大佗坊の在目在口

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老津 太平寺から十三本塚へ

2017-11-12 | 

豊橋と田原を結ぶ豊鉄渥美線でJR豊橋駅の隣にある新豊橋駅から20分位で老津駅に着く。途中の高師(たかし)とか老津(おいつ)とか、何気なく読み方が分からない地名が多い。老津は元来、大津と呼ばれていたが、明治十一年(1871)、渥美郡老津村に改名したという。
 
目的の太平寺は歩きで老津駅から北に15分ぐらいのところにある。切通しのような緩い坂を上り切ったところにある市立家政高等専修学校の入口に教育委員会による高縄城址の標柱があった。諸国古城之図をみると、東西三十三間(60m)とありこの学校の中庭ぐらいが主郭で城絵図にある南と西北の入口に続く道が、いま学校を取り囲む道としてそのまま残っている。切通しに見えたところは、東側の堀跡を道路として使用したように思える。
 
この古城の東南の山際に太平寺がある。
 
 
 
 
寺伝によると、嘉応年間(1169~1171)の創設で、最初は真言宗であったが延元・興国(1336~1345)の頃、大暁禅師(峯翁祖一)が巡錫して臨済宗に改宗したとある。江戸時代後期に裏山から見つかった古鐘に長松山太平禅寺再興鋳鐘銘、明応四年(1495)とある。戦国時代には田原城主戸田宗光、その後は今川義元の保護(注1.三州国渥美郡大津郷太平寺領之目録)を受け、妙心寺末寺に変化している。その後、徳川家康は三河国吉田城を攻め取り、三河一国を平定して、永禄七年(1564)、大津を戸田三郎九郎忠真に与え、忠真もこの寺に寄進して保護した。ご住職が不在で裏山の墓域に入れなかったが、裏山には「東照権現御霊廟」があるという。
高師口交差点の西南角に石碑の供養塔があるというので、豊鉄の愛知大学前駅で降りて高師口交差点に向かう。改札口のすぐ横が大学の校門なので驚く。線路沿いに歩いて5.6分で交差点に着いた。
 
今川義元討死のあと、東三河に侵略した松平元康(徳川家康)方の三州の武将の人質十三人を今川氏真は永禄五年(1561)三月、龍念寺(龍拈寺)前で誅殺し、吉田近郷中野新田に骨を埋めて墳墓を作った。のちこの所を十三本塚と呼んだという。十三人の人質の霊を慰める供養塔と道標とを兼ねたものとも伝えられているという。石が摩滅していて一面しか判読できなかったが「奉納大乗妙典 右大崎・左田原」とある。大乗妙典とは、法華経のことで、その一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、近世中期以降盛んとなり、その発願成就記念に建てられることが多かった。十三人の供養塔と道標を一緒にするのかなとも思うし、近くの愛知県豊橋市杉山町に十三本塚という地名があるのも気になる。供養塔のある場所が豊橋市富本町で「十三本」を「とみもと」と読ませ関連付けたという話もある。
 
 
福岡郵便局の近くに福岡地蔵尊がある。ここ福岡に龍拈寺墓地があり屍を葬ったという。実際は誅殺された人数も埋葬された場所もはっきりしないのだろう。三州吉田記では松平玄蕃清善妻、菅沼新八郎定盁妻、西郷弾正正勝妻、梁田某妻、水野藤兵衛妻、松平又七郎家廣妻、大竹兵右衛門妻、奥山修理妻、菅沼左衛門真景妻、浅羽三太夫子供二人、白井某妻并嬰児の十三名を載せている。

参考:注1. 國學院大學デジタル・ミュージアム柴田常恵写真資料目録番号sj2679


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