ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

音程

2008年09月24日 | 音楽とわたし
8月丸っぽ+9月の今日まで休みだったコミュニティバンドの練習が始まりました。
先週の土曜日にちょっと吹いたとはいえ、サボりにサボってたので、唇がビリビリしびれています。
新年度の初回、かなりたくさんの新入りさんがいて、しかも金管楽器の低音族が増えて、響きがうんと豊かになりました。
やっぱり低音っていいわぁ~
どっちかっていうとキャラキャラしてるクラリネットのパートで座っていると、あの響きがとても心地良いのです

今日、初めての人達に挟まれて吹いていたのですが、ちょっと苦しかったのは音程のこと。
左横の、ナオミというアメリカン女性、もともと楽器が低めなのか、どんなにこちらで低く調整しても、どうしてもズレるのです。
こんな時、絶対音感があるってのはかなりマイナスになってしまいます。
吹いてる間中、とんでもない耳鳴りがしてるような状態になり、それだけでとても疲れてしまうのです。
途中でなんとか無視しようと頑張ってみたのだけど、彼女も久しぶりに演奏できて楽しそうだし、
そんな気持ちに水をかけるようなことはできないし、かといってこの耳鳴り、たまらんなあ~と思いながら吹いてました。

今からもう35年も前になるので、ひと昔どころかひと昔×3.5前の話です。
高校の新入生のクラブ勧誘の、かなり怪しいお兄さんに拉致されて、薄暗い部室の机の上に置かれた入部届けに名前を書き込んだあの日から、わたしのクラリネットとの付き合いが始まりました。
丁度、県のブラスバンドコンクールの入賞にこぎつけた頃のバンドだったので、練習はそれなりに厳しく、
けれども『やったるで~!』みたいな活気もあって、わたしはその雰囲気が気に入りました
朝早くから夜遅くまで(その頃の高校生は、夜8時ぐらいまで練習できちゃったんですね)、それから昼の休み時間も、
それからそれから、家に戻ってからも(あまりにうるさい音なので、分厚い掛け布団を頭から被って)練習していました。
まあ、あれだけやったらうまくなるのも当たり前なんですが、あの当時のわたしはかなり生意気で、1年生のくせに言いたいこと言うてたので、もしかしたらイヤなヤツだったかもしれません。
でも、15才の時に中二階から真っ逆さまに落っこちた事故の後遺症で握力が極端に低下してしまい、ピアノがろくに弾けなくなっていたので
そんな時にたまたまクラリネットが演奏できたのはラッキーでした。
家のごたごたも、継母の極端な意地悪も、後遺症のキツい治療も、やくざさんからの楽しい脅迫電話も、
なにもかも忘れて音楽の世界にどっぷり!
ピアノみたいにたった独りではなくて、大勢で一つ一つの音を布地のように織り込んでいくあの楽しさ、
自分がひとりぼっちじゃなくて、みんなと一緒で、目の前にある楽譜に集中しながら、指揮者や他の演奏者に気持ちを合わせる。
こういう音の楽しみ方もあるのかって、練習中に嬉しくなってきて、周りのみんなを見渡したりしてました

そのバンドでも、続きで入ったコミュニティバンドでも、それからたまに演奏させてもらった名古屋のオーケストラでも、
日本のバンドは、たまたまだったのかもしれないけれど、音程にとても厳しかったんです。
音程をきちんと合わせるのは当たり前。前提のまた前提。そういう世界で吹いてきたので、
こちらのコミュニティバンドの、合う時は合うけど、それ以外はまあしゃあないんちゃう?みたいな気風が気になって気になって、
なかなかのストレスになっているのが正直なところです
まあ、練習は毎週火曜日の7時から9時まで、仕事を終えてからのひと時なので、
そんな固いこと言わんと楽しもうや、と思いたいのだけれど、
あともう数ヘルツでいいから歩み寄ってくれません?なんて、やっぱり文句タラタラのイヤなヤツ、ですかね?


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今日の相方オヤジギャグ(付け足し)

2008年09月23日 | 家族とわたし
ついさっき、これで1万何千何回目かの食事(昼食)を一緒にしました。

「あのさ、日本の首相、また変わってんで」
「で、誰?」
「麻生さんっていう人」
「あ、そう……」
ええギャグかましたと自認する時特有の、小鼻ピクピク状態の旦那

無視して食事の片付けをしようと立ち上がったら、ガスコンロの大鍋が目に入り、

「あ、しもた!昨日蒸した栗、ずっと食べるの忘れてる!」とわたし。
「ああ、それはびっくり、がっくり」と旦那。
再び小鼻はピクピク、口元には、してやったりの笑みがうっすらと
毎日こんなのに付き合っている身にもなってもらいたいもんです
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相方

2008年09月23日 | 家族とわたし
昨日、仕事から帰って、今日のメインメニューのアジの干物を焼こうと、高い所に置いてある魚焼き器に手を伸ばしている所に旦那が帰って来ました。
椅子の上に乗っかって、グラグラしているわたしに向かって、
「お疲れさまです、失礼します、おかげさまでなんやらかんやら……」なんの脈絡も無い日本語を連発しながらお辞儀するので、
こりゃとうとう頭の線のどっかが切れたか?と思いながら見ていると、それで満足したのか、鍼道具の入った鞄を抱えて姿を消しました。

そして今朝、珍しく遅い朝食を一緒に食べていると、
「これで2人一緒に食べるの何回目?」と、彼の大好きな「いったい何回やったでしょうクイズ」が始まり、
わたしはハムとほうれん草入りのスクランブルエッグをもぐもぐしながら、真剣な顔で計算を始めた彼を眺めていました。
どうやら、1万3千回から1万5千回ということで、いやあ、すごいすごいとご満悦の様子
わたしは、ふ~ん、まだたったの1万回台かなどと思いながら、それが回数として多かろうが少なかろうが、どっちでもええやん、と再びもぐもぐ
いやしかし、この男、肝心な所の計算となるとノロノロしたりなんだかアバウトだったりするのに、
何回一緒に○○したか、という計算になると(そんな計算、なんでしたくなるのかよう分かりません)意欲満々、真剣そのもの。

起きている時だけではなくて、眠っている時にも、旦那のけったい度は上がります。
「ちょ、ちょっと、そ、それは違います!」
「ま、待ってください!」
「は、はは、はははは!」
夜中に、突然に、日本語でしゃべり出す旦那。しかも、日本語版寝言は、必ず吃りながら始まります。
さてみなさん、上記の文面から、いったいどんな場面を想像されますか?
まったく、ろくな夢じゃないというか、いったい誰に向かって言うとんねん?!と思わず夢の中に突っ込みたくなるわたし。

けったいな相方との暮らしは、まだまだ続きます

……なんて感じで今日の記事を締めくくろうと思ったのですが、昨日書かなかった、どちらかというと告白っぽいことをここに書き留めておこうと思います。

息子Kの事故の後、彼を看病しながら、わたしは心の中で自分に問い続けていました。
もしも、このままKが死んでしまったり、すごく大きな障害が残ってしまったりしても、わたしはこの人を許せるだろうか。
事故が起こった直後、わたしは心の中で彼に怒鳴りつけていました。
「わたしの子供に何てことしてくれたん!もしこの子に万が一のことがあったら……」
万が一のことがあったら……どうするのか、どうするつもりなのか、それをずうっと問い続けていました。

一世一代の決断をして、この男こそがソウルメイトだと確信して、それまでの人生をすべて置き去りにして、
それこそ、多くの人達を悲しませたり怒らせたり絶望させたりして選んだ道だったはずなのに、
ただ1度の事故があった途端、足下がおぼつかない、先も暗くて何も見えなくなってしまうだなんて……。

あの時、息子に万が一のことがあったら……。
どうなっていたか、そのことを何回考えても答が出ません。
答無しのまま、一緒に暮らして16年と半分が経ちました。
けったいで、時々本気でムカつかせられるけど、やっぱり一緒になって良かったなと思います。
息子達はどう思ってるか分からないけれど、こればっかりは仕方がありません。
強力な縁で息子として生まれてきちゃったのだから

なんてことを思いながら、昨日は書いておりました。
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辛いニュースを読んで思い出したこと

2008年09月22日 | 家族とわたし
1992年の5月、わたしと息子達は大津に移り、旦那は京都のアパートから通い夫&義理のとうちゃんをしに時々やって来た。
旦那は当時27才、異国の地での家族ごっこを始めるにはやっぱりまだ恐かっただろうし、
元夫や彼の両親が、息子(孫)逢いたさにやって来るかもしれなかった。
わたしも息子達も、田舎の家を物理的には出てきたけれど、心はまだまだいろんな影を追っていて、
天井近くに居座ったなんとも重苦しい空気は、窓をどんなに開け放しても、そこから出ていこうとはしてくれなかった。

息子Tが通う幼稚園を探している間、気分晴らしに、3人で公園という公園をはしごした。
長等公園、なぎさ公園、皇子山公園、それから町のあちこちにある小さな公園。

初夏のある日、4人で長等公園に遊びに行った。チビ達のお目当てはブランコ。
旦那は張り切って、TとKを順番にブランコに乗せ、いろんな押し方をして喜ばせていた。
ブランコは4つあった。わたしはその時、Kのすぐ横のブランコで足を地面についたままユラユラさせていた。
Kの乗ったブランコの両端に、仁王立ちの格好で乗った旦那が、Kを乗せたままゆっくり立ちこぎを始めた。
Kは大喜び。まだ4才にもなっていない彼には、そんなに大きく揺れることなんてできないのだもの。
でも……少し勢いがあり過ぎる。横でどんどん大きく振れていくブランコ。危ないよ!
急にとても恐ろしい気持ちになったその時、「こわい」……小さなKの声が耳をよぎった。

ハッとして横を向いたわたしが見た光景は、今でもわたしを震え上がらせる。
ほぼ真横まで上がった、その最上の地点で、Kの両手はブランコから離れ、彼は空中ブランコのサーカス団員みたいに、
上半身を逆さまにしたまま地上に向かって降りてきて、そこで1度、首が折れたかと思うほど強く頭を打ち、そのまままた上に上がって行った。
そしてその高さから地面に仰向けのままドスンと落ちた。
息もせず、ピクリとも動かず、Kは薄目を開けたまま横たわっていた。
わたしは自分でも聞いたことのない声でKの名前を呼び、周りにいる人に助けを求め、天を仰いで助けを乞うた。
すぐ横で、気が狂ったように叫ぶ母親と動かなくなった弟の姿を見ていたTも、声をあげて泣いていた。
旦那は自分のしたことにショックを受け、何も言わずに、近くにある日赤病院の方向に走って行った。
何分経ったのだろう。ほんの数分だったに違いないけれど、あの数分のどうしようもない静けさは、今思い出しても恐ろしい。

Kの唇が微かに動いて、「ウー」という小さな、けれども生きている証が聞こえた。
わたしは「生きてる!ああ神様、生きてる!」と叫びながら、彼の頭をそっと抱えようとした。
彼の頭の後ろ側の地面には、大量の血が溜まっていた。
仰天したわたしは、自分のTシャツを脱ぎ、それを丸めて彼の頭に当てた。
シャツにどんどん血が染み込んできて、わたしにはそれが彼の命が流れ出しているように思えた。

その間も、わたしはずうっと周りの人に助けを求めていた。
遠巻きに、それでも立ち去らずに見ている人達は、とうとう1人として近づいて来てはくれなかった。

旦那は日赤の救急窓口に飛び込み、日本語で説明したのに、彼の形相に驚いたのか、誰も理解してくれなかった。
困った旦那は、病院から出てすぐの駐車場に停まっていた夜勤明けの看護士の車に乗り込み、半強制的に車を公園まで走らせた。

Kの後頭部に空いた穴は大きく深く、砂がたくさん入ってしまっていたので、治療はとても残酷なものになった。
怪我が怪我だけに、24時間、深刻な状態が続いた。何回も吐き、ぐったりし、そのたびに彼の脈を探し求めた。

わたしはこの半年前に、息子Tを失いかけた。
離婚をはっきりと決めたのに、それを隠し続けながら元夫や夫の両親と暮らしていたあの頃、
生徒の発表会やコンクールのためのレッスンに忙しく、体調を崩していたTをちゃんと看てあげなかったばかりか、
こんな忙しい時に限って旅行に出かけた両親への腹いせに、ぐったりしているTを仕事場に連れて行き、椅子を並べて寝かせた。
その翌日、彼は家の廊下を歩きながら気を失い、運び込んだ病院で、重篤な肺炎と肋膜炎を併発していると診断された。

TもKも、わたしの身勝手な生き方のせいで、こんな目に遭ったのだと思った。
わたしに与える罰を、わたしがこの世で最も大切だと思う息子達を痛めつけることで強めているのだと思った。
息子達と離ればなれにされた人達の、その哀しみがどんなに強く深いものなのか、それをわたしに知らしめようとしているのだと思った。
どちらの時も、小さな、けれども温かな手を握って、ごめんな、こんなおかあさんを許してなと、心の中で謝った。

わたしはろくな母親ではないけれど、子供を殺さずに、子供に死なれずに今までこられた。
その幸運は、他のどんな幸運にも代えられない。
だからわたしは、一日の終わりに必ずありがとうと言って眠る。
これからも、わたしに最後の日が訪れるまで、毎晩ありがとうと言って眠りたい。

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米国野生動物事情

2008年09月21日 | 米国○○事情
そして再びいいお天気です。
家の五十路三毛猫ショーティものびのびと昼寝をしています。



息子Kは寿司屋のバイトに、旦那は最近末期の肝臓癌が見つかった友人のお見舞いに出かけ、
わたしは衣替え(ほんとは引っ越してからする予定だった……)の埃アレルギーに襲われ鼻水垂らしながら書き込んでます。

昨日、コネチカットではコヨーテや黒熊が庭に出没すると聞き、
いやあ、ニュージャージーではスカンクとアライグマどまりかな~なんて話してたら、
家のドライブウェイに入る所で、急にライトに照らされて呆然と固まるアライグマと鉢合わせしました。
彼らは夜行性で、結構おっきくて力も強く、時に凶暴になるので、動物園のノリで近づいたりしてはいけません。
大人ひとりでは持ち運べないサイズのゴミ箱の、しっかり閉めてあるフタを開け、
夜な夜な食べ物を物色するのが得意です。

どちらかというと、彼らがのんびりと暮らしていた場所に、人間がドカドカと勝手に入り込んできて、
そればかりか、好きな様にあちこちいじくり回したり変えちゃったりしているのだから、
向こうには向こうの、語り尽くせない言い分ってのがあるんでしょうけどね。

アメリカ郊外の町の、夜の庭には、いろんな野生動物がやって来て、きれい時の花をパクパク、熟れ時の野菜をガブガブ、
それらを丹誠込めて育てている人達を大いに悩ませ泣かせます。

人間と自然と動物の共生は、可笑しくもあり腹立たしくもあり、いいこともあり困ることもあり、
これはまあ、自分以外の人間と共生するのと、似たようなもんなんですけどね。

あ、突然思い出しました。
うちの、前にもお話しした、どうしようもない不良リス達、
旦那の証言によると、わたしの車をウ○チまみれにしたのは、他の誰でもない、彼らなんだそうです。
ある日の夕方、家の後ろ側にあるトイレに入ってたら、聞いたこともないトントンという音が聞こえてきたんだそうです。
なんだろな?と思って小窓から外を見てみたら、
ガレージ前の車の上で、リスが数匹、ウ○チをポロッとしてはその周りで小躍りしてたって……(ウサギさん代行)。
ほんまかいな???
かなり疑わしい横目で見たんですが、旦那はあくまでも真面目顔。「ウソじゃないで、マジでほんまやで」と繰り返します。
「両手上げて飛び跳ねてたん?」と、身振り手振りで聞くわたし。
「いや、手は胸の前やった」……。
ま、ヤツらの手がどこにあろうが別にどうでもええことですが、あの擦っても擦っても固まって落ちんかった超頑固ウ○チ、
おのれ~確信犯!逮捕しちゃる~

おいおい、さっきまでええ格好言うてたくせに……ま、わたしはこんなもんですね。
そろそろ衣替えの続きやろっと。
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なかなかの土曜日

2008年09月20日 | ひとりごと
表示された気温は9月の下旬にしては低いけれど、秋のスパイスの効いた陽の光がなんとも気持ちいい日

アッパーモントクレア(お金持ちの中のお金持ちな人達が多い区域)でサイドストリートフェアってのが行われ、
そこでちょっと余興をしてくれってんで、コミュニティバンドの1員として出かけたんですが、
いつも一緒に練習している60人あまりのメンバーのうち、集合したのはたったの7人?!
トランペット3人とクラリネット2人、そしてテナーサックスとユーフォニウムが1人ずつ、ピッコロ奏者が指揮……。
なんぼなんでもコレじゃバンドの音にならんのとちゃう
胸をズキズキさせながら周りにいるメンバーの姿を追うと
そりゃもう幸せそうな顔して、演奏会場の広場で売ってる巨大ホットドッグを頬張ってたり、
古いLPレコードの掘り出し物を見つけてウホウホ喜んでたり……、ひとりで悩んでるのがアホらしなりました
これがあの、ステージの上でマジな顔して、それなりの演奏を聞かせるバンドのもうひとつの顔なのね。
ま、7月4日の独立記念日パレードでも、トラックの荷台で超適当に演奏してたんですけど……。

家に戻ってシャワーを浴び、旦那と一緒に、最近知り合ったK子ちゃん一家に会いに、コネチカット州まで行ってきました。
コネチカットなんて、ついこないだまでは、できたら死ぬまでに数回、観光とかで訪れるかも、みたいな場所だったのに、
好きな人が住んでるってことだけで、こんなに近くなるんですね。
距離とか時間とかは、心の感じ方次第で、長くなったり短くなったり……
実際、高速を乗り換えて行くので(しかも無料)、渋滞にさえ巻き込まれなかったら1時間半もかかりません。
これはアメリカに住んでいたら、近所と言える範囲。

K子ちゃん一家とうちの共通点は、子供が2人、女房が年上、アメリカに移り住んでから旦那が3年間学校に行き直し資格を取ったこと。
年は向こうの方がめちゃんこ若いし、子供達もこれから花咲く5才のふたご姉妹。そしてデカくて元気なブラックラブのコア君。
日本から遠く離れた場所で、もし日本国内で出会っていても好きになっただろうと思える人が見つかった時の嬉しさは、
とりあえずそういうことは期待しないでおこうと思っているだけに、格別のものがあります

集まったのは、初対面の同名K子ちゃん一家を含めて4家族。わたし達以外は皆幼い娘2人のおとうさんおかあさん。
日が暮れて寒くなってきたので、キッチンに入って何の気無しに話しているうちに、
ポロッとこぼれた妻の昔話にうろたえる夫、相変わらずアホをかます夫、極めて日本的年齢感を口にして睨まれる夫etc、
全員関西人の4人の妻達は、自分のも他人のもかまわず突っ込みまくり、楽しい時間を過ごしました。

家の売り主やオイルタンクの担当者がバカンスでふ~らふらしてくれているおかげで、
今だにこうやって楽しく週末を過ごすことができます……なんて言うてる場合か
2階に住む大家さんが、こんなことを了解してくれる気のいい人達だから済んでるものの、
ほんま、ええ加減に、せめて家の権利書だけでもわたし達の手に入れたいもんです……ね


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楽と辛抱

2008年09月19日 | ひとりごと
今年から高校生になったブライアン。今は遥か頭上を見上げなくてはならない長身の、とてもハンサムな男の子。
彼の髪が金色のくりくりだった10才の頃、わたしは彼のピアノの先生になった。
彼の家はお金持ちで、音楽好きで、子供達のためになることなら、なんでもさせてあげたいと思う両親のもと、
ブライアン、妹のジュリア、末っ子のラナは、真っすぐに、すくすく大きくなった。
途中から、とてもシャイなジュリアも生徒になり、小さなラナも生徒になりたがったけれど、
ピアノはちょいと微妙な習い事で、生徒になりたいだけではなれないワケがあるので、ラナはただ今浪人中。

昨日、ブライアンを教えに彼の家に行くと、のっけからドヨ~ンと暗く、姿勢まで悪い彼。
これはなにかあるな、と思い、彼の言葉を待っていると、
「もう僕はヘトヘトに疲れた。学校の宿題、テスト、プロジェクト、毎晩しなければならないことが山のようにあって、僕はちゃんと眠ることもできない。
でも、陸上もちゃんとやって、いい記録を出したい。フェンシングも頑張って試合に勝ちたい。
オーケストラの練習も休みたくない。そしてピアノだって続けて、これからもまうみに教えてもらいたいんだ」
と一気に言って、深いため息をつき、もともと丸い背中をもっと丸めて頭を抱え込んでしまった。

16才になったばかりの子が、ここまで疲れてどないする。
でも、わたしの生徒達に限って見渡してみても、どの子もかなり疲れている。
この町に住む子達は、どの子もみんな複数の習い事に関わっていて、
子供だけじゃなく親(特に家に居る方の親)も、送り迎えの複雑なスケジュールに振り回されている。

「オッケーブライアン、あんたの事情と疲れは、わたしには助けてあげられることじゃないからなにもできない。
今わたしにできるのは、ピアノをあんたと一緒に弾くことだけ。なんか弾こうよブライアン」

眉間の縦じわが消え、ちょっぴり頬が緩んだブライアン。一緒にメイプルリーフラグを弾きながら思い出した昔話。

もう40年以上も前の話。
当時3才だったわたしは、5つの習い事に夢中になって通っていた。
その頃商売が当たって羽振りの良かった両親は、わたしがやりたいと言った事はなんでもさせてくれた。
その5つとは、お琴、バレエ、絵画、英語、ヤマハの教室。ヤマハの最初の2年間以外は、すべてひとりで通った。
今から思うととんでもないことだけど、大きなお稽古鞄をブラブラさせて、幼児がひとりで町を歩いていても大丈夫な時代だった。
そこに行きさえすればなんとかなる習い事だったから、時間のたっぷりある幼児には楽々、ただただ楽しかった。
ところが、8才の誕生日の1週間前に、両親に呼ばれ居間に行くと、
「おまえももう8才になる。8才というともうおっきな子供や。そやから今まで習わせてあげてた5つの習い事からひとつだけ選びなさい。
そのかわり、選んだ事には5つ分のお金を払てあげるから、一所懸命練習して、有名なプロになって、お金を稼いで、払てもろたお金を返すこと。これが約束」
えらいことになった。商売人の両親の、お金に対するシビアな考えを子供ながらに分かっていたので、
7才と11ヶ月と3週間余りの脳ミソで、丸々1週間ウンウン考えた。
選ぶということは、諦めなければならないってことだと、生まれて初めて気がついた。
どの教室も、独特の楽しさや面白さ、そして光や匂いがあり、削除するには堪え難い思いをしなければならなかった。
でも、有名なプロになれたとして、それで両親に返せるだけのお金が稼げるとしたら……ピアニストっきゃないやん。
それで選んだピアノだった。

ま、実際の話、両親はその5年後に離婚して、そんな約束をしたことなんかすっかり忘れてしまっていたし、
倒産やら借金の取り立てなどで、家財道具と一緒にピアノもしっかり持ってかれちゃって、
それでまあ、ある意味、わたしの気分も軽くなったっていうか、返さんでもええやんって思えたっていうか……。

で、いろんな事情で間が空いたけれども、結局は続けられたピアノ。
こりゃかなりヤバいという事態に陥ると、必ず現れた救い人のおかげで、わたしは今もピアノを弾いたり教えたりしていられる。

ひとつに絞っても絞らなくても、なにかを末永く続けようとするのはとても難しい。
暮らしの中には、とても細かい用事が存在しているし、予定外の始末しなければならない事が突然出てきたりする。
いつものように、同じことを繰り返すだけでもなかなか大変なのに、そこに別なことが加わるのだからそりゃもうしんどい。

やっぱどうしても好きやもん。
この気持ちが、年令に関わらず、心に深く根を張っているかどうか、そこがポイントのような気がする。
その子、あるいはその人が、その根の存在を感じられた時、それを枯らさないよう、自分で方法を探り見つけようとする。

ブライアンの根が、学校の勉強であっても陸上であってもフェンシングであってもどちらかの音楽であってもいい。
彼の心が決めて、彼の体が応える。それが1番大事。

『楽』は楽には得られない。
手当たり次第、面白そうなことにチャレンジしてみるのはわたしも大賛成。
けれど、時間は限られているし、体もひとつと限られている。
いろんなことをかじってみるのが楽しい。それもいい。
でももし欲が出てきたら……じっくり自分と語り合い、身の回りを整理することを勧めたい。
やっている本人も、やらせている大人も、なんでも豊富に揃っている時代だからこそ、
選ぶこと、絞ることが、とても粋で大切なことになるんじゃないかしらん。





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嗚呼VACATION!

2008年09月18日 | お家狂想曲
いろいろと世の中がひっくり返っている最中ですが、わたし達は引き続き家を買っているわけで……、
手付け金を払ったりローンを組んだり、ちょこちょこ荷物をまとめてみたり、
とりあえず引っ越しするんだぞ!と自分に言い聞かせるつもりで、あれこれやっているわけです。

んで、今わたし達はいったい何を待っているのか分からんようになるぐらいの日にちが経ったので
旦那と二人、ウンウン唸って思い出しました。
ああ、そうそう、地中に埋もれてるタンクを出して、その後に土の検査とかをして、
もし汚染とかが認められたら完全に浄化したという証明を、町だか州だかの役場にしてもらってるはずだわと……。
けれども、妙に静かだし、なんの音沙汰も無いので、いつものように弁護士ステュアートに聞いてもらったら……、
あのね~、ほんこないだ、バケーションから帰って来たとこなんよ~
そんでね~、わたし達がタンクのこと頼んでる担当者がさ~、今バケーション中なんよ~、うふふ!
みたいなメールが戻ってきて……

おらおらおらぁ~!おめぇ~ら、いったいどんだけ休暇取ったら気ぃ済むねん
どいつもこいつもふざけやがって、一言断ってから行けっちゅうねん

いきなり沸騰してクラクラしましたが、落ち着いてから考えてみると、
このとんでもない引き延ばしは、もしかしたら幸運につながるかもしれません。
ちんたらちんたら待たされている間に、世間の事情は一変しました。
ローン会社はほんの3日前まで、まだまだ強気でいましたが、今はかなり顔色が冴えません。
もしかしたら今日の政策発表で言われてた、金融機関から不良債権を買い取って処理する公的機関(整理信託公社)設立が実現し、
今はまだ下げへんで~と頑固に言っていた金利が下がる可能性が出てくるかもしれません。
そうなると、我々が30年かけて払わなければならないローンの金利にも影響が出ると思われ……、
そう考えるとこのでんでん虫作戦、もしかしたら吉と出るかも。

物事、明るい方に考えると、眉間のシワも消えて、眉毛の間も広がります。
眉毛の間には心の目があるので、そこを明るくすると、あらあら不思議、胃のあたりがスッキリ!

今夜は旦那と二人で、久しぶりに広げ合いっこをしてみました。
あくまでも自分で、おでこと眉の辺りの筋肉を駆使することが大切です。それと、広げると同時に笑顔ね。
一度、騙されたと思ってやってみてください。
心(みぞおちの辺り)がすぅ~っとしますよ
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汚染心

2008年09月17日 | ひとりごと
儲かったらそれでいいのね。

そのお米がどこに流れていって、どんなふうに加工されるかなんて、全然関係無いのね。

その粉ミルクを飲んだ、まだ生まれて間もない、内蔵もしっかりしていない、そしてそのミルクだけが命綱の赤ん坊に、
もしかしたら悪い影響が出るかもしれないなんて、思いもしなかったのね。

なんだかもう、あまりに想像力が欠落し過ぎているのが恐ろしいです。
金儲けのことだけしか頭に無かったとか、
それとも自己保身とか……、
まあ、あんなことを考えたりしたりする連中の頭の中を想像しても仕方がないけれど……。

長くなりますが、1955年に発覚した森永ヒ素ミルク事件の概略をここに載せておきます。

『森永乳業は1953年頃(昭和28年)から全国の工場で乳製品の溶解度を高める為、
安価であるという理由から工業用のヒ素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していたが、
1955年に徳島工場が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物・工業用の第二燐酸ソーダ中に不純物としてヒ素が含まれていたため、
これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。

1955年当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。
1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ事件として発覚することとなる。

1956年当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は12,344人で、
うち死亡者130名と言われているが、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。
また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。

患者は、現在も脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神疾患等の重複障害に苦しみ、
手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。
また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に封じ込められたりした被害者や、
ミルクを飲ませた自責の念で、今なお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多い』


わたしは1957年生まれです。母乳ではなく、森永の粉ミルクで育ちました。危機一髪だったんですね。
で、森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことでした。
今の時代だったら考えられないことです。

そんなこともあって、粉ミルクのことはなんとなく胸につっかえる事柄だったのですが、
息子達が生まれた時、母体としてのわたしはほとんど生き残れるかどうかの瀬戸際状態だったので、
母乳どころではなく、粉ミルクを与えなければなりませんでした。無念でした。
なにも根拠は無かったけれど、粉ミルクの成分内容を異常な熱心さで調べた記憶があります。
母乳で育てられない哀しさと、粉の本当の内容を知り得ることができない焦り、
そこに、自分のかけがえのない小さな赤ちゃんが、みるみるうちに容態が悪くなり重篤に陥ったりしたら……、
わたしなら、特に赤ん坊を産んで間もない、心も体も本調子ではなかったわたしなら、きっと気が狂っていたかもしれません。

悪いことをしてはいけません。
せめて、これらのことから学んで欲しいと思います。
っていうか、わたしは単純で少々過激なことを考える癖があるので、こう思ったりします。
悪いことをした人は、自分がしたことをそっくりそのまま自分にするっていう刑があったらいいと思うのです。
ミルクを汚染した人は、自分の主食を汚染して、それを毎日毎食食べ続ける。
汚染された米を流した人は、そのお米を毎食必ず1膳以上食べ続ける。
自分がしたことがいったいどんなことなのか、1番分かり易くていいなと思うのですが……いかがでしょうか?
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『流血の日曜日』翌日

2008年09月15日 | 世界とわたし
リーマン・ブラザーズが破綻し、バンク・オブ・アメリカがメリルリンチを買収し、そこには兆の桁の紙幣がヒラヒラ~
低所得者向け高金利型住宅ローンという、名前からしてけったいで意味不明なローンが破綻して始まった経済危機は、
こんな小さな街角で、小さな家を買おうと奮闘している小市民にまで、薄気味悪い影を落とします。
総資産65兆円の会社が、いったいどんなふうにアホを重ねたらコケるのか、経済オンチのわたしには想像もつかないけれど、
旦那が話をしに行った住宅金融公庫のどこもが複数の調査機関を使い、
こいつらにお金を貸しても大丈夫なのかどうか、徹底的に、いやらしいほどに、わたし達のことを調べているんですね~。
こういうのを、とんだとばっちりを受けるって言うんでしょーか

あ、でも、少しだけ嬉しいこともありました。あくまでも、わたし個人としての小さな幸せです。
ニューヨーク円が上昇したので、家にある、わずかではあるけれど円をかき集め、銀行にダッシュ
最初に出てきた為替が納得できなかったので、ダメもとで交渉してみたんですね。
「日本の新聞で毎日のように円の動向を見てるんですけど、ほら、昨日のアレがあったでしょ、
(ここで銀行マン、意味ありげにニヤリ。なるほど、他所の火事は嬉しいのね、と心の中で皮肉るわたし
んで、今日はひとつのチャンスかな、とド素人のわたしなんかは思うのだけど、
やっぱエキスパートのあなたにしか分からないんでしょうね、こういう世界のことは」
なんて言いながら、すがるような目で見つめてみたら、増えちゃいました、ドル
でも……なんで増えたんでしょうね……言うたもん勝ちの国だとはいえ、銀行で両替って時にそれはちょっと……。
これまでに円をドルに換える毎に、えらい減るなあっていう印象でしたが、
もしかしてぼったくられてた?やめとこ、考えんとこ。

こないだのコンサート当日、リーマン・ブラザーズのビルを見上げながら、
こんな立派なビルでも、今頃中は大変なんやろなあ、と思いながら通り過ぎました。
今時の世の中、倒産もリストラも、別に珍しくもないことだけど、家族としてどちらも身近に、しかも何度も経験したので、
あのキツさと暗さを、今まさに抱えなければならなくなった家族や個人のことを思うと、たまらない気持ちになります。
 
物事や会社や国が大きくなり過ぎた時、それらの上に立って司る人達は、よほど賢く、狡くなく、冷静でなければなりません。
彼らがバカで、強欲で、本質を見失うほど興奮してしまうと、その歯車が巨大なだけに、狂気が広範囲に蔓延してしまいます。

地球がずいぶん病んでいて、その大方の原因を何の反省もなく作り続けている巨大国アメリカ。
どうやら自然の神は、気にもとめていない振りをし続ける利己主義なこの国を懲らしめるには、
ハリケーンや竜巻だけでは足りんのだな、と思ったのかしらん。
『流血の日曜日』なんて、呑気に名前つけてる場合かね?アメリカよ

P.S.
日本の新聞に、バンカメっていう名前が盛んに出てきて、それを読むたびにわたしは、夜な夜な徘徊しているさんを想像してしまうんですね。
名前や言葉を省略するのは日本の得意芸だけど、なんだかな~
Bank of Americaとバンカメの間には、深くて暗い河が流れているように思うのはわたしだけ
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