大佗坊の在目在口

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鳥取藩主池田家墓所

2017-08-04 | 掃苔

今回の鳥取旅行は池田光仲を初代とする鳥取藩主池田家墓所を訪ねるのがメインだった。大名の岡山池田家、鳥取池田家も同じ一族で、清和源氏源頼光を遠祖として、頼光五代瀧口泰政摂州在、池田右馬允を号、その後摂州住人池田九郎泰依、楠正行之遺腹子の池田十郎教正を養子とする。教正のち兵庫助と改め其子佐正、佐正子池田六郎号、其後世襲するも家衰える。紀伊守恒利池田之中興で恒利子信輝、信輝子輝政、輝政之二男忠継慶長八年正月備前賜う。とは大正六年発行の「因幡大年表」の記述だが、その初期の系譜については不明な点が多い。
池田輝政が家康の娘、督姫を正室として迎えた。池田恒利の子信輝とその嫡男之助は長久保で戦死、慶長五年(1600)、信輝二男輝政は姫路藩初代藩主となった。元和三年(1615)二代姫路藩主利隆の跡を継いだ光政は年少を理由に姫路から鳥取へ転封となった。岡山藩主輝政二男忠継十七歳で亡くなり、その跡を継いだのが弟忠雄。寛永九年(1632)、忠雄が亡くなったとき、嫡子光仲が三歳だったため、岡山から鳥取に転封となった。そのとき岡山の藩主となったのは鳥取から転封となった池田光政で、以後、外様大名の池田家は明治まで二百年以上の間続く事になる。
池田光政のあとに池田光仲は鳥取に転封となり、元禄六年(1693)、初代藩主光仲の墓所として城下から1里十町、袋川右岸宇倍野山(稲葉山249m)南西の麓、宇倍野村奥谷(現在の国府町奥谷)を池田家の廟地と定めた。
 
 
 
鳥取県教育委員会H・Pの説明によると「光仲の埋葬に合わせ、この地には「千岳庵」が建立された。千岳庵は、翌元禄七年(1694)に伯耆国久米郡定光寺からその末寺の寺号を貰い受け、「清源寺(せいげんじ)」と改められ、池田家の菩提寺である興禅寺の末寺として、明治初年に廃寺となるまで墓所の管理を担なっていた。墓所内には、初代藩主光仲以後の歴代藩主十一代をはじめ、藩主夫人・御分知家「東館」「西館」当主等も葬られている。現在、合わせて七十八基の墓碑が立ち並び、周囲には二百六十基をこえる灯籠が家臣等により供えられている。また、藩主墓域に向かう参道両側には、初代光仲の寵臣和田三信と光仲の側室や菩提寺住職の墓もある」とある。鳥取藩主池田家墓所は国の史跡に指定されている大名墓所のなかでも亀趺碑のある大名墓所六ケ所の一つで、初代光仲から十一代慶栄まで藩主の墓のなかで二代藩主綱清だけが亀趺台座を使っていない。五代藩主長男治恕、八代藩主養子斉衆(将軍家斉十二男)も亀趺台座を使っている。準藩主とみなしたのか。池田家墓所は県道31号から緩い坂道を500mほど上った所にあり、門をくぐると、まっすぐの参道と左に折れる参道があり、左側奥から初代、九代、十代、十一代、右手の参道の左側に二代、三代、右側に八代、四代、五代、六代、七代と続いている。
鳥取藩初代藩主興禅院
 
二代藩主清源院
 
三代藩主天祥院
 
四代藩主大廣院
 
五代藩主岱嶽院
 
六代藩主大機院
 
七代藩主真證院
 
八代藩主耀國院
 
九代藩主瑞徳院
 
十代藩主正國院
 
十一代藩主栄岳院
 
八代藩主斉稷養子斉衆(将軍家斉十二男)
 
五代藩主長子治恕
 
藩主の墓碑はみな位牌形に造られており、初代光仲だけは長文の碑文が刻されている。正面に法名「興禅院殿故因伯刺史俊翁義剛大居士 元禄六癸酉年 七月初七日薨」。 碑陰に峩岳蘭谷篆毫による「興禅院徳政之碑」の篆額があり碑文が刻まれている。二代藩主綱清の要請で、黄檗宗萬福寺五代、明僧高泉性敦が撰文したという。
池田西館:左から初代桂岩院、二代了義院、五代停雲院、七代譲徳院
 
右:池田東館 初代成徳院
 
鳥取藩家老で池田光仲、綱清に仕え、光仲の信任の厚かった和田式部三信(荒尾嵩就二男)の墓が墓所手前の左側に、また反対側の右側には光仲の側室上野厚恩院(京都山科守山朝忠女・勾)と上野忠親(厚恩院甥)の墓がある。
  
中央 厚恩院墓
 

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