大佗坊の在目在口

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三河田原 霊巌寺から龍門寺

2017-11-19 | 

豊鉄渥美線の終点が三河田原駅で、この路線には似つかないといえば怒られそうな立派な駅にビックリする。
 
三河田原は江戸での田原藩上屋敷前の坂が三宅坂(別名、皀莢坂さいかちざか)と呼ばれていた三宅田原藩の城下町で、梅坪山霊巌寺は壱万石で挙母に入封(現在の豊田市)になった三宅康貞が慶長年間、三河挙母梅坪にあった霊巌寺を再興して三宅家の菩提寺とした。四代三宅康勝は、寛文四年(1664)、田原藩主三代戸田忠昌が肥後富岡へ転封により、代わって三河挙母藩より壱万弐千石で田原城に入り、霊巖寺も田原に移し、代々の埋葬地とした。
 
霊巌寺には初代康貞から代々の墓碑が並ぶが、大名家の墓碑としては極めて質素で、驚く。
 

 
左)初代康貞             右)二代康信
 
左)三代康盛               右)三宅累代家族墓
             
三宅家の墓所の所に昔話で伝わる「首なし地蔵」 があり、田原の殿様の弟の三宅貞三郎と侍女のおあさの悲恋物語が伝えられている。
 
弘化元年(1844)に十四代藩主三宅康直の継嗣問題を諌めるため諫死した用人真木重兵衛定前の墓があった。はっきりしなかったが、三宅氏家臣真木氏は牛久保六騎の真木氏と同族なのだろうか。
 
蔵王山龍門寺に向かう。寺の説明板に「龍門寺の古文書に、慶長年間(1596~1614)戸田公(戸田尊次殿様)城下町を築くにあたり大外堀南西に新町をつくる」とあり、「龍門寺は小牧長久手の戦役長びきて近郷疲弊のためやむなく吉胡(よしご)蔵王山より新町に移る」と記す「現在地は当時城下町の陸路正面の入口にあたり、時には木戸も建てられたようだ」ともあった。
 
 
三河のお寺を廻っていると牧野氏、戸田氏の名がよく出てくる。本家、支流と年代が入り混じる。家康の遠祖、松平信光の娘を室としたのが田原城を築いた戸田宗光、その子憲光が牧野古白今橋城を攻略、その子政光の嫡子康光、その娘が家康の父、広忠の後室に入る。康光の弟で討死した忠政の孫が戸田尊次に当たり三河田原藩初代藩主となる。尊次を宇都宮戸田家初代として寛永七年(1630)四代忠真が高田より宇都宮藩に移った。宇都宮にある戸田家菩提所英厳寺史跡にある一族の名がある墓碑は尊次より始まっている。
 
 
戸田一族と云えば、「駿府政事録」や大道寺友山撰「落穂集」にあるように、松平広忠の子、竹千代(徳川家康)を駿河国の今川義元へ人質として送らず、織田信秀に売り飛ばした話が残っている。江戸時代初期、家康の動静を記録した「駿府政事録」には「御雑談之中昔御幼少之時有戸田又右衛門某者五百貫奉売御所之時尾州御座其後自九歳至一八九歳御駿河国令談給諸人伺候衆皆聞之云々」とある。娘の嫁ぎ先の嫡男を略奪して売飛ばすということが起こせるのだろうか。その後の幕府の戸田一族への扱いをみても、竹千代を奪い取ったという話は事実だとは考えにくい。家康が幼少のころ、人質として各地を転々としたことを隠したかったのだろうか。


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