大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

陸軍砲兵少佐 森雅守

2012-07-04 | 掃苔

5月に青森下北を廻ってきた。本州最北端、斗南と呼ばれた地は5月の初めとはいえ、どんよりと曇った冷たい風の強い土地だった。この冷たい風のことを土地の人に尋ねると山背(やませ)と呼ばれ、春から秋にかけて吹く冷たく湿った北東の風だという。恐山の麓、大平野落野澤の開墾に従事した柴五郎の住居跡も訪ねた。明治四年(1871)十二月、青森県庁の給仕として斗南からは柴五郎と森寅之助の二人が選ばれ採用された。この事は後年、陸軍大将になった柴五朗が会津温故会の講話で会津戦争後談でも述べている。この森寅之助(後雅守)の墓が東京の吉祥寺にあるのが分かり、早速、吉祥寺を訪ねた。
 
 
 
墓陰文をみてビックリした。明治七年陸軍幼年学校、十年陸軍士官学校入学、十二年陸軍砲兵少尉に任官していた。これは陸軍大将になった柴五郎と明治七年陸軍幼年学校から砲兵少尉任官まで、まったく同じ課程を共に進んで二人共、明治十三年に砲兵科を卒業している。明治十四年六月、砲兵少尉楠瀬幸彦、砲兵少尉森雅守及び工兵少尉上原勇作、会計軍使遠藤慎司、陸軍省出仕黒瀬貞次の計五名が仏国留学を命じられた。明治十九年四月、陸軍砲兵射的学校(後の陸軍野戦砲兵射撃学校)が創立され、その教官となった。明治二十二年四月、砲兵大尉森雅守は平素の行状方正にして勤務勉励者として一等給下賜されている。明治二十五年五月に旧土佐藩士で陸軍少将別役成義二女幸重と結婚、翌年の二十六年六月、海岸砲用測遠器等取調べのため砲兵少佐森雅守は伊太利国に差遣れることになり十六日に拝謁並びに賢所参拝のため、時刻の20分前に参内するよう命令されている。
明治二十七年五月、羅馬姉小路臨時代理公使よりの電報により森雅守少佐の不慮の死がもたらされた。伊国エルバ島ファルコー子城址堡壁からの転落死の原因については色々な理由が憶測されたがハッキリしていない。士官学校明治十三年入校の旧三期の同期には、前述の大将柴五朗をはじめ、共に仏国留学をした中将楠瀬幸彦(陸相)、大将上原勇作(陸相)等がおり、同期の中でもトップクラスを走っていただけに不慮の死が惜しまれる。森雅守は伊国ポルトへライヨに埋葬され、吉祥寺にの墓域には遺髪を納めている。
東京の吉祥寺にある森雅守の墓陰文(一部剥がされており判別不能)、撰者丁野遠影は旧土佐藩士で幕末から明治初期までの土佐藩の歴史「土佐藩政録」を編纂、西南戦争時は鹿児島警視出張所長、後、修史局副監事を務めている。

陸軍砲兵少佐従六位勲六等森雅守君墓
君幼称寅之助岩代人也安政五年二月廿一日生于会津郡若
松世事藩主松平氏維新後藩主為斗南藩知事君従父共遷焉
君自幼好読書能数学十一歳知事嘉賞賜物明治七年受命入
陸軍幼年学校十年入士官学校十二年任陸軍砲兵少尉十三
年叙正八位是歳卒砲兵科業選中優等明治十四年命学於仏
国十八年帰是時陸軍省創立射的学校於下総下志津原於君
為教官生徒益進自是後官職位勲累遷者数廿六年赴伊太利
就少佐武氏研究観測器多所発明廿七年五月廿日卒于以尓
己島年三十有七君為人廉公快活不拘小節間吐諧語以感悟
人故人亦悦服之天若假之年其所成就豈止于此乎吁嗟可惜
哉父名裕衛母松浦氏娶別役氏生一女早夭□□□□承其後
君之死客旅也彼邦人深惜之厚礼葬之建豊碑表追慕云爰納
遺髪於此墓域記其行実如此銘曰文武雙修有才有芸天不假
年溢焉長逝風惨雨凄摧蘭折柱雖則可傷今聞傳世
明治廿七年十月      従五位勲六等丁野遠影撰

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