大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

仙台(外人屋・榴岡天満宮・保春院・泰心院)

2012-06-06 | 掃苔

青森からの戻りに仙台に寄った。前夜遅く下北から車で戻った仙台在のKさん、Tさんに申し訳なかったが、お世話になって、仙台の史跡巡りに連れて行って貰った。スタートは同行者に土方歳三が大好きなTさんがいた為か、土方が仙台に来たとき、宿泊したという外人屋跡、今はTSUTAYA広瀬通り店(青葉区国分町1-7-18)から始めた。
 
外人屋の読み方はどうだったのだろう。(ぐわいじんや、がいじんや、ほかとや、そとびとや、?)。この外人は藩外の人のことで、外人屋は客館・客舎とも書かれている。新撰組関係の知識はまったく無いので、新撰組関連サイトに書いてある外人屋の住所(仙台市青葉区国分町 明治生命仙台国分町ビル付近)をどう特定したのか判らないが、安政二年、国分町外人屋の新規御建替絵図の敷地西側一部に立町サカイと記載があり、国分町と立町の境に国分町外人屋があったとこがわかる。幕末の町名は奥州街道を挟んで両側に国分町、今の青葉通りの両側が大町、その中の西側に立町があった。国分町と立町が接する所は一ヶ所あったが、絵図の縮尺もあり地番何号まで特定するのはむずかしい。仙台市青葉区一番町3に明治安田生命仙台一番町ビルがある。このビルか、隣のビル(仙台フォ―ラス)あたりに外人屋があったのではないだろうか。幕末の奥州街道の道幅と今の4号線と拡幅が判れば、かなり正確に特定できるのではないかと思う。それにしても、土方歳三はここに泊まったのだろうか?
  
榴岡公園西側の榴岡天満宮境内の中に額兵隊・見國隊戦死弔魂碑、星恂太郎碑、二関源治碑がある。榴岡の読み方が判らなかった。なんでザクロがツツジになったのだろう。伊達の殿様がツツジガオカを榴ヶ岡と書いたら、それからツツジを榴と書くようになったのだろうか。戦死弔魂碑は北海道・五稜郭で戦って戦死した仙台藩の兵士を弔魂するために明治三十年に建立された。星恂太郎は額兵隊隊長、見國隊を率いたのが二関源治、それぞれの経歴が刻まれた碑が建立されている。
 
 
保春院に向かう街道の辻に耳の病に効能があるという耳権現とその横に修験道の霊地、「語るなかれ 聞くなかれ」と言われた湯殿山(講)の大石があった。

保春院は、伊達政宗が母の十三回忌にあたりその菩提を弔うために父輝宗が亡くなった後、母義姫が出家した際の法名により保春院と名付けたところ。
 
ここに、戊辰戦争のとき会津討伐不可を主張して奥羽列藩同盟を結成し、軍事局取締となり薩長排撃の火蓋をきったが、戊辰後投獄され、明治二年四月切腹を命じられた仙台藩士玉虫左太夫の墓所がある。
 
仙台藩は元文元年(1736)、五代藩主伊達吉村が学問所を設立、安永元年(1772)養賢堂と改称した。藩校唯一の遺構である旧養賢堂正門が南鍛冶町にある泰心院の山門として残されている。
 
ここに戊辰のとき、奥羽列藩同盟派と同盟断交派とで藩論が対立していた久保田藩に派遣され、勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士志茂又左衛門の遺髪を葬った墓碑を訪ねた。
 
 
 
祭祀奉行明治元年二月使于南部津軽秋田四月従 
公討会津至白石城五月使于米沢帰国□小姓頭六月
封 命使于秋田七月四日於同所所殺年三十九弟丁
吉僕高橋辰太郎□所殺以□冠侍之遺髪葬于仙台泰
心院
   銘曰
  信義敦厚 自却忠勤 至香頭宦 是不世勲
  弓□鉾槍  柔術笞杖 又芸歌詠 皆極奥旨
                  氏家顯  記
(志茂又左衛門弟丁吉墓)
 
義学良忠居士
君姓藤原諱實孝氏志茂称丁吉父實香
母中村氏以弘化四年三月朔日生明治
元年二月従兄行于南部津軽秋田四月
従行白石城五月従行米沢六月従行秋
田七月四日於同所所殺年二十二以冠
時之遺髪葬于仙台泰心院 氏家顯 記

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