大佗坊の在目在口

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会津藩士日向内記の事

2014-02-07 | 會津

会津日向家は「要略会津藩諸士系譜」によると日向出雲守次房を祖とする家が十家あり、日向内記はその直系にあたる。日向出雲守次房の先はどうなっているかと 興味を持ったのが運の尽きだった。 各種史料の存在を知らないのも一因だが、次房の三代・四代まえの日向氏が 虎忠・虎頭・虎顕を名乗っていて、長期間にわたって史料に出てくる日向大和が 誰に対応するのかがよく判らず、迷路に迷い込んでしまった。武田家の有力武将だった日向氏の中で慶安三年、幕臣になった日向家のお墓を小石川の蓮華寺に探しに行った。
 
このお寺は武家寺で古い墓が多く残っていたが古すぎて判別できず、ご住職に 話をお聞きしたが、火災で古い過去帳が無く、今は日向という檀家さんは いないという事だった。墓域には伊勢桑名藩松平定綱四女蓮光院(酒井甲斐守忠広妻)の墓が残っていた。

会津藩士の中で日向内記ほど戊辰の後、誤解を受けた藩士はいなかった。関東学院長坂田祐はその自伝「「恩寵の生涯」(坂田祐が「待晨」たいしん誌に70回程度連載したものを一冊の本に酒枝義旗が編纂したもの)に会津の白虎隊記念館を訪れたときに、白虎隊を率いた戸の口原の戦いで、部下の少年達を置き去りにして行方不明となったという説明を聞いて驚き、はなはだ不快に感じたと記述している。
日向内記について幕末維新人名事典(宮崎十三八・安岡昭男編平成6年発行)に、相貌秀麗、智謀胆略アリとしながらも、「白虎士中二番隊のみ指揮して戸ノ口原に出陣、食糧調達のため隊を離れて見失い、、、部下を見殺しにした白虎隊長と不評判で世に出られず、家族とともに苦労した」とある。執筆者は会津の鈴木良和氏であるが、「食糧調達のため隊を離れて」というのが昭和から近年までの通説としてまかり通っていた。田中悟氏が神戸大学時代に書かれた論文を纏めた、<二つの戦後>をめぐる<死者の政治学>と角書きがついた「会津という神話」という本がある。白虎隊については後藤康二のテキスト分析から白虎隊の神話化の過程を考察している。小さくて弱くて純粋な忠誠心をもつ少年隊士が健気にも戦い死んでいった「白虎隊精神」が「会津精神」とみなされ、それが大正・昭和期に利用され「日本精神」「大和魂」へと転化していってしまった。戊辰後、会津の戦いは賊軍会津を払拭し勤皇会津を取り戻すことであり、戦死者の雪冤をはらすことでもあった。田中悟氏は会津を通して靖国神社に象徴される「国家と死者」の問題に鋭く踏み込んでいる。慶應四年八月二十二日の戸ノ口の戦いから翌二十三日、笹山の戦闘で戦死した會兵遊軍寄合組隊長小池繁次郎功成の子孫の方が滝沢峠入口の強清水の荒井家(荒井氏は伊達政宗との戦いで敗れた葦名氏家臣、荒井城主荒井新四郎義重の末裔)に伝わる口伝を聞いたところによると「八月二十二日、雨の夜、陣将佐川官兵衛の前線本部であった強清水の荒井家で佐川官兵衛、日向内記、小池繁次郎の三名が作戦会議を行った」という伝承もあったという。喜多方の冨田国衛はその著書、日向内記と白虎隊の真相と角書きがある「戸ノ口原の戦い」で白虎隊の行動の詳細を明らかにしている。戊辰後、日向内記が斗南に救援米を送った話は新井田良子著「日向内記の斗南救援工作」や坂田祐の甥の子で十和田高等学校教頭を勤めた中村成喜著「旧会遺聞大湯居住者の活動」等により徐々にではあるが日向内記に対する誤解が解けてきている様に思える。
会津喜多方、龍寳山満福寺にある日向代々之墓(日向内記の墓)
 


関東学院初代院長坂田祐

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