大佗坊の在目在口

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白虎隊唱歌 散りたる花の

2010-07-14 | 會津
霞のごとくみだれくる、    敵の弾丸ひきうけて。
命を塵と戦ひし、       三十七の勇少年。
これぞ会津の落城に、    その名聞えし白虎隊。」

見方少なく、敵多く、     日は暮れはてて、雨暗し。
はやる勇気はたわまねど、  疲れし身をばいかにせん。
倒るる屍、流るる血、     たのむ矢玉もつきはてぬ。」

残るは、わづかに十六士、   「一たび、あとに立ち帰り、
主君の最後にあはばや。」と、 飯盛山によぢのぼり、
見れば早くも、城落ちて、   焔は天をこがしたり」

「臣子の務はこれまでぞ、   いで。いさぎよく死すべし。」と、
枕ならべて、こころよく、    刃に伏しゝ物語、
傳へて、今に、美談とす。   散りたる花のかんばしさ。」 

この歌詩は明治37年の国定小学読本(高等科)に記載がある
白虎隊の韻文歌詞。
文部省著作高等小学読本の教師用書として明治37年に
日本書籍が編纂した「国語読方教法及教授案」が残っていた。

一 白虎隊につき児童中或は話しに或は少年読本等につき既知の事項
を述べしは、既知の児童あらば左の如く発問をなす。
イ 何所にありしことか    ロ 何の為に組み合ひし隊か
ハ 何歳位の者のみか    ニ 時は何時頃か
ホ 結果如何になりしか

二 右の如き所・時・隊の目的、戦争の模様、その結果等につき
簡単に説明す。
三 初めよりたのむ矢玉もつきはてぬまでの読み方意義教授。
四 右にならひて練習せしむ
五 以上の話を一節つづ括約せしむ
六 次の内容につき戦況結果を語る。
七 「残るはより終りまで」読み方、話し方をなさしむ。

応用に「「ばや」の間に適当の句を充てしむ」と練習問題が載っていた。

「あはばや、、、  「ば」と「や」との間の「よからん」或は
「せめてうれしからん」などの語を略したるにて即ち希ふ意をなす、
「や」は感動詞なり。さらに「刃に伏しゝ」は自殺せしなり、伏せしなど
誤るべからず、「申しゝ」「話しゝ」「貸しゝ」など皆同じ」と注意点があった。

この読本によれば、内容上の目的として「歴史科と相まちて白虎隊の
忠勇義烈なることを知らしめ、義勇公に奉ずの聖勅を奉体し実行を
期せしめんとす」とある。
37年に文部省検定教科書から国定教科書(国語一期)に移行しており、
読方教法、教授案等の読本が各種出版された。

明治37年は日露戦争が開戦し、北原雅長の「七年史」が出版された。
田中悟氏はその著書「会津という神話」で、このころの旧会津藩士による
著作は、排幕勤王家によって書かれた維新史に対して、旧藩主および
会津藩の冤罪をそそぎ、佐幕勤王という形で自らの立場を主張したもので、
「佐幕」と「勤皇」との二律背反性を否定し、「真の勤皇」を称し、
天皇への忠誠を薩長方と争うことで、「官賊史観」に対して「歴史の
取戻し」を図ったと述べている。会津は賊軍という雪冤から勤皇へと転換し、
やがて尽国報国への道を一直線に突き進んでいくことになる。


(参考)
明治四十四年、大阪牧野新盛館出版の軍歌傑作集に記載の「白虎隊の歌」

花は桜に人は武士    散るべき時にちらざれば
いかで人に惜まれん   茲に会津の藩士にて
白虎隊と稱へしは    日新館の学生で
年齢僅か十五六     十七才をまだこへぬ
忠勇義烈の少年や    学の窓に筆をすて
剣をとつて健気にも   三十七人団結し
首将のもとにかけつけぬ 此とき於(お)そし若松の
四方は敵の領となり   城内既に兵つきて
残るはあはれ婦女子のみ 主君の安危を己(おの)が身に
自ら負ひてか江(え)り見つ むらがる敵に斬ている
折しも流弾雨霰     烈敷(はげしく)吹きまく暴風雨
昼尚暗き修羅の塲    猛り立たる少年が
息をつがずふせぎしも  寄せ来る敵に敗(やぶ)られて
残るはわずか二十人   飢と疵とに疲れ果て
折たる刀杖として    飯盛山に攀じ登るり
鶴城遥か見渡ば     黒煙天に漲(みなぎ)りて
昨日に替る今日の景况  最早是非なし此上は
主君を初め奉まつり   我父母に今生の
別れを告げんとひざまつき 何れも花の蕾みなる
若木の花を誘い来る   無常の風に打任せ
いと目覚く自害して   秋の錦と織山も
染る血(ちしほ)と成にけり 萬世不朽の白虎隊
名も香(かんば)しき足曳の 大和桜の花と散る
名も香しき白虎隊
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