大佗坊の在目在口

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会津若松城の大鎧

2010-07-09 | 會津
会津藩は戊辰の負け戦で、そのとき藩主が城から持ち出しを
許されたのが、長持ち十二棹分。残った品々は略奪の対象となった。

「大鎧一領献納ノ件」という大正六年陸軍省第三五号二第一九四七号という
文書が残っていた。

ことの始まりは大正五年十二月二十五日、靖国神社遊就館長瀬名義利から
陸軍省副官和田亀治宛の「大鎧一領献納之件」上申に始まる。

「一、金札緋威大鎧  壱領
右ハ維新之役会津若松城陥落之際ノ戦利品ナル趣ヲ以テ去ル明治一五年
十月二十一日御省軍法課ヨリ寄贈を受ヶ候精巧ノ品ニ有之候処惜ムラクハ
其首要トスベキ兜無之ニ付一ノ零碎物ニ属シ観ル者皆ナ遺憾トスル処ニ有之
候処右兜ハ男爵三宮錫馬所蔵相成居リ今回同家ヨリ宮内庁へ献納相成候趣ニ
付当館所蔵ノ胴以下モ同時ニ献納相成候ハバ皆具全備セル一ノ美術的武器ノ
参考品ト相成候様致度候也」と、その取計らいを陸軍省に上申している。

遊就館がこの金札緋威大鎧を宮内庁に献納するには理由があった。

遊就館は緋威大鎧を保存していたが付属の兜は三宮男爵家で秘蔵していた。
三宮家ではこの兜を遊就館に寄附する意思は毛頭なく無理強いすれば
三宮義胤未亡人関係先の独逸に輸送する恐れがあり、遊就館がこの緋威大鎧を
宮内庁に献納すれば、三宮家も兜を宮内庁に献納すると云う話であった。

そこで宮内庁と遊就館との間に密約ができあがった。

遊就館より鎧を献納する書類を宮内庁へ差出せば宮内庁より直ちに三宮家へ
兜を献納の手続きを行わせ、然るのち、鎧は遊就館に据置き兜を遊就館に出品し、
鎧一揃を宮内庁より遊就館に永久出品とする。本件に付いては鷹司侍従長、
伊藤式部次長の承諾を受けており、一旦遊就館に出品の後、時機を見て御下賜を
願い出る段取りであった。

大正六年四月二日、宮内大臣男爵波多野敬直より陸軍大臣大島健一へ宛てた
文書がある(宮授第二二二号)
「今般左記ノ御物ヲ靖国神社附属遊就館へ御貸下相成候條受取人至急差出相成度」

甲冑明珍作 壱具 
内訳 
金小札緋威大鎧 一領 兜 一領とある。

大正6年4月4日、陸軍省高級副官和田亀次より遊就館へ通知され、
翌4月5日午前10時にこの甲冑一具は遊就館に引き渡された。

この明珍作兜は、鉢が三十二枚の小板(こざね)に一行十点の星(鋲)
を打っており、葵唐草透彫が施されている。鍬形の1つは損失しているが
葵紋の三光鋲二個残っているという。この葵紋の葉っぱは何葉なのだろう。

今、この甲冑一具は残されているのだろうか。遊就館の所蔵品は
1万点を超えると云う。遊就館史料課では公開している所蔵品リストは
ないとのこと。戦後米軍に押収されずに残っていれば是非この兜にある
会津松平葵の家紋をみてみたいものだ。
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