金沢野田山にある前田家墓地、高岡市にある加賀藩二代藩主前田利長墓所から北行して、今回は富山市を訪ねた。富山前田氏は、利長弟加賀藩第三代藩主前田利常は次男利次に富山十万石を分封して富山藩を立藩させた。この富山前田家は富山城、北西方向約3kの呉羽丘陵北端の東側斜面最頂部標高24.5mの台地に藩主一族の御廟を築いた。この墓所は延宝三年(1675)、富山藩二代藩主前田正甫が初代藩主前田政次の一周忌に築き、政次の菩提寺曹洞宗光巌寺の末寺真国寺に管理させたという。
二代藩主正甫は日蓮宗に帰依したためか、墓は初代政次墓参道の中間点から北方向(右手)に造られており、古図に拠れば創建当時、参道が交差する所に手水鉢が設置されていたようである。現在、長岡御廟にある墓域は三ヶ所に分れており、西側の墓域は初代、四代、五代、八代、九代、十代、十一代の七基の藩主墓と家族墓、北側の墓域に二代、三代、六代、七代の四基の藩主墓と北側墓域の手前東側に八代藩主利謙の娘で九代藩主利幹の正室勝子供養塔等などがある。
初代利次(龍光院)、四代利隆(大龍院)、五代利幸(霑慈院)、八代利謙(寛隆院)、九代利幹(霊昭院)、十代利保(龍澤院)、十一代利友(皜嶽院)。正室、子女、側室の墓が藩主墓の後ろに七十一基、右手のうち四基のうち、宝篋印塔は正室の集合墓で明治三十七年の改葬の時に建立されたのだろうか。七十一基の中に利次側室で正甫生母八尾子の墓もある。この列の左端に墓碑があり、正面に「維持明治三十八年季秋八月八日承 命移歴代公子公女四十二側室七侍妾十七之墓以改葬焉」とあった。
初代利次(龍光院) 四代利隆(大龍院)
五代利幸(霑慈院) 八代利謙(寛隆院)
九代利幹(霊昭院) 十代利保(龍澤院)
十一代利友(皜嶽院)
正室の集合墓
正甫生母八尾子墓 墓碑
二代正甫(正甫院)、三代利興(安祥院)、六代利與(龍徳院)、七代利久(恭徳院)とこの墓域の手前東側に西墓域にある正室の集合墓にも名のある八代藩主利謙の娘で、九代利幹の正室勝子の供養塔がある。
北墓域
二代正甫(正甫院) 三代利興(安祥院)
六代利與(龍徳院) 七代利久(恭徳院)
九代利幹の正室勝子の供養塔がある。
初代利次の菩提寺は曹洞宗光厳寺、二代、三代、四代、五代の菩提寺は日蓮宗大法寺、六代利與以降、光厳寺と大法寺と交互に菩提寺としている。そうすると、宗派別に墓域を分けた訳でもなく、近世以降、八ヶ山長岡地区の広い御廟の一部を一般の墓地として開放したのだろうか。西側墓域への参道と北側墓域の正面との交差は直角ではなく、約101度の角度で交差しており、墓域軸線が西側墓域は北に対して約69度、北側墓域は北に対して約9度と不規則で、自宅に戻って地図上で角度を何度も図ってしまった。参道と初代藩主の利次墓を結ぶ直線を延長していくと約51k先にある金沢城にぶつかった。北側にある二代藩主正甫墓から参道の延長上の約227k先が徳川家康の居城、浜松城の古城付近とぶつかった。加賀氏は幾度となく徳川幕府から難癖や謀反の疑いを掛けられた。二代藩主正甫は墓を浜松に向け、恭順の意を表したのか、それとも災いが掛からぬよう浜松を睨みかえしていたのだろうか。参道の入口に鳥居があった。現在、藩主の墓標正面は仏教式戒名が刻まれていたるが、これは、明治十七年、仏式から神式への変更に伴い墓石を改刻、墓所入口に木造の鳥居を設置したという。明治四十二年、石造鳥居に替えた。維新前は徳川幕府、維新後は明治政府と色々な所に気を使って大変だったと思う。
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