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大佗坊の在目在口

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むつ市から八戸へ(斗南の風景5)

2012-06-01 | 會津

最終日、田名部から八戸に戻る途中、戊辰戦争に関する青森県内唯一の史跡だという野辺地戦争墓所に寄った。野辺地戦争とは降伏謝罪を探っていた盛岡藩に津軽藩が慌てて行動をおこした。明治元年九月二十二日夜半、小湊に集結した弘前藩・黒石藩の藩兵約百八十人が3隊に分かれ盛岡藩領野辺地に攻め込んだが、四十九名の死傷者を出して二十三日、撃退された。
  
二十四日、津軽兵は突然盛岡領濁川のにも打入った。大山柏は戊辰役戦史で、「一体何のために津軽兵が盛岡領に打入ったのか。すでに盛岡藩が降意を表した後では、何の意義もない」と書き残している。弘前藩では翌年、野辺地戦死者のうち二十七名の名を刻んだ墓石四基をこの地に建てた。
 
青森県庁のホームペイジに青森県史の質問箱に「津軽と南部は、お互いに仲がよくないように言われていますが、なぜでしょうか?」という質問が載っていた。これは、じつに奥の深い良い質問だった。
七戸町の青岩寺にむかう。
 

この寺は天正十年(1582)の創建と伝えられ、説明によると岩手郡大泉寺の末寺で、現在の庫裏は明治六年旧官所を移したもので、山門も同年旧七戸城本丸の城門を移したものという。七戸藩は盛岡新田藩とも言われる盛岡藩の支藩で明治二年、盛岡藩の処分に関連して領地を確定して表高一万石で成立したもので、藩庁も置かれた。七戸城は七戸南部氏の中世城跡として昭和十六年に国指定史跡に指定されている。このお寺の山門の横に、大正六年八月、戊辰戦争五十年祭の際に旧会津藩士二十名によって建立された「招戦没諸士之魂碑」があります。
 
石川正一、伊澤信志、橋本 昴、星松太郎、加賀清四郎、笠尾善太郎、田口主税、竹村痒夫、
永瀬佐太郎、矢嶋章男、山内 伸、牧田静夫、小出三枝、秋山政次、安藤ふて、斎藤みさ、
渋川裕治、諏訪藤太、鈴木文英、以上二十名

十和田市西三番町、ちょうど十和田市野球場のバックネット裏側にあたるところの澄月寺に山川浩題、秋月胤月撰による「招戦没諸士之魂碑」がある。
 
もともと十和田市周辺は三本木平と呼ばれる荒野で、この台地は盛岡藩士の新渡戸傳、十次郎親子が安政二年から大規模開墾に着手した場所で、十次郎、傳翁、逝去のあと十次郎長男の七郎がその後の開拓に尽力を注いでいる。廃藩置県や青森県への合併により斗南ヶ丘の開拓は中止され、生活の手段が無くなった元会津藩士(=斗南藩士)の一部を三本木に移住させ開拓地を提供するなど、その引受けにも尽力しており、青森県史によれば明治六年四月までに三百二十八戸、千五百十五人の斗南藩関係者が三本木平に入植している。この三本木という地名は明治三十五年、歩兵第五連隊の「雪中青森より田代を経て三本木平野に進出し得るや否や」と八甲田雪中行軍目的地となった所です。
 
「招戦没諸士之魂碑」
我会津藩戊辰之役開端伏見鳥羽尋戦下野越後及白河等各
地終嬰城拒戦前後□會者殆三千父為獨子為孤其惨状不可
言盍亦盡忠其主已先是藩主松平容保公之為京都守護職也
孝明帝賜近衛忠煕書曰會藩勇威朕頼之将有籍其力乱平後
長門奥平謙輔贈書曰貴国有大造于海内不独為幕府致節弊
邑亦受其賜土佐岩崎惟慊亦曰京畿以東兵力之強誰出貴藩
之右者其為 先帝所倚頼諸藩所稱揚如此盖戦歿諸子與有
力矣欠世子容大公再封斗南諸臣多従焉今茲庚寅為廾三回
忌辰胥謀建碑于上北郡三本木邨澄月寺以祭焉旧藩老山川
浩為題其面胤月記陰嗚呼諸士玉砕其名與此石不朽而
瓦全至今不能成一事媿□諸士多矣
明治二十三年七月正七位秋月胤月撰門人佐藤劉二書

下北を一周して八戸に戻り高台の館鼻公園にある御前神社神葬墓地の蒲生誠一郎・蒲生優子の墓域に行く。前回この館鼻公園を訪ねたとき、会津藩士「神田小四郎」の長男で八戸港建設を推進した二代目市長を務めた神田重雄像に全く気が付かなかったが、今回は神葬墓地の中にある神田家の墓域にもしっかりと寄ってきた。
 
 
 
新幹線まで少し時間があり、八戸南部家の菩提寺の南宗寺に寄ってから仙台に向った。
 
 

人相書

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