「茶道」の十五巻「茶器編」
などの他、雑誌「新工藝」、「茶わん」、「やきもの趣味」、「和比」などへの投稿、各地への
講演会などをこなし、更に本業の焼き物作りに励みます。
1950年戦後初の個展「唐九郎作瀬戸黒茶わん展」を、東京銀座の黒田陶苑で開催します。
1952年「第一回現代日本陶芸展」(朝日新聞社主催)に出品。以後続けて出品します。
1954年「第一回日本伝統工芸展示」に出品。その後も出品を続けます。
この間、日本陶磁器協会理事、日本工芸会理事、日本伝統工芸展審査委員、朝日陶芸展審査委員
など、公務の要職に就いています。この状態は、1960年に起きた「永仁の壷」事件で一変します。
以下次回に続きます。
参考資料「追悼 加藤唐九郎展」(昭和62年)
焼き物の窯元や、陶器に関係する家に生まれています。これは当然の事で、焼き物の家に生まれなくて
工芸家に成るのは、余程の(生家が)資産家で無ければ、焼き物に手を染める事が不可能でした。
加藤唐九郎も、父親が焼き物と関係するをしています。
(祖母は瀬戸焼きの名家、加藤家の窯屋の総本家です。)
陶芸の世界では、その地(窯場)の伝統技術の継承と、場合によっては、その最盛期の優れた作品の
復元が、作家にとっての目標に成る事が多いです。ある期間この時期が必要なもので、これを乗り
越える事(土台にして)により、新たな発展に向かう工芸家もいます。唐九郎もこの様な経過を辿り
ます。
1) 加藤唐九郎(かとうとうくろう): 1898(明治31)年~19838(昭和60)年
① 経歴
) 愛知県東春日井郡水野村(現、瀬戸市水野村)に、半農半陶の窯屋の加納桑治郎の
長男として生まれます。幼名は庄九郎といいます。
) 1906年、台風によって父の陶器工場が大破しますが、2年後工場を再建し、製陶一本の家業に
成ります。この頃から、祖母「たき」の庇護の下、名人職人に成るべく育てられます。
) 1914年、16歳の時、父の丸窯の権利を譲り受け、本格的に製陶業を始めます。
名前も庄九郎から唐九郎に改名します。その後、経営の失敗し、会社役員にも成りますが、
これもうまく行きませんでした。 1918年結婚を期に、瀬戸系の古窯の研究調査を始めます。
又、加藤姓になります。その後も製陶業を営みますが、1927年の金融恐慌で、経営者としての
製陶業をあきらめ、陶芸の個人作家を目指します。
) 1929年、それまで瀬戸の窯跡調査や収集品を、整理陳列する目的で、官民一体の「瀬戸古窯
保存会」が結成され、常任理事になります。大日本窯業新聞に「瀬戸古窯誌」を連載します。
又、仕事場(窯)を瀬戸市窯神町より、瀬戸市祖母懐へ移します。
) 1930年、益田鈍翁の銘になる志野茶碗「氷柱」を作ります。又、美術愛知社展に入選します。
この年、柳宗悦、濱田庄司、河井寛治郎等が、来訪しています。
) 1931年、第十二回帝展で「黄瀬戸魚紋花瓶」が初入選します。又、日蓮六百五十年記念祭に
三島の鉢六百五十個を、大石寺に奉納しています。
) 1932年、法隆寺に茶碗を納入しています。更にこの年は、瀬戸古窯の調査、京都裏千家などの
講演会や座談会、雑誌への投稿等で活躍します。特に唐九郎が手掛けた「瀬戸物祭り」は
今に続く催し物に成っています。
) 1933年以降も唐九郎の活躍が目立ちます。即ち著作には「黄瀬戸」(宝雲舎)、「陶器大辞典」
全六巻(宝雲舎)、「新撰陶器辞典」(日本工業図書出版)、創元社の全集「茶道」の十五巻「茶器編」
などの他、雑誌「新工藝」、「茶わん」、「やきもの趣味」、「和比」などへの投稿、各地への
講演会などをこなし、更に本業の焼き物作りに励みます。
1950年戦後初の個展「唐九郎作瀬戸黒茶わん展」を、東京銀座の黒田陶苑で開催します。
1952年「第一回現代日本陶芸展」(朝日新聞社主催)に出品。以後続けて出品します。
1954年「第一回日本伝統工芸展示」に出品。その後も出品を続けます。
この間、日本陶磁器協会理事、日本工芸会理事、日本伝統工芸展審査委員、朝日陶芸展審査委員
など、公務の要職に就いています。この状態は、1960年に起きた「永仁の壷」事件で一変します。
以下次回に続きます。
参考資料「追悼 加藤唐九郎展」(昭和62年)