立山墓地は青山墓地西南の小丘陵地で、
以前、ここは百人組屋敷内で「足(た)し山」と呼ばれた。
与力同心の居宅の外に足地(たしち)として
与えられた所で、たしやまと称し、今、立山と書く。
開設は明治五年七月、面積五千二百三十三坪あり、
青山共葬墓地区と別するため、立山共葬墓地と称された。
東京名所図会に「東隅に墓門あり、桐生寅次郎、鑰(かぎ)を掌る、
、、、、又、落葉を掃ひ、雑草を除く」とあり桐生氏が切開いたという。
この桐生氏の子孫の方とあった。祖父の話では会津藩士だったと
聞いているが、 古文書も残っておらず、はっきりした事は不明とのこと。
此の立山地区を明治初期に無償で東京府に供与したが
今、都による賃貸料増額もあり管理の更新を断られ、
立ち退きを迫られているという。
張り紙があった。今年1月で管理を止め、3月で移転とのこと。
先祖開拓以来の土地を離れる事となる。さぞかし残念なことだろう!!
ここ立山墓地には、容保公小姓頭浅羽忠之助三男の墓碑がある。
以前、ここは百人組屋敷内で「足(た)し山」と呼ばれた。
与力同心の居宅の外に足地(たしち)として
与えられた所で、たしやまと称し、今、立山と書く。
開設は明治五年七月、面積五千二百三十三坪あり、
青山共葬墓地区と別するため、立山共葬墓地と称された。
東京名所図会に「東隅に墓門あり、桐生寅次郎、鑰(かぎ)を掌る、
、、、、又、落葉を掃ひ、雑草を除く」とあり桐生氏が切開いたという。
この桐生氏の子孫の方とあった。祖父の話では会津藩士だったと
聞いているが、 古文書も残っておらず、はっきりした事は不明とのこと。
此の立山地区を明治初期に無償で東京府に供与したが
今、都による賃貸料増額もあり管理の更新を断られ、
立ち退きを迫られているという。
張り紙があった。今年1月で管理を止め、3月で移転とのこと。
先祖開拓以来の土地を離れる事となる。さぞかし残念なことだろう!!
ここ立山墓地には、容保公小姓頭浅羽忠之助三男の墓碑がある。
こちらのサイトでしたが、桐生氏は南部藩士には
おりますが、会津藩家臣団にはみあたりません。
私は「桐生」という苗字ですので、興味深く拝見
致しました。
2008年当時は、まだ桐生姓の会津藩士について不明でしたが、小倉藩による会津藩士東京謹慎の護送人名簿に桐生豊之助の名があり、明治三年の下北への秋起海行移住に桐生豊之助、明治14年旧斗南藩人名録に、野辺地村、桐生義一。三本木村、桐生定之助の名がありました。東京名所図会に記載のある桐生寅次郎と立山の同じ墓域にある桐生則一は明治八年の東京会議所掛人員各名録調に立山詰として記載がありました。明治初期、野辺地の桐生家と東京在の桐生家の関係は不明ですが、会津藩士に桐生氏がいたのは間違いないようです。
「桐生」という名があると、ついつい関連づけて
思いを馳せる癖がありまして(笑)
また何かと大佗坊様のブログにて学ばせて頂きた
いと存じます。
立山墓地の桐生花屋さんについては、新聞に立退きの記事が掲載され、慌てて訪問したように記憶しています。お話を伺ったのは若い方だったので多分息子さんだとおもいます。都による無縁墓等の撤去が推し進められていた時期で、たしか2008年の秋口に立山墓地を訪ねたとき、家屋は撤去され整地されていました。残念ながら桐生氏の消息は不明です