仙岳院にあった説明板によると、承応三年(1654)、比叡山延暦寺を本山として仙台藩2代藩主伊達忠宗公が徳川幕府に願って東照宮を勧請しその別当寺として創建したとあった。慶応四年(明治元年)七月二日より十月十二日まで北白河宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)が宿泊、その部屋が現存しているとのことであったが、せまい境内に宝物館など、色々なお堂がゴチャゴチャと建っていて、昔の別当寺としての格式はあまり感じられなかった。
仙台東照宮
仙岳院から仙山線の踏切を渡り歩いて3・4分の仙台三回向寺の一寺で、星恂太郎墓がある清浄光院を訪ねた。
本堂横の星家の墓域
そういえば仙台東照宮は仙台七崎の1つ玉田崎にある。仙台市内には仙台三清水、七崎、七坂、八小路と呼ばれているところがあり、時間があれば地図片手にのんびりと廻ってみたくなる。清浄光院は天台宗のお寺さん、お寺にあった説明板によると「清浄光院は、寛文八年(1667)仙岳院の末寺として、仙岳院三世享栄法師の代に、四代藩主綱村公が念佛回向をする道場(お堂)を建立したことが期限である。現在、比叡山延暦寺の直末であり仙岳院との関係は解消されている」とあった。仙岳院の末寺として建立されたが、今は関係がないという。何があったのか知りたいところだ。
仙台東照宮のある七崎の一つ、玉田ヶ崎を流れた野田の玉川の源流といわれている「野田の清水」が湧き出ている井戸がある萬壽禅寺に寄る。黄檗宗のお寺で珍しいと思ったら、東北六県でいま1番黄檗宗のお寺が多いのが宮城県ということで少しビックリ。
四代伊達綱村公夫人稲葉氏仙姫が四十八歳で他界したため,本殿,拝殿,唐門から成る廟所を造営し菩提寺として一門格寺院とした。現在の萬壽寺は大正七年に戊辰後、唯一残っていた塔頭三昧院を萬壽寺と襲名したものという。
境内の「野田の清水」説明板によると最も煎茶には好適水とあった。保春院、輪王寺、瑞鳳寺、仙岳院もみな一門格寺院だった。東照宮別当寺院の仙岳院は別格としても、伊達家の菩提寺をただ単に一門格寺院と呼ぶのかと思ったら、仙台藩は一門格、御杯返上格、着座格、召出格の寺院とお寺にまで寺格を定めた。なぜ、藩が寺の寺格を定める必要があったのだろうか。仙台藩は、家臣の間に上下の序列・席次を付けるために家格という序列制度、一門、一家・準一家・一族・宿老、着座・太刀上・召出、平士・組士を定めている。寺格を定める基準はなんだったのだろう。それに各宗派・教団ごとの本末制度と寺格との関係も気になる。城下の各寺院を本末制度から切り離して藩が寺格化することにより、藩体制支配に組入れて身分制度の固定化を強固なものにしていったのだろうか。
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