八戸から新幹線で盛岡に出てきた。久しぶりに大勢の人がいる駅に降りた感じがする。今回は時間も少ないので北山寺院群地区にある盛岡南部氏と関係が深い盛岡五箇寺を廻ることにした。八戸南部氏の八戸藩領内にも五箇寺と呼ばれる寺があった。盛岡南部氏が治めた藩名は南部藩と盛岡藩と混ざって両方使っていたのかと思ったら、南部史要に「南部氏三十六世利敬 文化十四年(1817)十一月古来唱へ来りし南部藩を改めて盛岡藩とす」とあったので、理由は判らなかったが文化十四年以降、盛岡藩と呼称したという。盛岡五箇寺と呼ばれたのが何時からか分からないが、天保四年(1833)編纂の盛岡城下地誌「盛岡砂子」などを見ると、聖寿寺五ヶ寺の一也、東禅寺五ヶ寺の二也、報恩寺、教浄寺盛岡五ヶ寺の内也とある。ネット情報では五つの寺を盛岡五箇寺として挙げているが、公開された文書のなかで五箇寺を列挙している史料を見つけることが出来なかった。江戸後期の藩内地誌「邦内郷村志」の永福寺項に「寺領八百石、是為邦内諸古刹之冠也。故寺格無出其右者」とあり、永福寺が藩内の由緒ある古い寺で第一に古く、寺格も一番だという。前出の四箇寺に永福寺を加えて南部氏と関係の深い寺格の高い寺を盛岡五箇寺と呼んでいたのだろう。盛岡五箇寺の一つ北山の報恩寺から廻った。
このお寺、「盛岡砂子」によると、曹洞宗二百八箇寺の惣録職(宗内の政事、宗務を処理し、藩と宗団の連絡統括)だという。寺伝によると「応永元年(1394)南部家十三代の英主守行公によって青森県三戸に創建され、慶長六年(1601)二十七代利直公のとき現在地に移転された。藩制時代は寺領二百石を有する南部領内二百八カ寺の総領であった云々」、さらに「羅漢堂及び五百羅鑑像は享保二十年(1735)の落成開光で、像は中国天台山像を模して京都で製作されている」とあった。現在五百羅漢像四百九十九体が盛岡市文化財として指定されている。古い三門楼閣の門だと思ったら、真門一門形式の山門で昭和53年に建てられたという。
本堂は昭和35年類焼により全焼、39年に再建されたものだという。本堂、山門の扁額は永平寺七十六世貫首慈眼福海禅師による。境内で麦藁帽を被り庭の手入れをしていた方に挨拶の声を掛けて本堂に向かう。本堂に誰も居らず、庭にいた方に声を掛けたら、この人がご住職、さっき挨拶をちゃんとしておいて良かった。報恩寺から歩いて10分程で盛岡五箇寺の一箇寺、教浄寺に着く。
「盛岡砂子」に「雍護山教浄寺 寺領二百石 和州藤沢清浄光寺(游行寺)末游行派。昔より縁起なしと云、然共開基は茂時公藤沢にて御生害有しに付、菩提として御建立也と旧記にみえたり」とある。正慶二年(1333)、上野で挙兵した新田義貞、鎌倉を陥す。北条高時以下一族、鎌倉東勝寺にて自害した。この時、南部十代右馬頭茂時は藤沢游行寺まで逃れ、この寺で家臣と共に自刃したと伝わる。教浄寺H・Pによれば、弟南部十一代伊予守信長は兄茂時の菩提の為、青森三戸に教浄寺を建立したとされる。のち南部二十七代利直が盛岡に城を移されるに当り、慶長十七年(1612)、現在地の北山に移転したという。南部三十三代利視の時、中御門天皇から遊行四十九世一法上人を介して勅許せられ「擁護山」の許額を山門に掲げる。山門の内の中庭で園児たちが元気に遊んでいた。
南部十代茂時(教浄寺殿正阿清空心大居士)と家臣の墓は藤沢游行寺に残っている。
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