大佗坊の在目在口

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三菱会社 山脇正勝と辰澤青海

2013-01-06 | 掃苔

染井霊園の桑名松平家の墓域の近くに藩主松平定敬の説得に訪ねた桑名藩家老吉村権左衛門を高木貞作と共に上意により暗殺したといわれている桑名藩士山脇隼太郎(正勝)と山脇一族の墓域がある。

 
山脇隼太郎(正勝)の父は桑名藩軍事奉行の桑名藩士山脇十左衛門(正軌)で、隼太郎は貞作と共に戊辰戦争を北越、東北と戦い、藩主を追って箱館に渡ったが、藩主とは入れ違いで会えず、大河内太郎の変名で箱館新撰組に加わったが、明治二年五月、弁天台場で降伏した。隼太郎と貞作は謹慎のため桑名藩に引き渡されたが、桑名には戻らず、米国に渡っている。W・ホイットニーの娘で勝海舟の三男、勝梅太郎の嫁になったクララが書き残した日記によると、渡米していた旧桑名藩士高木貞作は明治八年八月、クララの父親で商法講習所の教師として日本に招かれたW・ホイットニー一家の日本での生活に高木さんとして名がよく出てくる。明治八年の四月に鳥羽伏見の戦いから箱館、渡米と貞作と行動を共にしていた山脇正勝は三菱商会に翻訳係として入社している。正勝は明治十一年(1878)上海支店詰、同十七年は高島炭鉱事務長、同十九年(1886)には長崎造船所支配人となり、明治二十六年には名称の替った三菱炭鉱事務所と三菱造船所の所長を兼務している。正勝は明治三十年に三菱を退職している。染井霊園の山脇家の墓域の寺岡家の墓が一基ある。これは寺岡平吾に嫁いだ正勝の娘、勝子が建立したもので、勝子の子で外交官の松岡淇平の娘が「幕末の桑名」の著者でもある料理研究家バーバラ寺岡氏(寺岡たみ子)である。

戊辰後、桑名藩主が謹慎したのが深川霊巌寺、昨年はこの寺の周りの寺院を頻繁に訪ねた。というのは、徳川幕府の御船手組を勤めた石渡家の菩提寺が深川霊巖寺塔頭安民寺で、さらに、石渡一族の辰澤延次郎の葬儀が浄心寺で親戚総代石渡敏一、友人総代として瀬戸内海大崎上島出身の望月圭介で行われているのを知ったからで、江戸の絵地図をみると霊巖寺と隣接しているのが浄心寺で両寺ともかなりの大きさの寺領を持っていた事が分かる。現在の浄心寺の墓域は思ったほど大きくない。
 
辰澤延次郎の墓を探しに浄心寺に行ったが、見つけることは出来なかったが、この墓域に隣接して浄心寺塔頭寺院の墓域があった。まだ全部の塔頭寺院の墓域を廻る事は出来ていないが、あるお寺さんの墓域で家紋を同じくする二基の辰澤家の墓を見つけた。この時は辰澤青海の墓があるとは気が付かなかった。そのあともう一基の辰澤家の墓があり計三基の墓があった。

 
     
辰澤青海は、会津人浅岡俊吾、郡寛四郎が壱則本免状に合格した時、技術免状船長合格者として名簿に記載があった。本免状と技術免状の違いはハッキリ判らないが本免状は西洋型風帆船の新規許可で技術免状は今まで西洋型操船経験者で一定の技術所有者に与えられた免状だったのではないだろうか。いずれにしても辰澤という姓は全国でも非常に少ない。家紋が同じなら同族といっても間違いないだろう。辰澤文吾がいつ青海に名を替えたか不明だが、旧桑名藩士山脇正勝が三菱商会に入社して、明治十四年、三菱の長崎高島炭鉱の事務長に就任したころ、辰澤青海も長崎の高島炭鉱で西洋型船を操船していたと思われる。辰澤延次郎が郵便汽船三菱会社に海員として入社したのが明治十八年でその後、日本郵船に転任している。数ヵ月間は、山脇正勝、辰澤延次郎、辰澤青海の三人は同じ三菱会社で働いていたことになる。

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