京都国立博物館の正面前庭に佐藤継信・忠信の塚であると伝えられた
二つの十三重塔がある。この多重塔をみるだけで博物館にはいった。
安永九年(1780)の都名所図会に、
「佐藤氏の兄弟ハ忠肝義膽の人にして
漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかゝやきて武士たらん人ハ慕ひ
貴むへき也此石塔婆昔ハ十三重と見たり
星霜かさなりて次第に崩れ落今ハ土臺の廻りに圍あり」
さらに
「継信・忠信の石塔婆ハは馬町北側民家のうしろにあり、
石の大塔二基銘曰永仁三年二月二十日願主法西とあり、一基ハ銘なし」と。
この塔は、継信が屋島で討死、京都で忠信が自刃してから
百年以上も後に建てられた。昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、
現在は京都国立博物館の前庭に十三重塔として復元移築されている
東山区馬町通東大路東入北側、70M程はいったところに
佐藤継信・忠信之塚、正六位政養之碑の案内石柱がある。
この石標は佐藤継信・忠信塚と伝えられる十三重石塔の跡を示すもので、
さらに石柱の脇を10M程奥に入ったところに、佐藤嗣信・忠信之墓があった。
この源義経家人、奥州信夫の佐藤兄弟に心が引かれる。
帰らぬ二人の妻、若桜・楓は、母乙和の悲しみを察し、夫の甲冑を取出し、
勇ましい姿で、乙和の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ」と。
乙和も二人の嫁の志を喜び、涙を止め、ほゝ笑んだという。
この「二人の嫁がしるし」には、
「女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かな」と芭蕉も涙したという。
二つの十三重塔がある。この多重塔をみるだけで博物館にはいった。
安永九年(1780)の都名所図会に、
「佐藤氏の兄弟ハ忠肝義膽の人にして
漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかゝやきて武士たらん人ハ慕ひ
貴むへき也此石塔婆昔ハ十三重と見たり
星霜かさなりて次第に崩れ落今ハ土臺の廻りに圍あり」
さらに
「継信・忠信の石塔婆ハは馬町北側民家のうしろにあり、
石の大塔二基銘曰永仁三年二月二十日願主法西とあり、一基ハ銘なし」と。
この塔は、継信が屋島で討死、京都で忠信が自刃してから
百年以上も後に建てられた。昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、
現在は京都国立博物館の前庭に十三重塔として復元移築されている
東山区馬町通東大路東入北側、70M程はいったところに
佐藤継信・忠信之塚、正六位政養之碑の案内石柱がある。
この石標は佐藤継信・忠信塚と伝えられる十三重石塔の跡を示すもので、
さらに石柱の脇を10M程奥に入ったところに、佐藤嗣信・忠信之墓があった。
この源義経家人、奥州信夫の佐藤兄弟に心が引かれる。
帰らぬ二人の妻、若桜・楓は、母乙和の悲しみを察し、夫の甲冑を取出し、
勇ましい姿で、乙和の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ」と。
乙和も二人の嫁の志を喜び、涙を止め、ほゝ笑んだという。
この「二人の嫁がしるし」には、
「女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かな」と芭蕉も涙したという。
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